名残の桜・中
「デザートは別腹だよね」
白い漆喰に淡い茶色の煉瓦を飾りに貼った結婚式用のチャペル。その庭には大きなエドヒガンの桜の大木が白い花を満開に咲かせていた。根下にはぐるりと円を描くように花壇が設けられ、赤や白や紫や黄色のパンジーが植えられている。そんなチャペルと美しい庭が眺められるホテルのレストランで、シオンと静香はお昼ご飯を終えデザートに突入していた。
白いプレートにバイキングのデザートコーナーのケーキやゼリーやプリンを満載に乗せて頬張るシオンの前で、静香もイチゴのショートケーキやタルト、アイスクリームやクレープ等、イチゴをふんだんに使ったデザートを食べている。半分食べれば胸焼けを起こしていた生クリームたっぷりのケーキが今日はすいすい入る。好きなだけ好きな物を食べられる幸せをあらめて感じながら、静香は庭を眺めた。
「変わってないのは、あの桜の木だけかしら」
樹齢百年を越すエドヒガン。ソメイヨシノより白っぽい花をつけた大木の下は散りゆく花びらで白く染まっている。
「うん。もう五年前に、このホテル、大幅改装したからね」
少子化と多様化する結婚事情に式場を改装し、チャペルを建てたのだ。青い空に金色の鐘が光っている。
「ご飯が終わったら、中庭に行こう」
「良いんですか?」
「うん、今日はブライダルプランの展示会をしているから」
「でも……」
どう見ても、自分達は結婚にはほど遠い少年少女のカップルだ。腰が引ける静香にシオンはプリンを頬張って、にっと笑った。
「大丈夫。ここの支配人は
その伝手で、自分達も他のカップルに混じって中庭に入れて貰えるらしい。
「玄さん?」
「ボクの先生兼おじいちゃんかな? まあ、そういうと『儂には、こんなお調子者の孫はおらん』と文句を言われるけど」
シオンが楽しげに笑った。
「……もう長く会ってないわ……」
ぼそりと静香が呟く。
「うん? 何か言った?」
「いえ、何も」
静香は黒髪をさらりと揺らすと、小さく首を振った。
青空にくっきりと浮かぶ白い花びらが風の吹かない中庭に、ひらりひらりと枝から離れ散る。
「この小道は昔のままだわ」
式場から披露宴会場に移る、灰色のすり減った石畳の道。他のカップルと共に、その道を歩きながら静香は桜を見上げた。
桜が舞い散る道を、ゆっくりと羽織袴姿の新郎と角隠しを被った花嫁が歩く。重い花嫁衣装にぎこちなく歩いている花嫁の手を花婿が取る。
目の前に鮮やかによみがえる思い出の、あの幸せな一日の光景に昼の桜がやむことなく花びらを舞い散らせていた。
値千金の名に相応しい桜の光景が広がっている。夕日の光を弾く川の流れ。その両脇の堤防にずらりと並んだ桜の並木が、ここでもちらちらと花びらの雨を降らせていた。川面に落ちた花びらが、水流にもて遊ばれながら下流へと流れていく。歌に詠まれそうな美しい光景を静香は黙って眺めていた。涙で濡れた目元が白い頬が夕日の光にきらりと光る。
『……全く、一度も謝りにも見舞いにも来なかったくせに、あの息子夫婦、亡くなった途端、朝一の列車でやってきた』
少し離れたところから彼女を見守るシオンの耳に、スマホを通してポン太……もとい法稔の苦り切った声が聞こえる。
『死亡届が欲しかったんだ。アレがないと、どれだけ銀行にお金を預けているか調べられないからな。嫁が医者から死亡届を貰った後、すぐに銀行に向かった』
「なんで、そんなに薄情なんだろうね」
今日一日見た感じ、静ちゃんは優しい良いお母さんだったようだけど。シオンの言葉に、はぁ~と重い溜息がスピーカーから聞こえた。
『息子の方はそれほど薄情には見えなかったけど、嫁がな。朱に交われば赤くなるっていうじゃないか? お玉姐さん曰く、男は嫁で変わるものらしいし』
先輩の言葉を出して嘆く友人にシオンは苦笑した。
「じゃあ、この後は……」
『二人の最後のデートの場所だった丸山城に行ってくれ。私もそこで合流する』
「解った」
通話が切れる。シオンはスマホをしまい込むと、桜の下から微動だにしない静香を見、茜色に染まる夕空を見上げた。
『本当に静香さんは桜がよく似合うね』
あの日の優しい声が聞こえる。
『ありがとう』
自分のはにかんだ声が答える。
静香の脳裏に浮かぶ、桜並木の下をゆっくりと歩く若い男女のシルエット。その上を夕刻の桜がはらはらと舞い降りていった。
夜道を光るバスの窓が遠ざかっていく。小高い山の頂上にある天守閣は、この時期はライトアップされ、桜の花が雲海のように周囲を覆っていた。
「綺麗……」
今日何度も言った言葉を静香がここでも口にする。
「行こうか」
シオンが白い手を取って、天守閣に続く山道を登り始めた。
春とはいえ、夜はそれなりに冷え込む。あのときは二人で防寒にもこもこに着ていたのに、今はこの薄い格好でも少しも寒くない。それでも、登り道の踊り場に設置されていた自販機で缶コーヒーをシオンが買ってくれた。コーヒーの缶を両手で包み込むと暖かさがじんわりと広がる。
「今日は本当にありがとう。シオンくん」
夜闇の中、静香が礼の言葉を紡ぐ。
「思い出の桜を一緒に回ってくれて」
最初にいた公園は子供の頃、親といつも花見をした桜。次の二つの山のある広場は結婚した後、息子を連れてよく行った桜。チャペルのあるホテルは結婚式を挙げた桜。夕方の川縁の桜並木は、初めて夫とデートした桜。
そして、ここは夫と最後に訪れた桜だった。
「いや、ボクはポン太に教えて貰ったとおりに回っただけだよ」
スマホを手にシオンが振り向く。「朝のメールでポン太が静ちゃんを、ここに連れて行って欲しいって、思い出の場所を教えてくれたから。だから、お礼はポン太に言って」
石段を登っていくと広場に出た。桜がぐるりと囲む天守閣が間近に見える。
「あのときと全く同じだわ……」
もう何年も経っているのに、城も桜も思い出の中そのままにある。息をついて見上げる静香の後ろで、シオンが時間を確認した。
「そろそろだな……」
呟く。出汁の良い匂いが夜風に乗ってやってくる。
「おでんだ」
闇の中、夜桜見物を当て込んだ屋台がいくつも出ている。その一つが暖かそうな白い湯気を漂わせていた。
「美味しそう……。静ちゃんも食べる?」
「ええ」
そういえば、あの夜も夫と二人で暖かい缶コーヒーを飲みながら、おでんをつついた。
「じゃあ、買ってくるね」
屋台に走る少年の背に静香は感謝の笑みを浮かべた。
「この上の展望台の広場で、ポン太が君を待っているんだ」
おでんを食べ終えた後、二人は展望台に向かって山道を登っていた。じゃりじゃりと砂利を敷き詰めた道を二人の足音が響く。
「ポン太さん、怒ってないかしら……。私、朝、彼から逃げちゃったから……」
静香が申し訳無さそうに肩を竦める。
「あ~、そうなんだ。でも、大丈夫だよ。そういうのポン太達にとっては日常茶判事だって言ってたから」
でも、後で先輩達にどうして先に結界を張り巡らせておかなかったんだって叱られたらしいけど。苦笑するシオンに、静香は身を縮込ませた。
「……ちゃんと、謝らないと」
そのとき、砂利を踏む足音が明らかに増えた。後ろを伺い、シオンが舌打ちする。
「折角、ほのぼのエンドで見送ろうと思ったのに……」
静ちゃん、こっち。シオンは静香の手を引くと脇道に入った。ポツリ、ポツリと古い水銀灯が砂利道を照らす細い道。知る人ぞ知る、この山の中腹にある名園に続く道だ。そこは小さな池があり、藤棚やツツジが植えられている。昼間は訪れる人もいるが、夜になるとこの暗い道のせいか、ほぼ無人の状態だった。
「水気のあった方が戦いやすいし、人目のあるところはマズイから」
シオンが口早話すのを聞きながら、静香は黙って後を追って走った。人の気配が遠のくと、何故、シオンがこんなに急いでいるのかが静香にも解る。水銀灯の明かりが闇の奥に見える。白い光の中、桜がぼんやり浮かび上がる。小さなお堂にこんもりとした丸いツツジの植え込み。微かに水の匂いが辺りに漂っていた。
「ここにいて」
お堂の前に静香を立たすと、シオンが彼女を背に追ってきた者達と向かい合う。
「けっ、自分から、こんなところに逃げ込むとはな」
じゃりじゃりじゃり、足音がして見た目シオンより一、二歳上らしい、いかにもスレた少年三人が闇の中から現れた。シオンが軽く身構える。
「要求は何?」
低い声で訊くシオンに少年達が笑う。
「金に決まってんだろう? それと、その女の子を置いてきな」
「なんだったら、お前も混ざるか?」
ひやっひゃっと引きつるような下卑た笑い声が響く。シオンは軽く周囲を伺って、突然走り出した。
「でぃ!!」
短い掛け声と共に小柄な身体が飛び、綺麗な回し蹴りが手前の少年のこめかみに決まる。
じゃり!! 音を立てて地面に降りると、どうと後ろで倒れる少年に振り返りもせず、低い姿勢のまま前にダッシュする。拳を構え唖然としている、もう一人の少年の鳩尾に叩き込む。悲鳴を上げることすら出来ず「ぐぇ……」と嫌な息を吐いた後、少年は砂利の上に倒れ込んだ。
「てめぇ!!」
ようやく我に返ったらしい三人目の少年が上着のポケットからナイフを出す。だが、その間を待っている相手ではない。少年がナイフの刃を開いたときにはシオンの身体は彼の懐に入っていた。
「どぉりゃ!!」
ナイフを持つ腕を掴み、背負い投げの要領で投げると地面に叩きつける。少年の手からナイフが飛び、動かなくなった。
「すごい……あっという間」
息を飲む静香に「ボクは正規の訓練を受けた兵士だからね。こんなのに遅れを取ったら、班長にドヤされる」真顔で返す。そのまま警戒を解かずに闇を睨んだ。
「いるのは解ってるんだ。出ておいで」
チカッ、チカチカ……。水銀灯の光が瞬いた後、すっと消える。
「やだ……」
思わす声を上げた静香をシオンが制す。
「大丈夫。今の静ちゃんなら真っ暗でも『見える』から」
静香は一度目を閉じて、また開いた。確かに昼間ほどくっきりとでは無いが、周囲の景色が見て取れる。
「……そうだったわね」
私はもうこの世の者ではないんだから。小さく呟いた静香の前で、シオンが、もう一度闇に声を掛けた。
「出て来い」
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