水島瑞希の矛盾①


 大きく息を吸って。

 小さく息を吐く。

 そんな簡単なことが苦しくて、痛くて。

 涙が出そうになっては歯をくいしばって我慢した。


 でも我慢しても我慢しても、この苦しみからは逃れられない。

 楽にならない。

 苦しい―――。

 痛い―――。



 ああ、疲れた。



「――――あ、ぶなぃ………っ!」


 ぼんやりと歩いていたあたしの手首を誰かが思いっきり後ろへ引っ張った。


 無防備な体が後ろの人を巻き添えにして尻餅をついたとき、甲高い警笛音が耳につんざくと同時に電車が目の前を勢いよく通り過ぎていく。風で揺れる髪が鬱陶しくて抑えながら、それを呆然と眺めていると「大丈夫ですか!?」と駅員らしき男性が駆けつけて声をかけてきた。


「ぁ」ぼんやりとしていた頭の中が、急に鮮明に動き出す。

「え――、あ、あれ……? あたし、なにやって………?」

 急激に血の気が引けてぞわりと鳥肌が立った。


 あたし、え、今死にかけた?


「だぃ、じょうぶ……?」後ろからかけられた声に咄嗟に振り返る。

 黒縁眼鏡に無造作に伸ばされた長髪が顔に纏わり付いてて顔はよく見えない、が声とその人が着ている厳つい熊がプリントされたシャツを押し上げる暴力的なまでの豊満な膨らみを見れば女性の人であることは間違いないだろう。歳は同じくらい、かな?

 どうやら彼女が助けてくれた人っぽい。


「す、すみません! ぼんやりしてたみたいで……ありがとうございます、助かりました」

「い、いえ………咄嗟、だったんで………………その、無事で、あ、ありがと、うござぃましゅっ」

 あ。顔がリンゴくらい真っ赤になった。


 恥ずかしそうに俯く彼女に思わず笑みを浮かべていると「二人とも怪我はありませんか? 救急車呼びます?」駅員さんの心配そうな呼びかけに慌てて手を振った。

「大丈夫です大丈夫です! あたしの不注意で、本当にすみませんでしたっ!――あ、貴方は怪我ないですか?」

「だっ、だぃじょ、ぶ。です」

 噛むところとか視線が合わないところとか、コミュ障っぽいところがなんだか“かきくん”っぽいなと内心微笑ましい。


 和みそうな気持ちを抑えて駅員に再度謝り、尻餅で汚れたスカートを叩いて払いながら立ち上がって周囲を見回す。……通勤通学時間より少し早いとは言え、それでも人混みは多い時間帯。迷惑そうに眉を顰める顔、興味に引かれて眺めている人、スマホで今のことをSNSで呟いているっぽい人が見受けられる。


 今更ではあるが女性の方も注目されているのに気付いて、少し顔色を悪くして俯いてしまった。ここだとちゃんとしたお礼も言えないなと思って、今度はあたしが彼女の手首を掴んだ。


 ―――あ、あったかい。

 前にかきくんの手首を掴んだときは、緊張したのもあるだろうけど冷たかった。……それはそうか、この人はかきくんに似てるけど、ちゃんと別の人だもんね。


「時間、大丈夫ですか? 改めてお礼させて欲しいんですが」

「は、はぃ……お、かまい、なく」

 この人は本当に面白い日本語使うなと思いながら、その手を引いて人混みを掻き分ける。

 改札を抜けてすぐ横にあるマジドナルドへ入って飲み物だけを注文して受け取ると、適当に空いてる席へと移動した。


 あたしはホットコーヒー。彼女はアイスティーだ。

 そろそろ梅雨も明けて夏に差し掛かる時期、蒸し暑い外から冷調の効いた店内は少し肌寒く、寒暖差に身震いするとコーヒーを口にする。うん、あったかい。


 目の前の彼女を見れば、ストローをぐるぐる回して氷をカラカラ鳴らしながら、その瞳は緊張のためか忙しなくうろついていた。小動物みたいな人だなぁ。

「あの」落ち着いたところで声をかけたつもりだが、彼女は驚いたように肩を跳ねさせて「はひ」と謎の返事をしてくれた。あ、また顔が赤くなった。


「本当にありがとうございました。迷惑かけてすみません」

「い、いえ。その……―――ごめん、なさい」

「?」何故謝られたのか首を傾げると、じっとアイスティーの氷だけを見つめる彼女は言った。

「楽になろうと、した、ですよね……? 邪魔、したから」


「――――」何も、返せなかった。

 彼女は、私が“死のうとした”ことに気付いていたのか。


「――本、とか、読みます………?」

 ほ、本?


 唐突な質問に目を白黒させていると、彼女はトートバッグから一冊の本を取り出し渡してきた。

 何度も読んだのだろう、ヨレヨレの本の表紙は黒く塗りつぶされ、そこに白い文字で「笑え」とタイトルらしき一文がデカデカと印字されていた。


「それ、笑えない、です」

「へ?」

「でも、きっと……読めば、分かる」

 そこで彼女は席を立った。いつの間にかアイスティーは飲み干していたようだ。


「あげます、それ。……私には、もう、必要ない、ので」

 少し寂しそうな顔をした彼女は、あたしが何か言う前に「ごちそうさまでした」とさっさと逃げるように去ってしまった。

 ………手持ちがなくて飲み物奢ってあげることも出来なかったのにご馳走様でしたと言わせてしまったと、謎の罪悪感に苛まれたけど。



「あ、かきくんだ」

 学校に遅刻の連絡をしながら、今度は通勤通学ラッシュ時間からだいぶ遅い駅構内。

 まばらの人混みの中で知り合いを見つけるのは容易い。……けど、こんな時間に、しかもこんな場所で垣根総がいる事実に違和感しかない。


 声かけたい。

 どうしたの、何かあった?って。


 でも、さっきとは違う罪悪感が湧き上がってあたしの足は動いてくれない。

 だってかきくんはあたしのために色々話し聞いてくれて、言葉をかけてくれたのに――あたしは死のうとした。

 死にたかったのか、と問われれば違うと断言出来る。


 そう、違う。


 かきくんのおかげであたしはあたしなのだと、それをあたしが信じることで水島瑞希は水島瑞希なのだと分かった。

 もう恐れるものはない。イジメはない。あたしは空っぽじゃない。


 ――――なら、あたしはどうして死のうと思ったんだろう。

 見つからない答えから目を逸らすように、あたしはかきくんから逃げるように到着した電車へ乗り込んだ。




 通い慣れた通学路。見飽きた学校。何度もくぐった教室の引き戸を開けて、「おはよう」と迎え入れてくれるクラスメイトや友人に安堵しながら挨拶を返し、みんなより遅れて席に着く。

 そしてつまらない授業を聞いて、お昼になったら友達とお弁当食べて、眠気を堪えながら授業受けて――帰路に着く。


 電車に揺られて20分ほどで駅に到着。そこから自転車で10分のところに我が家がある。

「ただいまー」と玄関を開けると、薄暗い廊下からリビングの明かりが差し込んでいた。激しいBGM音が聞こえるところ、まだ両親は仕事から帰ってきておらず、弟がリビングのテレビでゲーム中ってところかな。


 あたしはそのまま廊下の階段を上がって自室へ入ると、そのままベッドへ寝転がった。


 ……なんか、疲れた。


 だけど不思議と目が冴えていて、このまま河原へ走って川にダイブしてきてもいいような気がしてきた。え、何ソレ。何がいいんだろう、意味分かんない。頭おかしいよ、あたし。

 今朝もそうだ、死のうとした。死にたかったわけじゃないのに。


 ――気持ち悪っ!


 自分のことなのに、自分じゃないみたいな。

 実際に死のうとしたのは、そういえば初めてだ。


「……あたし、おかしいのかな」

 イジメられてたとき、言われたことがある。お前はおかしいって。そのときはイジメてるお前らがおかしいんだよ!って返した気がするけど、本当はそうなのかもしれない。


「変、なのかな。だからイジメられたのかな。死のうなんて、そんなこと考えるのかな」

 イメチェンして『水島みずき』として不良(?)になったとき、母が父に相談してるのを偶然見てしまったときがある。

 ――あの子、おかしくなっちゃったのかしら……!

 頭を抱えてあたしを想う母の言葉。


『水島みずき』は確かに『水島瑞希』ではない。そのためのイメチェンだったから。


 でも……変だった?

 そんなにおかしかった?

 今は?

『水島瑞希』はおかしくない?


 あたしは、あたしだ。

 かきくんが言ってたじゃないか。自分で自分のことを否定するなって。

 ……あたしはおかしくない。

 変じゃない。


 死のうとしたことも、死にたいと考えてしまうことも、誰だってそういう悩みはあるんだから。あたしだけじゃない。


「そっか、そうだよね」


 おかしくないなら、気にする必要なんてない。

 否定がダメなら、肯定しよう。


 死のうとすることも、死にたいと思うことも、仕方ないことだ。

 他人から見ておかしいと思われるのも、きっと仕方ないことだ。


 ――これで良いんだよね? かきくん。

 訪れてきた眠気に抗うことなく目を閉じる。

 自分の悩みに答えが出たはずなのに、何故かモヤモヤする気持ちを秘めたまま。

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