五、

 翌朝、遅刻ギリギリで出勤した御伽は、大きな欠伸をこぼしながら執務室の机に着いた。いつもより瞼が数ミリ下がっているのが自分でも分かる。油断すると落ちてきそうな瞼は、気合で持ち上げるしかない。

「何だ、寝不足か?」

 隣に座っていた金森が訊ねてきた。今にも机に沈み込みそうなほど、御伽の頭が重たげにふらふらと揺らいでいるのを見て、心配になったようだ。

「ええ、ちょっと。昨夜、対戦ゲームで白熱してしまって、気付いたら朝方に……」

「お前は小学生か!」

 夜更かしの理由を聞いた金森は呆れたように声を上げた。まるでお泊り会にはしゃぐ子供である。彼のツッコミも尤もだ。けれど、仕方ない。残念ながら早く寝るように叱ってくれる相手はいなかったのだ。

 普通なら年長者としてストッパーになるべきオッサン二人も、一緒になって夢中で対戦していた。生意気な御伽に思い知らせるという名目で、約一名は彼女よりも熱が入っていたくらいだ。

「まさかそれで車を運転したんじゃないだろうな。警察が居眠り運転なんてシャレにならんぞ」

「大丈夫っす。准ちゃんに乗せて貰ったんで。帰りも一緒になります」

 真っ先にリタイアした安藤はさっさとベッドに入ったので睡眠時間も三人の中で一番多い。そのため、寝不足気味な御伽と西宮を送迎する役目を負うことになっていた。

 御伽だけならともかく、オマケがついていたので暫くブツブツと不満をこぼしていたが、何だかんだ言いながら運転手を請け負った彼はお人好しといえる。

「それならいいが……。お前、仕事になんのか? 途中でぶっ倒れんなよ」

「まだ若いんで平気っす」

 少しばかり眠気はあるが、逆にハイになっていて意識はハッキリしている。警察の激務をこなせるだけの体力もあるのだから問題はない。

「死因の特定が出たぞ」

 そこに、土屋が書類を持ってやってきた。御伽達も立ち上がって彼の周りに集まる。

「まず直接の死因となるのはナツメグらしい」

「それってハンバーグとかに使うことがある香辛料っすよね」

「ああ。少量なら香り付けにいいんだが、大量に接種すると死に至るそうだ」

 配られた紙には、被害者がナツメグを十グラム相当、つまり二個分も接種していたことが記されていた。一般的に致死量とされる分量だ。

「入手経路は今のところ不明だ。胃の中から見付かったそうだから経口接種で間違いはない。しかし、鑑識の話では、厨房や自宅にもナツメグは見付からなかったそうだ。恐らく被害者ガイシャの所持品ではないだろう」

「別の誰かがナツメグを使ったものを食べさせた、ということになりますね」

「その線が濃厚だ」金森の言葉に土屋も頷いた。

「まずは入手経路を割り出す。金森と御伽は商店街の食品店を当たって……」

「その前に、青山兄妹からもう一度だけ話を聞きたいんすけど」

 手を挙げながら告げた御伽の主張に土屋が目を丸くする。

「何かあるのか?」

「父親の話では、二人は家庭科実習で作ったものを風間さんにプレゼントしたらしいっす。それもマシュマロだとか」

 だからどうした、といわんばかりに周囲の刑事達が訝しげに御伽を見る。土屋まで不可解そうにしていることに気付き、彼女は肩を竦めた。

「マシュマロって、それだけだと味気ないじゃないっすか。ジャムとかチョコレートを付けるのが一般的かも知れませんが、シナモンを振り掛けることもあるんすよね。ナツメグも香り付けに利用した可能性はあります」

 それを耳にするなり、土屋がハッとした顔で彼女を凝視した。

「家庭科の調理実習か。無関係とは思えないな」

 険しい表情で考え込んだ土屋は、すぐに神妙な様子で頷いた。

「金森と御伽は先に青山兄妹の方に当たれ。学校にも事情を説明してナツメグを使用した痕跡がないか調べろ」

「はい」

 御伽と金森は同時に返事をすると、急ぎ執務室を後にした。



 御伽達は昨日と同じく青山兄妹が通う小学校へやってきた。教頭に事情を説明し、任意の許可を取り付け、連れてきた数人の鑑識官に調理実習室での捜索を任せる。

 その間、御伽と金森は再度の事情聴取をするために、担任の教師達と青山兄妹を応接室に集め、話を聞くことになった。

「今朝、風間さんの死因が特定されました。ナツメグの過剰摂取ということらしいっす」

「ナツメグ?」

 山中は耳慣れない様子で問い返した。

「香辛料の一種っす。ハンバークなどで香り付けに使われるんすが、大量に摂取すると中毒症状を引き起こします。すぐに処置をして病院へ搬送すれば早くて二十四時間で回復するそうっす。けど、発見が遅れて放置されていたとすれば、ショック状態のまま息を引き取ってもおかしくありません」

 兄の煌太が膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。俯いた顔は傍目から見ても蒼褪めているのが分かる。

「先日、煌太くんのクラスで調理実習が行われたそうっすね」

「え、ええ」

 戸惑いながら頷く滝川の顔を御伽はじっと見つめた。

「ナツメグは乳製品を使った料理やお菓子にも使用されることがあるんす。例えばクッキーやドーナツ……マシュマロなんかにも」

 その時、応接室にノックの音が響いた。入室してきたのは一人の鑑識官だ。どうやら現場検証を終えたらしい。

「ナツメグの容器そのものは発見出来ませんでしたが、床に微量の粉末が落ちていました。持ち帰って照合を掛ければ――」

「僕のせいだ」

 遮るように煌太が口を開いた。頭を抱えて震えている。

「いっぱいかけたら美味しくなるって思ったんだ。そんなことになるなんて知らなくて……。僕が殺しちゃった。喜んで貰いたかっただけなのに。風間さんのこと殺しちゃった」

 悲痛な叫びを上げる彼に、周囲は一瞬にして同情的な空気になる。知識のない小学生が誤って起こした事故を責め立てるような人間はいなかった。妹の光里が横からそっと兄の手を握る。

「煌太くん。これは事故よ。知らなかったんだから仕方ないわ。だから、あまり自分を責めないで」

 滝川が優しく背を撫でながら慰める。僅かに肩を揺らした煌太は、俯いたまま、歯を食い縛るようにして涙をこぼした。

「確かに煌太くんには知識がなかったでしょうけど、先生は違いますよね?」

 冷静な御伽の声が室内に響いた。場の空気に流されて同情の眼差しを向けていた金森もハッとして顔を上げる。

「何を――」

 困惑する滝川を他所に、御伽は煌太に視線を向けた。

「マシュマロに使用したナツメグは自宅から用意したものっすか?」

 煌太は首を振った。

「先生がこれを使ったらいい匂いになるからって」

「ちょっと、煌太くん。何を言ってるの?」

 目を丸くした滝川が声を上げた。こうして見る限りでは、本気で驚いているようにも思える。だが、煌太の肩を強く握り、爪を立てていたのを、御伽は見逃さなかった。

「先生がいらっしゃらない方が話しやすそうっすね。別々に伺いましょうか」

「待って下さい。幼い生徒一人に取り調べするなんて――」

 滝川が慌てたように立ち上がる。それを山中が驚いた様子で見上げるが、すぐに険しい表情になり、御伽達と向き合った。

「僕が傍で見ている分には構いませんよね? お兄ちゃんの煌太くんとはあまり関わりがありませんが、だからこそ関係を気にせず話せると思いますので」

「そうっすね。生徒だけというのも心配でしょうから」

 御伽が横目で金森を見ると、彼も了承した。



 子供相手ということもあり、強面の刑事である金森よりも、雰囲気は淡白だが女性である御伽の方が話しやすいだろうと言われ、彼女が担当することになった。

 無理矢理供述を引き出すことがないように、見張りには学校側から山中を立てている。

 もちろん取調室で行う本格的なものではなく、学校の応接室を使った簡単なものだ。内容も取り調べというよりは聞き込みに近い。煌太からしても気負う必要はないはずである。妹だけ引き離しても心配になるだろうからという理由で、光里も兄の傍で話を聞いていた。

「家庭科の調理実習で、マシュマロにナツメグを使用するように言ったのは滝川先生っすか?」

「うん。香りが引き立つからって」

 両手をきつく握り締めながら煌太は実習の時の様子を語った。

「あの日、班で手分けして色んな味のマシュマロを作ることになったんだ。ココアとか抹茶とか、紅茶味も。僕だけ思いつかなくて悩んでいたら先生が『ナツメグを使うといいよ』って持ってきてくれて……」

「少量にしましょうって注意は受けなかったんすか?」

「ううん。沢山あるから好きなだけ掛けてね、って言ってた」

 小学生の煌太ならともかく、教師である滝川は「知らなかった」では済まされない。その上、この状況では何かしらの意図があったと思わざるを得なかった。

 とはいえ、洋菓子店を営む風間であれば、香りでナツメグの存在に気付いたはずだ。

「プレゼントした時、風間さんはナツメグに気付きました?」

「え、うん。ナツメグなんてどうしたの、って訊いてきたから、先生が分けてくれたって言ったんだ」

「それで警戒を解いてしまったんすね」

 恐らく教師が監督して作ったものだからと安心し、周囲に誰もいない時に摂取して中毒症状が出てしまったのだろう。

 そうは言っても知識があればナツメグが原因だと気付ける。症状が出てすぐに救急車を呼べば治療は受けられたに違いない。とすると、考えられるのは何者かに邪魔をされた可能性だ。

 直接の死亡原因がナツメグだとしても、その後にオーブンに彼女を押し込んだ人間が別にいる。いくら何でも小学生の煌太には大人の遺体を運ぶことは不可能だ。

 けれど、もう一つ引っ掛かることがある。御伽は更に問い掛けた。

「最初はナツメグの効力を知らなかったみたいっすが、風間さんが亡くなったのを聞いて焦りましたよね。あの時にはナツメグがどういうスパイスなのか知ってたんじゃないっすか?」

「あ、それは……」

 煌太は一度迷うような素振りを見せたが、隣にいる妹を窺い、躊躇いがちに答えた。

「光里が教えてくれたんだ。ナツメグは食べ過ぎると死んじゃうって」

「パパの持ってる漫画に描いてあったの」

 どうやら妹に言われて初めて危険性を理解したようだ。本当に死ぬとは思わず、動揺してしまったらしい。あの時に全て話さなかったのは、自分のせいで風間が亡くなってしまった事実に怯えていたからだという。

「矛盾はないな」

 聞き込みを終えて合流したところで、金森が呟いた。

「はい。あとは滝川先生から話を聞かせて貰えれば、真実が分かると思います」

 御伽はちらりと滝川を見た。両脇を鑑識官に固められ、力なく項垂れている。

 煌太に聞き込みをしている間、無謀にも隙を見て逃げようとして、金森に確保されたらしい。逃亡を考えるなど、自ら事件への関与を告白しているも同然だ。

 これで今回の事件も解決の見込みが立つだろう。御伽達は少しばかりの安堵を覚えながら滝川を連行して警視庁へ戻った。



 取り調べを始めてすぐに、滝川は言い逃れが出来ないことを悟ってか、風間を殺害したことを認めた。いつもお世話になっているお礼をしたいと言った煌太に、調理実習で作ったものをプレゼントするように提案したという。

「毒物だと購入した記録が残って疑われやすくなるから、調味料として簡単に手に入るナツメグを利用することにしたんです」

 ナツメグは血液検査でも検出されないので、証拠隠滅になると思ったそうだ。胃の中を調べれば、死ぬ直前に食べたものが分かるのだが、そこまでは考え付かなかったのかも知れない。

「調理実習でマシュマロを作ることに決め、煌太くんにナツメグの瓶を渡して、好きなだけ入れるように言いました。沢山入れたらその分だけ美味しくなるから、って」

「何も知らない煌太くんはそれを信じてナツメグを大量に使ってしまった。煌太くんの純粋な気持ちを利用して、彼に罪を着せようとした訳ですか」

 金森が固い声で言うと、滝川は「まさか」と首を振った。

「私は煌太くん達を助けたかっただけです」

「助けたかった、とは?」

 酷い扱いを受けているようには思えなかった。青山兄妹の慕った様子からも、その辺りの被害はなかったと判断出来る。

「だって、そうしないとあの子達が食べられてしまうじゃない」

 滝川の思いもしなかった言葉に、金森は目を見開いた。咄嗟に思い浮かんだのは、児童性犯罪の可能性であるに違いない。近所からも人柄良く語られていた風間に裏の顔があったのかと彼が視線を鋭くする。

「私は二人を助けたかったの。だから、あの女を殺して、オーブンで焼いてやった。悪い魔女は釜の火で炙ってやらなきゃ」

「……は?」

 予想とは違った流れに金森が呆気に取られた様子が見えた。

「魔女?」

「お菓子の家で誘い込んで、人間の子供を食べてしまう魔女よ」

 悪女を示す比喩ではなかった。意味の分からない供述を続ける彼女に、金森はますます困惑している。

「失礼。風間さんを殺害した後、遺体をオーブンに入れたのもあなたということでいいんですね?」

「そうよ。あの晩、ちゃんと倒せたか確認しに行ったの。そうしたら朦朧としながらも救急車を呼ぼうとしていたからスマホを奪って止めたわ。遺体は朝まで倉庫に隠してね。翌日、休憩時間に学校を抜け出して、店員がいないところを見計らってオーブンに移動させたの」

 心神喪失による減刑を狙っている様子でもない。それ以外の受け答えはきちんとしている。犯行の手口も正確に答えた。

「それで、殺害の理由は、恨んでいる訳ではなく、煌太くん達のため?」

「だからそう言っているでしょ。二人が食べられないためにはああするしかなかったの。それが彼らの決められた物語ストーリーなんだから」

 おかしいのは動機だけのようだ。金森は何と返して良いのか分からないのか、後ろにある窓を振り返った。

 一連の取り調べ風景をマジックミラー越しに見ていた土屋が、思い当たった様子で呟いた。

「ヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女か」

「ええ。ちょうど煌太くんと光里ちゃんも物語の登場人物に当て嵌まります。風間さんがお菓子を与えていたことを知り、物語の魔女が子供を食らおうと誘い込んでいるのだと錯覚したのかも知れません」

 御伽も冷静に分析する。滝川の不可解な言動はそういった妄想から来るもので間違いはないだろう。



 後日、詳しく精神鑑定をしたところによると、滝川には軽度の双極性障害であったことが分かった。躁状態と鬱状態が繰り返して現れる精神疾患だ。

 基本的に躁状態であったことから、元気な明るい先生という印象で、周囲には気付かれなかったらしい。

「赴任して始めての担任クラスで、頑張ろうとするあまり、逆にそれがストレスになり、精神的に相当追い込まれていたようだ。誇大妄想に囚われるのも躁鬱病では少なくないらしい。そのうち彼女は現実との区別がつかなくなったんだろう」

 土屋の説明に御伽も納得した様子で頷いた。

 とはいえ、小学生の男の子を犯行に利用したことは極めて悪質といわざるを得ない。大した減刑は望めないだろう。

「彼女がそういう妄想に取り憑かれた原因についてだが、押収したパソコンを調べたらこんなサイトを見ていたのが分かった」

 御伽の前に土屋がプリントアウトされた紙を差し出す。

 そこには童話をモチーフにしたゴシック調のデザインが映っていた。以前、大上殺害事件で逮捕された狩井が見ていたものと同じだ。

「ここの管理人を随分と慕っていたようだ。彼女の作る物語を自分も手伝うんだと。それなら素直に小説でも書いていれば良かったろうに、まさか現実に当て嵌めて他人の人生を狂わせるとはな」

「そうっすね」

 軽く頷いた御伽の反応に、土屋は物言いたげな視線を向けた。

「このサイトに何かあるんだろう?」

 御伽は少し驚いた様子で彼を見上げる。すると、真剣な眼差しとかち合った。

「鑑識の話では、以前逮捕した狩井のパソコンにも同じものが見付かったらしい。それに、王地美紀もまたこのサイトを閲覧していたことが分かっている。これまでの事件、裏で繋がっているんじゃないのか」

 黙って彼を見つめていた御伽はフッと口許を緩める。

「流石は警部。長年、第一線で犯罪を取り締まってきた刑事の勘ってやつっすか」

「茶化さずに答えろ、御伽。キャリアのお前が警察庁から移動してきたのも、このことが関係していると俺は踏んでいる」

 これ以上は隠し通せないと思ってか、御伽は降参するように両手を挙げた。

 話を逸らしたところで誤魔化されはしないだろうし、仮にここで引き下がったとして、納得しない土屋は独自に捜査を始めるかも知れない。そのせいで久遠に目をつけられることになっては本末転倒だ。

「正直、警部達のことは巻き込みたくはなかったんすけど」

「お前が移動してきた時点でそれは無理じゃないか?」

「確かに」

 否定しようもない正論に御伽は苦笑する。けれど、すぐに表情を改めると、土屋を真っ直ぐに見据えた。

「ちょっと厄介な奴から挑戦状を受け取ってるんすよ」

 御伽はそう言って、土屋にスマートフォンの画面を見せた。

 そこにはパソコンから転送されたメールが開かれ、いつもと同じような不可解なメッセージが記されていた。


――魔女は釜で焼かれて死に、お菓子の家から無事に逃げ仰せたヘンゼルとグレーテルは、家族の元へ帰ることが出来ました。

――そして、ひもじい生活に戻った二人は、お菓子の家で過ごした夢のような日々に思いを馳せながら、不満を抱えて暮らすのでした。

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