三、

 翌日、警視庁に出勤した御伽は、執務室のホワイトボードに書き込まれた情報を前にぼんやりと佇んでいた。

 検死結果が出たのは昨日の夕方だ。それによると、大上の直接の死因は失血死ということらしい。

 死亡推定時刻は午後九時から十時。外傷は腹部の傷と手首の拘束痕以外に、脇腹に火傷の痕がある。恐らくはスタンガンに撃たれたものだ。

 腹に詰められていたものも石で間違いなかった。二十センチ幅のものが二つ、強引に押し込まれていたそうだ。筋肉の収縮具合や内臓の傷付き方から見て、生きているうちに詰められたものであるという。

 このことから、出血多量によってショック死した後、川に投げ込まれたと推理出来る。御伽達は最初、石は遺体が浮かんでこないための重り代わりと見ていたが、意識があるうちに腹に詰めたと考えると、犯人は相手が苦しむ姿を楽しんでいた可能性がある。

 何とも猟奇的な殺害方法だ。流石の御伽も気分が悪くなり、顔を顰めた。

「おはよう。昨日の張り込みは上手くいかなかったみたいだな」

 隣に立ったのは土屋だった。並んでボードを眺めながら「そういうこともあるさ」と御伽へ労わりの言葉を投げかけてくる。ちらっと視線だけ向けた御伽は肩を竦めた。

「ああ。別にいいっす。気にしてません。最初から期待してなかったんで」

「ん?」

「それより、もう一度あの子に話を聞きたいっすね」

「昨日の子か」土屋が顎に手を当てた。

「お前はあの子がまだ何か知っていると睨んでいるんだな?」

 恐らくこの班で最も御伽の勘を信用しているのは土屋だ。眼鏡の奥にある切れ長の目を軽く細めた。

「はい。というか、たぶんあの子がこの事件の鍵っす」

「何だと?」

「で、警部。お願いがあるんすけど」

 上目遣いに見上げると、土屋が一瞬狼狽うろたえた。それに構わずじっと見つめ続けていれば、御伽の言いたいことを察したらしく、彼は深い溜息を吐き出す。

「科捜研に飽き足らず、上司まで顎で使うとはな」

「可愛い部下の頼みじゃないすか」

「自分で言うな、自分で」

 口では文句を言いつつも、頼られて満更でもないのが窺える。柔らかな眼差しで御伽を見返し、土屋は頷いた。

「まあ、いいだろう。生意気な部下を指導するのも上司の務めだ」



 午前十時。土屋と共に御伽がやってきたのは、森野の住まいから程近い場所にある公園だった。

 近年は熱中症の心配もあって、夏場に外で遊ぶ子供は減ってきたが、この公園はいくつか日陰もあり、ミストシャワーを設置して快適に過ごせるように工夫されているためか、元気に走り回る子供の姿がちらほらと見えた。

 これに加えて対策グッズを用意していれば滅多なことは起きないはずだ。保護者も安心して我が子の様子を見守っている。

 はしゃぎ回る子供達の甲高い笑い声が響く中、一人だけ距離を置いて木陰に座っている者がいた。赤いノースリーブのパーカーを着た女の子だ。

 目的の相手を見つけた御伽達は、木陰にあるベンチへ足を進めた。二つの影が頭上に掛かったことで誰かが来たことに気付いたらしい。俯いていた女の子が顔を上げた。

「こんにちは。また会ったね」

 柔らかく微笑んだ土屋が彼女の隣に腰掛ける。周囲にいた保護者達が不審そうな視線を向けてくることに気付き、御伽は彼らに向かってサッと警察手帳を翳して見せる。

 別に疚やましいことがある訳ではないだろうが、怯んだ彼らは慌てて目を逸らした。条件反射というものだろう。邪魔をされないのなら構わない。ぎこちない態度でこちらから意識を背ける彼らを気にすることなく、御伽はベンチに座る少女へ視線を戻した。

 彼女の手元には、小さなビーズを連ねたブレスレットがあった。まだ未完成だが、花の装飾がいくつも並んだ可愛らしい作品だ。

「凄いね。お母さんへのプレゼントかな?」

 土屋がそう訊ねたのは、子供が着けるにしてはサイズが大きいように見えたからに違いない。既に少女の腕には、ぴったりとしたサイズで、手元にあるのと似たようなデザインのものが着いている。別の誰かとお揃いで作っているのだと考えるのは自然な流れだった。

 ところが、彼の読み通りとはいかなかったようだ。女の子は黙って首を横に振った。

「じゃあ、お友達に?」

 更に問い掛けると、少女はきゅっと唇を噛んで俯いてしまった。これは拙いことを訊いたらしい。

 見たところ、この公園で彼女は一人きりだ。周りで遊んでいる子供達に加わる様子もない。これまでの応答からも彼女が引っ込み思案であるのは窺えた。友達の有無を訊ねるような会話は無粋だったのかも知れない。

「あ、ごめんね。僕の娘もビーズで色々と作ることが好きみたいだから親近感が湧いてしまったんだ。この間、キーストラップを貰ったんだよ」

 流石は子供の扱いに慣れているだけのことはある。さり気なく話題を変えた土屋は、スラックスのポケットから鍵を取り出した。確かにビーズで作ったストラップが飾られている。

 男性が持つにはあまりにファンシー過ぎるが、娘から貰ったものだからと、恥ずかしがることもなく身に着けているのだろう。

 少女はそれを見て興味を惹かれたようだ。つい数秒前まで表情を沈ませていたのが嘘のように、目を輝かせてじっとストラップを見つめている。

「昨日はちゃんと挨拶が出来ていなかったね。僕は土屋。警視庁のお巡りさんだ。君さえ良ければ『土屋警部』って呼んでくれるかな。それから、僕の後ろにいるお姉さんは『御伽警部補』だ」

 土屋は幼い子供に向けた簡単な自己紹介をした。ここで警察手帳を見せて堅苦しい名乗りを上げるのは、見るからに人見知りと分かる少女には不向きだろう。委縮させてしまっては元も子もない。

「君の名前も教えて貰える?」

 少し躊躇った少女だが、穏やかな土屋の雰囲気に背を押されたようで、小さな声で「森野咲希さき」と名乗った。土屋はすぐに良い名前だと褒める。

「ところで、昨日の事件について、もう一度訊きたいんだけど、いいかな?」

 そんな土屋の問い掛けに、咲希は不安そうにしながらも頷いた。

「お母さんと話している被害者を見たと言っていたね。何時頃か分かる?」

「五時のチャイムが鳴った辺り」

「それは、お母さんが仕事に向かう前ってこと?」

「うん。いつもそう」

 土屋が訝しげに「いつも?」と訊き返した。森野花菜の証言と矛盾が生じる。やはり彼女は嘘を吐いていたようだ。咲希の方が何かを誤魔化している可能性もあるが、その必要があるようには思えない。

「おじちゃんが来るようになってからずっと」

 それを聞いて、今まで黙っていた御伽が身を乗り出した。

「じゃあ、お留守番はいつもおじさんと一緒だった?」

「うん」

「お母さんとおじさんは仲が良いの?」

「うん。お休みの日は、ママのお布団で一緒に寝るよ」

 予想した通りだ。御伽は納得して頷いた。その隣で土屋は呆気に取られている。

「つまり、大上と森野花菜はデキてたってことか?」

 信じられないのも当然かも知れない。詐欺事件で捕まっていた犯人と、被害者の娘が深い仲になっているのだ。こんなこと、普通なら誰も思い付かない。

「待て。だとしたら報告にあった男の影というのは大上のことになる」

「そうっすね」

 御伽は平然と同意した。実をいうと、自宅を訪ねた時点で察していた。

 森野が大上との関係を誤魔化した理由も何となく分かる。正直に伝えれば土屋のような反応を向けられると思ったからだ。決して理解は得られないだろうし、関係性から痴情の縺れによる犯行と疑われる可能性も考えたはず。ともすれば、警察の聴取で二人の関係を隠したのも頷ける。

「御伽、気付いたことはその場で報告しろ」

 眼鏡をずらして目頭を押さえた土屋が呆れを多分に含んだ声で言った。しかし、御伽に反省の色はない。

「仮説の段階であれこれ言ったら皆を混乱させるじゃないすか。自重したんすよ」

「何も知らずに振り回される方が大変なんだが」

 とはいえ、土屋にも御伽の言うことが理解出来ない訳ではないだろう。あらかじめ御伽が推理を披露したところで、それを基に班が纏まるかというと、そんなことがあるはずもない。衝突するのは目に見えている。

 たとえ土屋が仲介したとしても不満は残る。下手をすると、いずれ班を崩壊させる不和の種となりかねない。それを分かっていて無理に進めるような土屋でもない。御伽のすました顔を見て、仕方なさそうに息を吐いた。

「それより、咲希ちゃんがあの晩も大上さんと一緒に過ごしていたなら、犯人を知っているはずっすよね」

 御伽は感情の読めない目で咲希を見下ろした。びくり、と震えた彼女が視線を落とす。

「御伽。怯えさせるな」

「違いますよ。彼女のこれはたぶん……」

 すぐに否定した御伽が何か言い掛けたところで「咲希ちゃん?」と背後から第三者の声が聴こえた。

 振り返ると、大学生くらいの青年が立っていた。あちこちに跳ねたボサボサの髪に、分厚い眼鏡を掛けている。小柄で身長もあまり高くはない。せいぜい百六十センチといったところだ。

 相変わらず御伽も寝癖が付いたままであるが、ここまで野暮ったくはならない。寧ろ素材の良い彼女はファッションとして好意的に見られることが殆どだ。あちこち跳ねた髪もヘアワックスでまとめたように見えるらしい。

 対して青年はというと、外見と身に着ける地味なシャツからして如何にもオタクにしか思えなかった。幼い子供に声を掛ける様子は何やら犯罪の臭いを感じてしまう。

 土屋が警戒したように「彼女に何か?」と問いかけると、青年がムッとした表情をする。

「そちらこそ、誰ですか?」

「警視庁の者っす」

 御伽が素早く警察手帳を見せた。相手は怯むことなく「ああ」と納得する。

「昨日の事件の捜査ですよね。お疲れ様です」

「失礼だが、君は?」

塚本つかもと晴治せいじといいます。咲希ちゃんの家庭教師です。今日は授業の日だったんですが、なかなか家に帰って来ないので心配になって」

 咲希を確認してみると、身を小さくして俯いていた。叱られるのを怖れているかのようにも見える。

「帰ろう。サボったなんて知れたらお母さんが悲しむよ」

 塚本が右手を差し伸べる。僅かに顔を上げた咲希は不安そうに土屋を見るが、痺れを切らした塚本によって手を取られ、強引に立たされた。

「おい、君」眉を吊り上げた土屋が咎める。

「すいません。我々も同行させて貰っていいすか」

「え?」

 御伽の提案に塚本だけでなく土屋も目を丸くした。問うような視線を送る彼に、珍しく真剣な顔付きになった御伽が頷いた。彼女の様子に徒事ただごとではないと考えたのか、土屋も表情を引き締めた。

「まだお聞きしたいことがありますから」

 御伽がそう言うなり、咲希が彼女のスーツの裾を掴んだ。それを視界の端で捉えた土屋もにこやかに微笑んで便乗する。

「折角だし、事件について君からもいくつか聞かせて貰えるかな」

「……分かりました」

 塚本はあからさまに嫌そうな顔をしたが、結局文句は言わなかった。警察の前で強気に出ることは出来なかったようだ。



 森野が暮らすアパートへ辿り着くと、掲示板の掛かった玄関先で掃き掃除をしている人影があった。背が低く、腹の出た中年の男だ。御伽達と一緒にやってきた咲希の姿に気付くなり、人の良さそうな笑みで挨拶してきた。

「おかえり、咲希ちゃん。塚本くんもご苦労様」

 引っ込み思案であるからだろうか。咲希は素早く土屋の後ろに隠れてしまった。この反応はいつものことであるようで、相手も特に気にした様子はない。

「刑事さん達もお疲れ様です」

「あ。ええ、どうもありがとうございます。大家さん、ですか?」

 声を掛けられた土屋は少し驚き、相手の立場を予想して訊ねた。男は笑顔を崩さずに「はい」と答える。

「事件のことは聞いています。何かありましたらご協力しますので、いつでも言って下さい」

「それは助かります。後程お伺いしても?」

「もちろん。一階の奥が私の住まいなので、どうぞ後でお立ち寄り下さい」

 土屋も落ち着いた雰囲気をしていることもあり、随分と和やかな会話となっていた。その様子を黙って眺めていた御伽は、脇を通り過ぎる際に目礼だけして立ち去った。

 二階に上り、目的の部屋に入った後、塚本は慣れた様子で人数分のグラスを用意し、冷蔵庫に冷やしていた麦茶を注いだ。他人の家ではあるが、留守中に咲希の面倒を見ていることもあって、お茶やお菓子は自由にしていいと許可を貰っているらしい。

 肝心な母親の方は、この時間は美容院に行っているという。夜の店で接客業をしていることもあり、外見には気を遣うのだろう。森野の職業を思えばある程度の予想がついたのか、御伽達は特に追及はしなかった。

「それで、いくつかお聞きしても?」

「ああ。構いません。咲希ちゃん、そのページの問題が最後まで解けたら教えて」

 塚本は問題集を開いた咲希に指示した後、御伽達に向き直った。

「塚本さんは被害者の大上さんをご存知っすか?」

「まあ、よくこの家に入り浸っていたみたいなので、はち合わせることは何度か」

「森野花菜さんとの関係については……」

 土屋が少し身を乗り出すと、塚本は大した興味もなさそうに答えた。

「知ってますよ。あの二人、付き合ってたんですよね。近所でも結構知られてるんじゃないですか」

 土屋が意外そうに塚本を見る。苛立ったり、ショックを受けたり、何かしら反応を示すと思っていたようだ。しかし、ここで黙り込んでは不審に思われてしまう。そう判断したのか、土屋は引き続き、何食わぬ様子で聞き込みを続けた。

「ご近所というと」

「僕の部屋はここのすぐ隣なんです。それもありますけど、このアパートって壁が薄いんですよ。色々と聴こえて来るんで、まあ、後は察しますよね」

 親密な会話はもちろん、夜の営みについても筒抜けていると言いたいようだ。コメントし辛い内容に土屋が苦い笑みをこぼした。

「では、一昨日の晩、何か不審な物音を聴いたりは?」

「一昨日っていうと、十六日ですよね。その日は研究室に泊まり込んでいたんで分かりません」

「研究室?」

「大学の研究室です。工学部なんで、何日も泊まり込みで研究漬けとかよくあるんですよ。気になるなら研究室の奴らに聞いて下さい。教授もいらっしゃったんでたぶん答えてくれます」

 塚本は手持ちのノートからページを一枚切り取って、大学名と研究室の名称を書くと、それを土屋に手渡した。

「研究で忙しいのに家庭教師?」

「コンビニとかより融通が利くんで。こっちの都合でキャンセルしてもクビにはなりませんしね。まあ、殆ど近所のよしみでやってるんで、金にはなりませんけど。ないよりはマシですから」

 金欠に喘ぐ大学生には少しの足しになるだけでも十分であるようだ。

「その日以外に大上さんが誰かと揉めているのを見たりは?」

「さあ。あの人、あの顔で意外と愛想が良かったみたいです。近所のおばさん達の荷物を持ってあげたりして。見た目のせいで喧嘩を吹っ掛けられたとかでもないならそういうのなさそうですけど」

 土屋は何やら拍子抜けしたような顔をした。予想した答えを引き出せなかったからだろう。

 横目でそれを見た御伽は肩を竦め、咲希の方に視線を向ける。懸命に問題集を解いているが、時折ちらちらと塚本を窺って怯えていた。

 御伽が改めて塚本に観察するような目を向けたところで、スーツの内ポケットが震えた。懐に仕舞っていたスマートフォンがメッセージの受信を知らせたのだ。

「ちょっとすいません」

 軽く断りを入れて席を離れた御伽は、キッチンの陰で画面を見て僅かに唇を吊り上げた。メッセージは安藤からのものだった。


――スタンガンの銘柄が特定。


 画像が添付されていた。詳しくは分からないが、海外製品らしい。火傷の痕から一致する製品を分析したのだ。


――犯人の特徴。身長は百五十から百六十センチ。位置から考えて左利き。


 火傷の位置から計算することで、身長と利き腕も明らかになる。御伽がお礼の返信を送ると、ハートが乱舞したスタンプが返ってきた。彼女の表情も微かに緩む。

「御伽?」

 液晶画面に向けて笑みを浮かべた彼女に驚いたのだろう。こちらにやってきた土屋が訝しげに声を掛けた。途端に御伽はいつもの表情に戻り、スマートフォンの画面を翳した。

「科捜研からっす。スタンガンの銘柄が特定されました」

「そうか!」土屋の目にも力が帯びる。

「これなら犯人の尻尾が掴めそうっすね。まずはスタンガンの入手方法から攻めていきましょう」

「ああ」

 御伽の提案にすかさず頷いた土屋だが、違和感に気付いて彼女を見つめる。すると、御伽はそっと人差し指を唇に当てた。黙れと言いたいらしい。

 これが金森なら怒鳴るところだろうが、何やら考えがあると察したらしい土屋は口を噤んだ。

 居間に戻ると、塚本が慌ただしく帰り支度をしているところだった。あまりの不審さに土屋が呼び止めると、彼は面倒臭そうな目を向けた。

「研究のことで大学に呼ばれたんです。中途半端になってしまいましたが、今日はここで切り上げます。刑事さん達もいいですよね。まだ何かあるとしても、忙しいんで後日にして貰えますか。大事な研究なんで手を抜けないんです」

 そこまで言われては土屋も引き留めることは出来ないようだった。

「ああ。君のアリバイの確認もあるから後日研究室に向かわせて貰うよ」

「分かりました」

 塚本はそれだけ言うと、鞄を背負い込み、挨拶もそこそこに急いで部屋を出て行った。それをぼんやりと見送った御伽は、次の瞬間にはテーブルの下に屈み込む。

「何をやっているんだ?」

「いや、ちょっと気になったんで」

 顔を床に張り付けるくらいに近付けた御伽は、先ほど塚本が座っていた座布団を凝視する。そして、目に入ったものを指で摘まみ取った。細くて短い毛が光の加減で茶色く透ける。

「髪の毛か?」

「まあ、そんなとこっす」

 御伽は手に入れたそれを懐から取り出したビニール袋に入れる。

「それじゃ、大家さんの話を聞きにいきましょうか。警部」

 自分のせいで引き留めることになったという自覚もなく、彼女は相変わらずのマイペースさで土屋を急かした。

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