二、

 妙なタイミングで土屋の結婚履歴が暴露される事態に見舞われたが、それはさておき、事件の真相を追うのが御伽達の仕事である。

 この件は誰が見ても事件性が明らかだ。遺体は監察医務院へ回し、検死結果が出るまでの間、数人に分かれて捜査を開始する手筈となった。

 御伽が組むのは、相変わらず指導役という立場にあるらしい金森だ。土屋の指示を受けて、二人はひとまずのところ、赤いパーカーの少女の自宅を訪ねた。

 住所は遺体の男性は関与していた詐欺事件の資料を二課から取り寄せたリストを使っているので捜査に手間取ることはない。また、幸いといってしまうと語弊があるが、この周辺で犠牲になった被害者はそれほど多くはなく、数軒廻って対象の家を見つけ出すことが出来た。

 その家族が暮らしていたのは、少し草臥れた外観のアパートであった。

 クリーム色の壁は長年の雨風に晒されて所どころ汚れており、鉄階段も錆が目立ち、歩くと軋む音が聴こえた。築三十年は経っていそうな趣のある雰囲気だ。各部屋に設置された扉の横には洗濯機や消火器が置かれ、生活感が窺える。

 二階の一番奥にあるのが対象の部屋だ。表札には「森野もりの」と記されている。住人は在宅中であったようで、突然訪ねてきた警察に驚きながらも嫌な顔を見せることはなかった。

「ここでは暑いでしょうから中へどうぞ」

 女性が御伽達を招き入れる。化粧っけのない、何処かおっとりとした風貌だ。森野花菜はなという名で、先ほど現場で出会った少女の母親であった。

 捜査の際に警察を部屋に入れるのを嫌がる者もいるが、玄関先で聞き込みされているのを目撃され、近所中から妙な噂を立てられるよりは、家の中で落ち着いて話した方が後々面倒はない。森野もそれを分かっているようだ。

 室内は綺麗に整頓されていた。いくつか衣服が壁に掛けられているのが見えたが、狭いアパートで空間を十分に使おうと思ったら仕方のないところもある。衣装ケースは嵩張ってしまうのだ。

 案内された居間で御伽達が用意された座布団に腰を下ろすと、森野は開けっ放しになっていた襖をそっと閉めた。奥は寝室になっているようだ。閉める直前に、畳まれた布団が二人分と、ドレッサーが置かれていたのが見えた。

 壁に掛けられた時計は午後一時半を指している。間もなくして、テーブルに置かれていた灰皿を脇に避けた森野が、御伽達の前に二人分のお茶を差し出した。

「それで、大上さんのことでお話というと、例の詐欺事件についてでしょうか?」

「いえ、実はその大上さんなんすが――」

 どうやら森野はまだ橋梁での騒ぎを耳にしていないらしい。金森と視線を合わせた御伽は、大上が遺体で発見されたことを簡潔に伝えた。途端に森野は蒼褪あおざめ、信じられないと言って口元を覆う。御伽は観察するような目で彼女を見た。

「彼が昨日こちらへ伺ったという情報を入手しまして」

「はい」森野は肯定する。目を潤ませ、震える声で「大上さんでしたら、昨日ここにいらっしゃいました」と答えた。

「大上さんは三年前の事件をとても悔やんでいました。何度も足を運んで、頭を下げてくれて。少しずつですが、騙し取られた分のお金も返してくれていました」

 どうやら大上に関しては順調の更生が進んでいたようだ。仮釈放を認められただけのことはある。

 更に、渡されていた金額を聞いて、隣に座る金森が驚いていた。気持ちは分からなくもない。それは仮釈放中の人間が半月で稼げる給料の全額にほぼ近いものであった。

 前科持ちの人間を雇ってくれる職はそれほど多くはない。身元引受人の仲介で運良く見付けられたとしても、その稼ぎは微々たるものだ。一日を暮らしていくのもやっとであろう。

 であるにも拘わらず、大上は働いて得た給料の殆どを自身のためには使わずに、返却に充てていたということになる。それだけ真剣に償おうとしていたのだ。

 詳しく話を聞くところによると、大上が直接関わった事件がこの家族であったことから、最初の返却先とされたらしい。

 これまでの全てを森野に返し終わったら、また別の被害者家族の下に被害額分を支払っていくつもりであると、大上は語っていたという。

「被害に遭った母は昨年亡くなりました」

 森野が仏壇を振り返る。その先を見ると、居間の隅に小ぢんまりとした仏壇が置かれていた。遺影には穏やかに微笑む白髪の女性が写っている。

「彼のことは全く恨んでいなかったようです。変な話ですが、あんな仕打ちを受けたのに、逮捕されたと聞いて『刑務所で怖い人達に苛められていないかしら』と心配までして……」

 その時を思い出すように、彼女は小さな笑みをこぼした。けれど、こちらに向き直った森野の瞳は寂しげに揺らいでいる。

「彼にも母の話をしたんです。そうしたら、仏壇の前でぼろぼろ泣きながら何度も頭を下げて、一生懸けて償うからって母に約束してくれました。なのに……その彼が殺されるなんて……」

 それ以上は限界だったようだ。森野はわっと顔を覆った。すすり泣く声が室内に響く。

 話を聞いていた金森も悲痛な表情を浮かべていたが、御伽は場の雰囲気に釣られることなく、冷静に彼女を見据えた。

「大上さんがこちらにいらっしゃったのは、いつ頃っすか?」

「お昼頃で、時間は……確か十二時半だったと思います」

 彼女はハンカチで頬を拭いながら言った。

「いつもお昼休憩の時に来て下さるんです。朝から遅くまで仕事をしていて、空いているのはその時間帯くらいだから、と」

「何か変わった様子などは?」

「いいえ。特には」森野は首を振った。

「彼と顔を合わせるのは、いつも数分程度ですから」

 手掛かりはなし、と。そう金森がメモを取るのを横目に、御伽は「最後に一つだけ」と質問した。

「娘さんがいらっしゃいますよね。小学生の」

 御伽の視線が赤いランドセルへ向けられていることに気付いたのだろう。それを目に留めた森野はあっさりと頷いた。

「ええ。三年生の娘が一人」

「昨日は何時頃に帰宅されました?」

「恐らく午後三時過ぎだったと思いますが、何か……」

「その時間だと、娘さんは大上さんには会われていないってことっすね」

 隣で金森が奇妙そうに片眉を上げたのが御伽の視界の端に映った。彼もまた矛盾に気付いたようだ。

「ええ。娘は彼とは会っていません」

「そっすか」

 御伽は唇を吊り上げる。森野が嘘を吐いているのは明白だった。ところが、それ以上の追及はせず、会話を切り上げる。物言いたげな金森を促して森野宅を後にした。



「おい、どういうことだ。彼女の娘は昨日、遺体ホトケを見ているはずだろ」

 駐車していたセダンに乗り込んだところで、待ちわびたように金森が口を開いた。あそこで追及しなかった御伽に不満を持っているらしい。険しい表情をしている。

「金森さん。あの部屋を見て気付きませんでした?」

「は?」

「ドレッサーに並んでいた化粧品の類い、随分と派手なものが多かったんすよね。壁に掛けてあった服も」

「大上に渡された金で贅沢をしてるってことか」

 合点が行ったように声を上げる金森に、御伽は冷めた眼差しを向ける。

「いや、あの程度の額では無理っす。そうではなくて、派手な衣装に化粧品、母子の二人暮らし、母子家庭でありながら昼間のこの時間に自宅にいる。と来れば、彼女の職業が想像出来ませんか?」

「水商売か!」金森が目を見開いた。

 どちらかというと素朴な印象の森野からは想像がつかないのも無理はない。御伽が提示したヒントで察したようだ。

「だとすると、夕方から朝にかけて森野花菜は仕事に行っているはずだ。その間に娘が大上を見たってことか」

「もう一つ。テーブルに灰皿がありました」

 御伽がそういうと、金森は記憶を手繰るように目を瞑った。残念ながらすぐにはピンとこないらしい。吸殻は綺麗に片してあったが、異様に大きな灰皿が置かれていたのだ。

「しかし、彼女から煙草の臭いはしていませんでした。たまに吸っている、とも考えられますが、それなら灰皿は煙草を吸う時にだけ出せばいいはず。あれだけ邪魔になりそうな場所にずっと置いておくのは不自然っす」

 そこまで聞いて、金森は漸く御伽の言いたいことを理解したようだった。

「森野には男の影がある」

 求める答えを聞けた御伽は微かに笑う。自身で言いながら金森がムムッと唸った。何処となく悔しげな顔をしている。

 勝負事ではないが、御伽に一杯食わされたような気持ちになって面白くないのかも知れない。とはいえ、金森もプライドに拘ってここで反論するほど狭量な男ではなかった。

「その男が大上と接触している可能性があるな。暫く張り込むぞ」

 ぶっきらぼうに吐き出した金森を気にすることなく、御伽はいつもの気怠けだるげな態度で「了解」と短く返した。



 アパートから死角となる塀の陰にセダンを停車し、御伽と金森の二人は、森野の部屋に出入りする人影がないか見張っていた。

 空が橙色に染め変えられ始めた頃、事件現場で出会った女の子が帰宅する様子が見えた。それから数分もしないうちに森野花菜が部屋から出てくる。

 昼間に聴取した時とは異なり、濃いめの化粧を施し、服装も挑発的なボディコンワンピースに変わっていた。何処からどう見てもホステスの格好である。この様子では、御伽が睨んでいた通りで間違いなさそうだ。

 ところが、森野が出勤する姿を見送ってからは一度も人影は見えず、長い沈黙だけが車内を支配した。この空気に堪えられなかったのか、金森がおもむろに話題を振ってきた。

「そういえば、最近また動物虐待が増えているらしい。この辺りでも何件かあったんだと」

「マジっすか。酷い……」

 話題が話題なだけに、流石の御伽も無視することなく痛ましげに答える。殺しの現場を見慣れている警察官であっても、こういう事件は気が滅入った。御伽もペットを飼育しているからこそ、尚更愉快なものとは思えない。

 瞬く間に空気が重たくなる。次に続かなくなった会話に、金森も話題の振りを間違えたと察したようだ。雰囲気を切り替えようとラジオを掛けてくれたが、あまり気分は晴れそうもなかった。

 その後も張り込みは続いたものの、何者かが近付く気配は一向に見られない。いくら日の長い夏だといっても午後八時も過ぎれば暗くなる。街灯の少ない場所で目を凝らしながら監視するのも難しくなってきた。

「日を改めた方がいいかもな」

 当てが外れてしまったことに肩を落としながら金森が提案する。それでも午後十一時までは粘ったが、変化は何一つなかった。

「そうっすね。このまま張り込んでも収穫はないと思います。帰りましょう」

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