血濡れた頭巾
「私の耳が大きいのは、お前の声がよぉく聞こえるようにさ」
一、
八月も中旬を迎えた土曜日。相変わらずの日照りと湿度の高さは、夏の終わりがまだ程遠いことを報せていた。
相手を探してこれでもかと熱心に呼びかけるセミの鳴き声も相まって、ますます暑苦しさを感じてしまう。とはいえ、毎年のように最高気温を更新し続ける近年では、その夏虫ですら暑さに参って力尽きることも少なくない。
御伽もまた、連日の猛暑にやられたクチだ。自宅のリビングで、力尽きたようにソファに寝転びながら、ぼんやりと天井を見上げている。
冷房の利いた室内は心地の良い環境であるはずだが、これまで蓄積した疲労のせいもあるのだろう。何もする気が起きない。ずっと同じ体勢で、食べ切ったばかりのアイスの棒をくるくると弄んでいた。
今ばかりは
と、そこに、電話の着信を報せる軽快な音楽が鳴り響いた。ちらっと視線を上げた御伽は、上体を起こすことなく、腕だけを伸ばしてテーブルの上に置いていたスマートフォンを掴んだ。
「はい」
相手の名前すら確認せずに通話ボタンを押し、如何にもだらけきった、やる気のない声で返事をした。
「目黒川橋梁下で遺体が出た。支度してすぐに来い」
スピーカーが割れそうなほどの大声が響き、室内の空気を震わせた。御伽は咄嗟にスマートフォンを耳から離す。
「自分、今日は非番なんすけど」
「はあ? んなもん刑事に関係あるか! 地図は送っておく。急げよ」
用件だけ告げると、金森は通話を切ってしまった。溜息を吐いた御伽は仕方なく画像が届くのを待つことにしたが、何故かそれから、うんともすんとも反応がない。
数分待って受信を報せるポップアップが液晶画面に浮かび上がる。送信元は金森ではなく芝の名があった。
「ああ、金森さん。SNS音痴だっけ」
画像の送信にすらもたついている金森の代わりに、気を利かせた芝が送ってくれたのだろう。よく見ると、アカウントのアイコンが芝生になっていて、彼自身の影をシルエットとして撮影している。ユーモアのセンスもなかなかだ。年配の芝の方が最新ツールを使いこなしている。からかうネタが出来た、と御伽はニヤッとした。
「よっと」
勢いを付けてソファから起き上がった御伽は、寝癖の付いた髪をぐしゃぐしゃに掻きながら欠伸をこぼす。
「そんじゃ、まあ、行きますか」
午前十時十五分。車を走らせ、現場に到着すると、既に数台のパトカーが停車していた。
周りにはバリケードテープが貼られて部外者の侵入を阻んでいたが、目敏い野次馬達が集まって覗き込んでいる様子が見えた。彼らが拡散した情報に食い付いて、すぐにマスコミもやってくるに違いない。
御伽は野次馬の間を抜けて規制線内へ入り、同班のメンバーと合流する。
春であれば綺麗な桜並木に迎えられたであろうが、真夏の今は生い茂った葉が一面に広がっていた。季節を考えると、毛虫には注意した方が良さそうだ。
「おう、来たか」
御伽に気付いた金森が挨拶代わりに片手を挙げた。休暇中に呼び出したというのもあって、今回は遅刻だ何だと叱り付けてくる気配はない。軽く会釈をした御伽は早速訊ねる。
「ご遺体を確認していいっすか?」
「あっちだ」
彼が指し示した先には、ブルーシートに包まれた遺体が横にして置かれていた。遺体の傍に寄った御伽は、手を合わせて黙祷した後、手袋を嵌め、シートを剥がして中を確認する。
「
無精髭を生やした、厳つい顔付きの男性だ。まず目についたのは、額に張り付いた頭髪と、びしょびしょになって地面を濡らす衣服だ。青白くなった肌も水気を吸って膨張している。
水死体だ。溺れてもがき苦しんだようで、死に顔は苦悶に満ちていた。
「詐欺グループのメンバーでな。一人暮らしの高齢者を狙って、家族に成り済まし、大金を奪い取っていたんだ。三年前に二課の奴らが検挙したんだが、半月前から仮釈を受けているらしい」
「どうりで。随分と恨まれてるみたいっすね」
遺体の様子から、明らかに事故や自殺ではない。特に腹部は異常だった。水を呑み込んだせいにしては不自然な膨らみ方をしている。肌に張りついているシャツを捲ると、横に大きく裂いた傷がある。それを糸で縫い付けてあった。
治療の痕には思えない。縫合は雑なもので、出血も酷かった。その腹も、なだらかな膨らみではなく、大小のゴツゴツとした凹凸が見えた。指で触れると、固いものが詰まっていることが分かる。
「これ、石っすか?」
「麻薬を腹に詰めて密売しようとしていたという可能性もあるが、重さからいってそっちの方が確実だろうな。鑑識も引き上げるのに苦労したらしい」
手すりの近くまで寄れば、そこから護岸ブロックに囲まれた川が見下ろせる。いくつかの小舟を浮かべて鑑識官が現場検証を行っている光景があった。遺体はここから引き上げたようだ。
「通報があったのが午前九時。川に服が浮かんでいるのを近所の子供が見つけたそうだ」
金森の話では、発見時には遺体そのものは底に沈み、服だけが水面に漂っていた状態だったという。
第一発見者の子供は、まさか人間とは思わず、何処かの家の洗濯物が流されてきたのだと考えて、拾おうとした。家から持ってきた虫取り網で掬うつもりが、上手く引き上げられず、近くの大人に助けを求めたことで事態が発覚した、という流れだ。
「争った痕跡は?」
「特にない。ただ、手首に縛った痕が残っている。拘束された状態で腹を裂かれたんだろう」
確認してみると、確かに両手首を縛ったかのような痕が付いていた。他に手掛かりはないかと辺りを見回していた御伽は、ふっと視界に入り込んだ“赤”に動きを止めた。
「何だ?」
金森がその視線を辿る。御伽が見つめる先には、野次馬に混ざってこちらを窺っている女の子がいた。小学校三、四年生くらいだろうか。赤いノースリーブのパーカーがどうにも目についた。
「あの子、めちゃくちゃこっち見てません?」
「そりゃこんなに警察がわんさかいて事件の捜査してりゃ気になって見るだろ」
「いや、我々じゃなくて……」
御伽は少女の目線が遺体の方へ真っ直ぐに向けられていることに気付いた。ここから表情は見えないが、他の野次馬のように好奇心で眺めているというのではなさそうだ。
「ちょっと行ってきます」
「は? あ、おい!」
金森が呼び止めるのも無視して、身軽に立ち上がった御伽は規制線を越えて人混みの中へ向かって行った。
警察が近付いてきたことに、興味本位で周りを囲んでいた人々は少しだけ距離を開けた。高みの見物くらいならいいが、関わり合いたくはないのだろう。何にしても、場所が空いたのはちょうどいい。
反応が遅れて集団から取り残された女の子は、逃げることもせず、その場でポツンと立ち尽くしていた。不安そうに見上げてくる彼女を見つめ、御伽が問いかける。
「あの人と知り合い?」
少女は答えなかった。屈み込んで視線を合わせた御伽がもう一度訊ねた。
「別に責めてる訳じゃないよ。遺体をじっと見ていたから気になっただけ。教えてくれない?」
それでも少女は反応しなかった。頑なに口を噤んでいる。人見知りらしい。
「おいおい。お前、子供の扱いが下手過ぎるだろ」
駆けつけてきた金森が呆れた顔で言う。ちらりと視線を上げた御伽は立ち上がり、彼に場所を譲った。
「じゃあ、金森さんがどうぞ。
「よし。任せとけ」
鼻の穴を膨らませて意気込んだ金森がにっこりと笑顔を作って少女に声を掛けた。
「お嬢ちゃん。怖いことはないからね。刑事さん達に教えてくれるかな? あそこで眠っているおじさんを知ってる?」
「え。マジっすか、金森さん。有り得ないくらいキモいんすけど」
すかさず御伽が横から茶々を入れる。ところが、言い方はともかくとして、彼女の表情にからかいの色はない。至って真面目な指摘であった。
媚びるような笑みと猫撫で声で近付く強面の男というのは、客観的に見なくとも非常に拙い光景だ。金銭目的の誘拐犯か、幼い女の子に悪戯しようとしている変態にしか見えない。
顔を赤くして怒鳴ろうとした金森であったが、怯えて御伽の背に隠れる女の子を見て黙り込んだ。御伽の言うことも強ち間違いでないと分かったのだろう。とはいえ、納得はいっていないようで、悔しげに睨み付けてきた。
彼にはどうにも危機感がない。野次馬の何人かも訝しげに見ていたり、スマートフォンを頻りにこちらへ向けたりしている。どう考えても事案を疑われていた。
「金森さん。いいんすか? 撮られてますけど」
「は?」
「『ロリコン
御伽が周囲の様子を示すと、カメラを向けられていることに気付いた金森は慌てて女の子から距離を取った。やっと事態を把握したようだ。
「お前達、何をやっているんだ」
そこに土屋が現れて、呆れた顔を向ける。騒ぎを聞き付けてやって来たようだ。
「この子が
「知り合いか?」
「それを訊こうとしていたとこっす」
御伽の返答を聞いた土屋は、軽やかな動作でその場に片膝を着き、目線の高さが同じになるような格好で微笑んだ。
「こんにちは」
柔和な雰囲気の彼に警戒を解いたのか、はっきりと言葉にはしないものの、女の子は小さく頷いた。
「今、僕らは事件の調査中なんだけど、被害者のことを何も知らなくてね。もし君に知っていることがあったら教えて貰えないかな?」
穏やかな声には安心感がある。僅かに迷うような素振りを見せた少女だったが、ぼそぼそと話し出した。
「
「君の家に?」
「うん。昨日も来てた」
これなら殺害されるまでの足取りが掴めそうだ。土屋の
「お父さんかお母さんに会いに来てたのかな?」
「ママのとこ」
「その時、お母さんと何を話してたか知ってるかな?」
「おばあちゃんのこと。お金がどうとか言ってた」
彼女の言葉に、土屋はある程度の関係性を察したようだった。
「話してくれてありがとう。質問はこれで終わりだよ」
じっと土屋を見上げた少女は黙って頷き、踵を返して立ち去っていった。
「金を騙し取った相手の家族に謝りに行っていたんでしょうか?」
「それか、逮捕された逆恨みで脅しに来ていたか、だな」
実際のところは本人に訊いてみないことには分からないが、被害者の行動を追う手掛かりにはなった。
立ち上がった土屋が振り返るが、ずっと黙り込んでいる御伽に気付いたようだ。怪訝としながら声を掛けてきた。
「何か気になることでもあったか?」
女の子が去った方角をぼんやりと見つめていた御伽は顔を上げて、静かな目を土屋へ向ける。
「いや。子供の扱いが上手いな、と」
「何だお前。まさか自分では聞き出せなかったのに、警部が訊いたらすんなり答えたのが悔しいのか?」
いつもすましている御伽をからかえると思ってか、金森がニヤニヤとしながら彼女の顔を覗き込んだ。ところが、御伽は白けた視線を向ける。
「金森さんじゃあるまいし、そんなの思ってませんよ。ただ……」
「ただ?」土屋が訊き返した。
「警部、お子さんがいらしたんすね」
御伽がそう告げた途端、その場に沈黙が落ちた。
何を言っているのかすぐには理解出来なかったのだろう。金森がポカンと口を開けて固まるのが目に入った。
「は? お前、何言ってんだ。警部は独身――」
「よく分かったな」
笑い飛ばそうとした金森を遮って土屋が肯定する。その目は感心したように彼女へ向けられていた。御伽の指摘は間違っていなかったらしい。
「時折左手の薬指を擦っていることがあるんで、一度結婚されていたのかな、とは思っていました」
「もう別れて何年も経つんだが、指輪を付けていないのがどうも慣れないみたいでな」
苦笑しながら土屋が薬指に触れる。指輪の痕が残っている訳ではないが、よく触れているせいか、他の指より少し痩せているように思えた。
「おいくつなんすか?」
「ん?」
「お子さんっす」
「ああ。十歳になる。生意気盛りの女の子だよ。よく頭の切れる子で、少し御伽に似てるかもな」
御伽を見つめながら土屋は柔らかく目尻を下げる。彼が何かと御伽に対して甘い対応をすることがあるのは、娘に重ねているのもあるのかも知れない。
「なんだ、そういう理由だったんですね。俺はてっきり御伽に惚れているのかと……」
言葉にしてから、金森が邪推していたのを恥じるように視線を逸らす。御伽は思わず呆れた眼差しを向けるが、そう言いたくなる気持ちも分からない訳ではない。土屋の態度については、彼女自身も疑ったことが何度かある。というより、恐らく間違ってはいない。
肯定も否定もせずに苦笑いを浮かべる土屋をちらっと横目で見た御伽は、こちらも明確な答えを出すことなく、肩を竦めるだけに留めた。
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