三、

 午後二時十五分。警視庁へ戻った御伽達は、執務室に揃った刑事達と共に報告を始めていた。

遺体ホトケは月島紀和、五十三歳。首以外に目立った外傷はなく、死因は窒息死。死亡推定時刻は深夜二時から三時となっている」

 土屋が説明する横で、芝がホワイトボードに情報を記す。

「第一発見者の伊吹菜々子が出勤したのが午前六時。その後、朝食の準備をして、時間になっても現れなかった月島紀和を不審に思い、部屋を訪ねたことで、倒れている月島を発見したとのことだ」

「妻の君枝は、伊吹と入れ替わるように出社しています。前日に帰宅したのは深夜一時。ご主人の死亡推定時刻には自宅で過ごしていたらしいっすが、その間、不審な音などは聴いていないと答えています」

 恐らく音楽で物音が掻き消されていたのだろう。間取りを確認すると、寝室も離れていたようだ。あれだけ大きな屋敷であれば、自室にいたのなら、離れた部屋の音が届かない可能性は十分にある。

「出入口に設置されたカメラにもその様子が映っていました。証言に間違いはないようです」

 懐から出したメモ帳を確認しながら、芝が情報の信憑性を認めた。

「尚、午後六時過ぎに伊吹が退勤し、午後八時半には月島紀和が帰宅するところが撮影されています。その後、伊吹が戻った様子はありません」

「現状、自殺というのが濃厚だろうが、どうも引っ掛かる。司法解剖の同意は取れたか?」

「月島君枝の許可は得ています」

 聞き取りに出向いた会社で、帰り際に貰っておいた同意書を金森が差し出す。さっと目を通した土屋は軽く頷いた。

「検死の結果が出れば、事件性の有無も判断出来るようになる。それまでは関係者に話を聞いて情報を集めることに注視しろ」

 彼の指示に刑事達は揃って返事をする。

「まずはSNSの写真に映っていた人物からだ。君枝以外の残りの三人だが、伊吹に確認させたところ、月島紀和の娘達で間違いないそうだ。二人は君枝の連れ子で、一人は紀和が前妻との間に儲けた子らしい」

 芝が写真を拡大して切り取ったものをホワイトボードに貼り付ける。君枝の下に二人の女性を並べ、姉の英理えり、妹の真理まりと名前を記した。紀和の下には、美紀みきという娘の写真が置かれる。

「英理と真理の姉妹は現在独身だが、美紀は去年家を出て嫁いでいるそうだ。相手は王地おうじ金融企業の跡取りとのことだ。こちらも当たってくれ」

 土屋の指示を受けた刑事達は、それぞれ手分けして聞き込みに向かうことになった。



 腕時計の針が午後三時半を指す頃、御伽と金森は再びオフィス街へやってきていた。

 といっても、月島グループの本社があった場所とは別区域だ。高層ビルが並んでいるところは変わりないが、モダン的な外観をしていた向こうのオフィスビルとは、少しばかり雰囲気が異なる。昔ながらの堅実なデザインで、何代にも渡って繋いできた趣と力強さがあった。

 用があるのは、そのうちの一つ、王地金融企業である。自動ドアを潜ってフロントへ向かい、事情を伝えると、間もなく上階の応接室へ案内された。

「暑い中、お疲れ様です。大したお構いは出来ませんが、どうぞお寛ぎ下さい」

 突然の訪問にも嫌な顔をすることなく、彼らは丁寧な態度で御伽達を迎え入れた。示されたソファに腰掛けると、すぐに冷えた緑茶を差し出される。

 湯飲みを運んできたのは、儚げな印象をした細身の女性であった。透き通るような白い肌に、伏し目がちの顔は憂いを帯びていて、見る者の庇護欲を誘うようだ。男が放っておかないだろう。御伽の隣に座っている金森もまた、惚けた様子で彼女の所作を見つめていた。

「金森さん。鼻の下伸びてますけど」

 御伽がボソッと呟くと、彼は慌てたように表情を改めた。それを横目で確認した彼女は、やれやれというように肩を竦める。

 金森が見惚れていた女性こそが目的の人物、王地美紀だ。旧姓は月島。遺体として発見された月島紀和の娘である。

 隣にいるのは王地幸成ゆきなり。美紀の夫に当たる。西洋人の血が入っているのか、背が高く、金髪碧眼で、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしている。美紀と並ぶと、なるほど美男美女とはこういうものをいうのだろうと納得出来た。

 とはいえ、それがどうという問題でもない。彼らの容姿についてはこれといって関心を示すことなく、御伽は抑揚のない声で本題を切り出した。

「早速っすが、月島紀和さんのことでお話を伺いたいと思います。状況の方は――」

「理解しています。警察の方からご連絡を頂く前に、速報でニュースが流れていましたから」

 答えたのは幸成だった。気遣うように美紀を振り返る。

 月島グループの社長が亡くなったとあって、集まった報道陣が午後のニュースで流していたようだ。

「驚きました。まさかお義父さんが亡くなるなんて。ニュースを見た美紀はショックで一度気を失ったんです。美紀、辛いなら休んでいてもいいんだよ」

「いいえ、幸成さん。お父さんが亡くなったなんて信じられない気持ちだけど、何が起きたのかは知っておくべきだわ。私にはその権利があるの」

 気丈に振る舞う美紀の姿を前に、金森が心を打たれている様子が窺えた。御伽はそれを無表情に一瞥し、美紀達に向き直ると、淡々とした口調で問いかける。

「現状では自殺と考えられています。遺書には『遺産は全て、実の娘である美紀に相続させる』と書かれていました」

「そんな……遺産なんていらないのに……お父さんが生きてくれさえすれば、それで……」

 咄嗟に顔を覆った美紀は、堪え切れなかったようにすすり泣く。隣には、自分も辛そうに表情を歪めながら、懸命に彼女を宥める幸成の姿があった。

「こうも書いてありました。『辛い思いをさせてすまなかった』と。どういう意味か教えて頂けますか?」

 御伽が訊ねると、涙を拭いながら顔を上げた美紀は、寂しげな笑みをこぼした。

「よくある話です。実の母が亡くなって暫くして、父が再婚を決めたのですが、私はどうしても新しい母や姉達と馴染めず孤立していました。父はそれを悔いていたのでしょう。でも、だからって死んで償おうなんて……」

 またもや目を潤ませ、俯いた美紀の傍で、幸成も悔しげに唇を噛み締めている。明らかに同情している金森とは異なり、御伽は冷静に二人を見つめた。

「ところで、紀和さんが就寝時にショパンをお聴きになっていることをご存知っすか?」

「え、ええ。父の昔からの日課です」

「君枝さん曰く、タイマー予約で朝までには曲は切れるようになっているとか」

 美紀と幸成が同時に目を見開いた。

「そうなんですか。いつも桐山きりやまさんが切っていたので、今もそうなのかと……」

「桐山さんとは?」

「住み込みで働いている家政婦さんです」

 これには御伽だけでなく、金森も怪訝とした表情を浮かべた。

「その桐山さんという方は、住み込みで働いていらっしゃったんですか?」

「え、ええ。今は違うんでしょうか?」

 美紀が不思議そうに首を傾げる。

「現在は伊吹菜々子さんという方が通いで働いていらっしゃるみたいっす。桐山さんについては何も伺っていません」

 御伽の答えを聞いて、美紀は目を瞬かせた。どうやら初耳であったようだ。

「美紀さんが家を出られてから勤務体制が変わったんでしょう」

 スッと目を細めた御伽は、話題を逸らすようなタイミングで訊ねた。

「それはそれとして、この件に事件性があるかは分かりませんが、形式としてお訊ねします。死亡推定時刻の深夜二時から三時の間、お二人はどちらにいらっしゃいました?」



 数分後、ひとまずの聴取を終えて、御伽達は応接室を退出した。

「二人ともアリバイは完璧だな」

「ええ」

 王地夫妻は仕事の都合で、今日の午前まで大阪に出張していたらしい。帰宅したのが午前十一時。それからすぐに出社して、現在まで外出はしていないという。大阪での滞在もホテルに訊ねれば証言は得られると告げられた。

「ますます怪しいっすね」

「何だと?」

 どういうことかと金森が聞き返すが、御伽は意味ありげな視線を送るだけで明確な答えは出さなかった。

「それより、もう一度伊吹さんに話を伺った方が――」

 彼女が口を開いたのと同じタイミングで、廊下の向こうから休憩時間に入った社員達が執務室から出てきた。華やかなスーツを着た数人の女性グループが連れ立って歩いている。

 途中で言葉を切った御伽は、顎に手を添えて考え込む。何事かというように金森が視線を向けると、彼女は緊張感のない表情で振り返った。

「金森さん。ちょっとお手洗いに行ってきてもいいすか」

「あ?」

「実は我慢してたんすよね」

 そう言いながら彼女に焦りはない。だらけきった声の御伽に青筋を浮かべた金森だが、怒鳴ることなく犬を追い払うような仕草で「さっさと行ってこい」と吐き捨てた。ここで許可を出さなければパワハラだ何だと煩く言われると思ったのだろう。

 御伽の性格を考えれば賢明な判断だ。八つ当たりで「パワハラ刑事デカ」と題して撮影していたかも知れない。もちろんそれをインターネットに流すことはないが、間違いなく金森を囃し立てる材料として活用する。

「じゃ、ちょっと外します」

 了承を得たことで、御伽は欠片も遠慮した態度を見せず、堂々とレストルームへ向かって行った。



 御伽が目指したのは廊下を曲がった先にある社員用のレストルームだ。誰もいないのを確認すると、素早く個室に入る。鍵をかけ、自動で開いた便座の蓋を下ろせば準備完了だ。便座に腰掛け、その時を待った。

 暫くすると、靴を踏み鳴らす音と一緒にガヤガヤとした数人の話し声が聞こえてきた。先ほど見えた女性社員達が化粧直しにやってきたようだ。

「ねえ、聞いた?」

 個室に人が入っていることを気に留めた様子もなく、声も潜めずにそのうちの一人が口を開いた。

「月島グループの社長が亡くなったんだって」

「あ、さっき流れてたニュースでしょう。スマホで確認してみたんだけど、マジらしいよ。自宅で亡くなったんだって」

「自殺って本当かな」一人が訝しそうに「だって月島グループっていったらさ」と話を振った。

「ああ。あの女の実家よね。本人曰く、家族全員から腫物みたいに扱われてたって話だけど」

 答えた声は、何処となく小馬鹿にしているように聞こえた。

「取引先との接待でも、聞いてもいないのに本人がべらべら話してたわ。『継母や姉達と馴染めなくて、ずっと居場所がなかったんですぅ。しくしく』。あんたは何処のシンデレラよ、って」

「うわ、マジ?」

「で、掃除や洗濯や家事全般押し付けられてたとか遠回しに言うのよ。手荒れもないし、お茶くみ一つ出来ない癖に何言ってんの? って感じだけど」

「やばい。それウケる」

「取引先が男性なら同情してくれるところもあるんだけど、相手が女性だと嘘泣きだってばれるから場が白けるのよね。商談もパアになることあるし」

「はあ? 最悪じゃない」

「そうなのよ。本当に、その時の王地専務の嫌悪に歪んだ顔ったらないわ」

 話し手が微かに笑ったのが分かった。

「社長に言われて妻同伴という形を取ってるみたいだけど、あの女のせいで専務の取引って殆ど実績ないのよね。ぶち壊しまくり。あれでよくもまあ、次期社長夫人でござい、って顔が出来るわ。良い根性してるわよね」

「専務から恨まれてるんじゃないの。社長に取り入って無理矢理結婚したって話だし」

 陰口が楽しくなって来たのか、彼女達の声が弾んでいる。

「やばいわよね。普通そこまでする?」

「私だったらいくら専務と結婚出来るからって、社長と寝るとかないわ。言っちゃあ悪いけど、禿げた中年太りのオッサンだし。専務は母親似よね」

「それで、当の専務とはレスなんでしょう」

「最初から関係なんか持ってないみたいよ。に弁明してるの聞いちゃった」

 途端に数人から黄色い声がこぼれた。なかなか面白そうな情報だ。御伽は身を乗り出して聞き耳を立てる。

「普段なら不倫とか最悪って思うけど、専務の場合はね……」

「本人の意思に関係なく無理矢理引き裂かれちゃった訳だもの。やっぱり同情しちゃうわ」

「でもさあ」思い立ったように一人が呟く。「相手の女性ってどんな人なんだろうね」

 彼女達の誰も知らないのだろう。一分ほど沈黙が流れた。

「少なくとも、あの女よりまともよ。じゃなきゃ私が許さん」

「出た、専務ガチ勢」

「推しをこれ以上不幸にはさせたくないわ」

「分かる」

 そこから王地幸成について褒め称える会話が繰り広げられた。見た目もあって女性社員からも人気があるらしい。確かにその辺のアイドルよりも煌びやかな容姿だった。ファンも付くはずだ。

 彼女達がお喋りに満足してレストルームを出て行く足音を聞きながら、一人残った御伽は、個室に閉じこもったまま腕を組んで考え込んでいた。



 御伽がレストルームから顔を出すと、出入口の前で不機嫌そうに待ち構える金森と鉢合わせた。

「いつまでかかってやがる。大の方でもしてたのか?」

「金森さん。それセクハラっす」

 デリカシーのない金森に呆れつつも、御伽は仕方ないかと溜息を吐く。

 どうやら彼はここでずっと待機していたようだ。きっと先ほどの社員達から変態を見るような視線でも向けられていたに違いない。御伽は明らかに待ち時間だけではない苛立ちを金森から感じ取った。

 とはいえ、いちいち相手にする気もない彼女は、出口へ向かってあっさりと踵を返す。

「用も済んだので、取り敢えず戻りましょう」

 むっとした金森も、ここで怒鳴ったところでどうにもならないと察してか、御伽の背を追い掛けてきた。同僚としての付き合いも四ヶ月になる。そろそろ扱いを学んできているらしい。

 二人で駐車場へ下り、停車してあるシルバーのセダンに乗り込むと、助手席に着いた御伽が改めて口を開いた。

「金森さん。あの夫婦を見てどう思いました?」

「は? 何だよ、いきなり……」

 運転席でシートベルトを締めながら金森が怪訝そうな顔をする。

「いいから答えて下さい」

 感情の読めない御伽の視線に金森は怯んだようだが、それを咳払いで誤魔化した。

「ま、まあ、随分と綺麗な人達だったな。美男美女ってやつか? なかなかお目に掛かれない――」

「いや、そういうのじゃなくて」

 僅かに頬を赤らめる金森を冷めた眼差しで見る。誰も見た目については触れていない。

「金森さんが鼻の下を伸ばして美紀さんを見つめていたのは知ってますけど、まずそんな感想が出てくるとか凄いっすね。脳内どんだけピンク色なんすか」

 御伽の容赦のない言葉に金森が凍り付く。だが、すぐに取り繕った。

「冗談に決まってんだろ。あれだ、その、若いのにしっかりした夫婦だと言いたかったんだ」

「はあ……」

「辛く険しい環境下で、唯一の支えだった父を亡くして泣き崩れる妻と、それを支える夫。美しい夫婦愛じゃないか。少しぐっときちまった」

 金森が腕を組んでうんうんと頷くのを、御伽は呆れた顔で眺める。

「マジっすか。金森さん、やっぱり女の涙に弱いんすね」

「ちょっと待て。なんでそうなんだよ」

 聞き捨てならないとばかりに睨み付ける金森に、彼女は態とらしく溜息を吐いた。

「いや、だって思いっきり嘘泣きに騙されてんじゃないっすか。それじゃあ、幸成さんの様子にも気付いていなかったんすね」

「は?」

「金森さん。あの二人、メッキの剥がれかかった仮面夫婦っすよ」

 言葉を失っている金森から目を逸らし、御伽はおもむろに懐からスマートフォンを取り出した。画面には顔文字付きのメッセージが浮かんでいる。

「まあ、何にせよ一度戻って情報を纏めましょう。科捜研からも連絡来てますし」

「科捜研から?」

 どうして御伽に連絡が行くのかと、金森が不可解そうに眉を寄せるのが見えたが、御伽は意に介さず「さあ、早く」と言って急かした。こうしてぼんやり座っている時間が無駄だ。

 物言いたげな視線を向けたものの、答えが得られないことを悟ると、金森は仕方なさそうにエンジンを掛けた。

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