二、
同日、午前十二時。都内有数と呼ばれるオフィス街に、一台のセダンが停車した。間を空けず助手席のドアが開き、軽やかに御伽が降りてくる。
「駐車してくるから先に話しを通しておけ」
運転席から顔を覗かせたのは金森だ。了承を告げた御伽は踵を返し、目的の場所へ足を進める。
見渡す限りに超高層ビルが建ち並んでいた。そのせいだろうか、彼女が歩く度に、辺りを囲んだオフィスビルがじわじわと追いかけてくるような錯覚を抱かせた。いくつものビルが空を覆い、頭上から圧し掛かるように聳え立っている。小柄な彼女であれば簡単に呑み込まれてしまいそうな迫力があった。
もちろん、その高さに圧倒されることはあっても、怯えるような御伽ではない。何食わぬ顔で先へ向かった彼女は、目的のビルの正面扉に手を掛けた。
回転式の扉を抜けると、広大な玄関フロアに辿り着いた。綺麗に磨き上げられた床が頭上から降り注ぐライトの光を反射している。恐らく大理石に違いない。
フロントには、制服を着た女性が二人並んでいた。真っ直ぐに歩いて行く御伽に気付いた彼女達が、営業用の笑みを貼り付けて一礼する。
「すいません。ここの副社長にお話を伺いたいんすけど」
受付の前に立った御伽は、すぐに身分証を掲示する。目を見開いたスタッフは「少々お待ち下さい」と断りを入れ、内線で連絡を取り始めた。
相手に連絡がつくのを待っている間、御伽は辺りを観察しながら時間を潰す。社員が入れ替わり立ち代わり通り過ぎるのを眺めたり、壁に掛けられた絵画を数えたり、床を打ち鳴らす足音に耳を傾けたり、意外にも暇潰しに困ることはなかったが、途中で飽きた彼女はスマートフォンを取り出して弄り始めていた。
そうこうしていると、駐車を終えた金森が入ってきた。スマートフォンを見ている御伽に気付くなり、彼は苦い顔をする。しかし、金森が叱ろうと口を開いたところで、タイミング良くスタッフの一人がこちらに呼びかけた。
「お待たせいたしました。副社長がお会いになられるそうです。ご案内いたしますので、こちらへどうぞ」
御伽達はスタッフに案内され、エレベーターを使って最上階までやってきた。廊下を進み、副社長室まで通されると、きつそうな見た目の女性が出迎えた。
事前に目を通した情報では四十代前半とのことだったが、化粧のせいか、三十代くらいに見える。目鼻がすっきりとした顔立ちで、スーツ越しにも分かるほど肉感的な体型をしていた。男が放っておかないような、大人の女性らしい色香があった。
「暑いところをお疲れ様です、刑事さん。どうぞ、中でお寛ぎ下さい」
促されるままに御伽達は来客用のソファに座る。すると、脇で控えていた秘書らしき人物がアイスティーを運んできて、テーブルに並べた。
「どうも」
早速とばかりに御伽はグラスを手に取った。冷たい液体が食道をすぅーっと抜け、火照った体を癒す。ホッと息を吐いた彼女に、正面に座った女性がくすくすと声を漏らした。
「連日猛暑が続きますから、外でのお仕事は大変でしょう。水分補給は欠かさないようにしないと」
気が強そうな見た目をしている彼女だが、笑うと目尻が下がって可愛らしい印象になる。
「そちらの刑事さんも遠慮などなさらず」
「お気遣いありがとうございます」
他人の前だろうと奔放に振る舞う御伽に呆れていた金森は恐縮そうに頭を下げる。再度勧められて漸く彼も喉を潤し、息を吐いた。
「刑事さん達は、主人のことでいらしたんですよね」
こちらが口にするより早く、彼女の方から本題を切り出した。夫が亡くなったばかりだというのに、その顔に悲愴感は見られない。背筋を伸ばし、凛として御伽達と向き合っていた。
「
暫くは自宅に戻ってくると思って待っていた御伽達であったが、家政婦が連絡しても「戻らない」と返答があったというので、勤務先へ出向くことになったのだ。
「冷たい女だと思われるかも知れませんが、仕事を放ってはおけませんでしたので。社長である主人が倒れたのであれば尚更です。こういう時だからこそ、社員が動揺しないよう、しっかりと心を配らなければ」
上に立つ人間としては、その言い分もおかしなことではなさそうだ。社長が倒れた上に、副社長までが慌てたところを見せれば、下にまで混乱が伝わり、会社として立ち行かなくなる可能性がある。一時的なことであっても、これほど大きな会社であれば、反動は強いはずだ。
「嘆くのはいつでも出来ます。今は主人がいなくなった分の穴埋めをすることが先決なんです」
「流石っす」御伽が感心した様子で言った。
「陰に日向に社長を支え続け、会社をここまで大きくされただけのことはありますね」
初めて耳にする話だったようで、怪訝とした金森が問うような視線を向けた。すると、御伽はすかさずスマートフォンの画面を彼の目の前に突き付ける。
「かなり有名な話みたいっすよ。元は小さな商社だったのを、君枝さんと再婚されてから大手企業に伸し上げることが出来た、と。雑誌にも特集されていたことがあるとか。働く女性として一般の女性からの支持も厚いようで、どちらかというと社長よりも会社の顔といえますかね」
「口下手な主人の代わりに、私の方でメディアに対応しているだけです。この会社は、主人と二人三脚で大きくしてきたものですから」
煽てるような言い方をした御伽に釣られることもなく、君枝は冷静に返した。
「それより、他にお聞きしたいことがあるんじゃないですか」
回りくどいやり方は好きではないようだ。既に御伽達が何を言わんとしているのか察しているらしい彼女は、先を促すように言葉を掛けた。
横目で金森に促された御伽が口を開く。
「では、お訊ねします。早朝、お急ぎの様子で自宅を出られたそうっすね」
「職場から緊急の連絡が入りましたので」
「出掛ける際に、ご主人の状態に気付かれませんでしたか?」
その質問に君枝は苦々しい顔をした。
「長い間、主人とは同じ部屋を使っておりません。帰宅時間がずれることが多いので、互いに別室で過ごすようにしています。お蔭で自宅から顔を合わせることも減ってしまいました。昨夜も私は取引先との打ち合わせが長引いてしまい、戻ったのは確か……深夜一時を回っていました。朝も早く出勤したので、結局主人の顔は見ないままで……」
「それを証明出来る方はいらっしゃいますか?」
「帰宅時間は玄関の防犯カメラやドライブレコーダーで確認して頂ければ分かると思います。けれど、自宅での様子となると、流石に……」
もちろん御伽達もそれを証明出来るとは思っていない。寧ろ二人暮らしの夫婦の家で、都合良く証明出来る人間がいて、十分なアリバイがあるという方が怪しい。
「帰宅後はすぐにお休みになられたんですか?」
「入浴を済ませて、自室で軽く資料の整理をしてからになりますが」
「その際、何か不審な物音などは?」
「いえ、何も。主人は普段、寝る時にショパンを聴いているんです。昨夜も部屋から聴こえてきたので、既に休んでいるものと思って訪ねることもありませんでした」
御伽は部屋に入ってすぐに聴こえてきたクラシック曲を思い出した。
「なかなか洒落た趣味っすよね。自分も聴かせて貰いました。ショパンの『ノクターン』」
「えっ」君枝が目を丸くする。
「鳴っていたんですか? 朝まで?」
「ええ。我々が到着するまでそのままだったようです。何か気になることでも?」
尋常でない気配を察して、金森が身を乗り出した。その勢いに少し仰け反った君枝であったが、困惑混じりに答える。
「主人は普段、タイマー機能を使っているんです。就寝から三時間で電源が切れるように。朝まで流しっぱなしなんて考えられません」
さり気なく金森と視線を交わした御伽は、同時に頷き合った。
駐車場へ下りてきた御伽達は揃ってセダンに乗り込み、先ほどの聴取を振り返った。
「どう思う?」
「状況的に犯行が可能なのは君枝さんでしょうね」
不意に振られた問い掛けに、御伽は現状から見て無難な答えを返した。途端に金森が力強く頷く。
「戻った時には気付いた音楽を、出掛ける時には聴いていないというのも妙な話だ」
訝しげに呟く金森に、御伽は返事をしなかった。急いでいて気に掛ける余裕がなかったとも考えられる。その点だけで疑うのは早計だ。
「何より、夫が死んだっていうのに仕事を取る妻がいるか? 格好だけでも悲しんで見せればいいものを。ありゃ死んで清々したってクチだな」
得意げに言う金森をちらっと見て、御伽は溜息を吐いた。
「君枝さん、震えてましたよ」
「は?」
「自分には、感情を抑えて気丈に振る舞っているように見えました。まあ、あれが演技なんだったら相当な女優といえますけど」
世の中には、素直に泣ける女性ばかりではない。いっそ人前で涙を見せる方が信用ならない場合もある。女性の涙にはいくらか嘘が混ざっているものだ。騙されるのは男くらいだろう。
「金森さん。女の涙に弱そうっすからね」
「おい、馬鹿にしてんのか」
しみじみと呟けば、聞き捨てならないとばかりに金森が噛みついて来る。それを無表情に見つめ返し、御伽は軽く肩を竦めた。
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