引っ越し 内面
ひどい地鳴りがしたかと思うと、足元がぐらりと揺れた。3ヶ月前に買った皮の椅子から左右を見れば、本棚の上からジオラマのプラスチックフィギュアが床に落ちて転がる。槍が折れていないことに胸をなでおろすより、今は自分が机の下に逃げた方が良さそうだった。
しかし揺れは思いのほか早く収まった。
大陸育ちのシリルにとって地震はあまりに縁遠いものだ。恐る恐る立ち上がってみて、心臓が痛いほど強く打っているのに気づく。胸を抑えながら深呼吸をしてみて、プラスチックフィギュアを拾い上げる。塗装も剥げていない。
廃墟混じりの荒野を再現した展示台にフィギュアを置き直す。自信作の素晴らしい出来は少なからずシリルに平静を取り戻させる。
映画を止め忘れていたことに気づいて、マウスを一つ叩く。どうやらライフラインもネットワークも無傷らしい。一番ダメージを受けたのが自分の心臓だと知って、シリルは苦笑いする。
「水でも飲もう」
わざわざ口にしてみる。自分の声を聞くだけで、いくらか安心する。
しかし手をかけた扉は開かなかった。
揺れで家が歪みでもしたのか、ドアノブを捻って押してみてもこれっぽっちも動かない。やむなく体当たりをしてみても効果がない。
焦れたシリルは数歩下がって、走り込んでぶつかってみる。
ぶつけた右の上腕が痛いだけで、扉はそのままだった。
「なんてこった」
歪んでしまったというなら望み薄だが、他の方法も考えてみる必要がある。まずは部屋にある二つの窓を隠していたカーテンを開く。夜が広がっていた。
錠を外して窓を引くと、すんなりと開く。
ようやくシリルは異常に気がついた。
窓は開いたが、およそ外というものがなかったのである。
本来なら見えているはずの街灯も見えなければ、部屋の明かりを反射するはずの庭の木さえ見えない。むろん隣家も月の明かりさえ見えなかった。
シリルは非科学的な思考をする人間ではなかったから、それでもそこに同圧の空気があることには気がついた。つまり部屋ごと宇宙空間に放られたとか、真空中に吹き飛んだとか、どうやらそういうことではなさそうだった。
何もかもを飲み込んでしまいそうな暗闇に手を伸ばすのには恐怖を覚えた。シリルは捨て置いたままになっていたハンガーを一つ手にとって、めいいっぱい腰を引いてハンガーを暗闇に突き刺してみる。
わずかにプリンだかゼリーだかを押すような感触があった。黒い平面に放射状のシワがよったかと思うと、すぐに破けて貫いてしまった。幕というにはあまりに弱い。
しかし驚いたのはそれからだった。
シリルがその物理的な感触に安堵の息を漏らそうかとしたとき、暗闇の中を何かギラギラとした巨大なギロチンの刃ようなものが通り過ぎた。あまりの早さに、反射神経をしてハンガーを引き戻すことは難しかった。
だからシリルが感じたのは、ハンガーを持つ腕に伝わったわずかな振動だ。シリルがようやく——まぁほんのコンマ数秒後を「ようやく」と呼ぶのが正しいかは別として——ともかくその刃の速度に比べればずいぶん緩慢に腰を抜かしてハンガーを引き抜くと、その右肩——まぁハンガーの右と左なんてわからないのだけど—— が明らかに鋭利な刃物で切断されていた。
「オーマイ……」
シリルは言葉を失った。喉がカラカラに乾いていて、心臓は痛いほど脈打っている。
部屋に飲めるものはないかと見渡したが、それらしいものは見当たらない。額の油汗を拭う。
(悪い夢でも見ているのか……)
そう考えるのも無理はない。シリルの身に起こっていたのは、まぎれもない超常的な現象に違いなかった。
窓が外からの圧力に悲鳴をあげた。放射状の筋が走っている。
「嘘だろ! おい、やめろ! 死にたくない!」
窓の反対側の壁にへばりつく。何を叫んでも誰にも聞こえないことなどわかっている。しかしそう声を上げ、首を懸命に振って、この事態を引き起こした何かとコミュニケーションを図る以外に、シリルに思いつく解決策はなかった。
窓が砕け散り、床にガラス片が散らばった。シリルは顔を両腕で覆う。
部屋の軋む音が続くかと思ったが、両腕を開いたシリルの目には妙なものが映り込んだ。
割れた窓からコンベアのようなものが部屋に突き刺さって、回転を始めた。その上にはシリルが待ち望んでいたミネラルウォーターが列をなしている。
無限の暗闇から次々に送り出されたミネラルウォーターはボトボトとつまらない音を立てて部屋に積み上がった。あっけにとられていたシリルがそれを数えたのはかなり時間が経ってからのことだが、24本も送り込まれていた。
シリルは状況を理解することができなかった。部屋を丸ごと切り抜いて、妙な真っ黒の幕で覆い尽くし、その中に無理やりコンベアを突っ込んでミネラルウォーターを送り込むなんて、一般人に対するドッキリ番組にしてはやりすぎだ。それに、あのギロチンのような刃!
つまり、部屋を出るなと警告され、この水で当座をしのげと言われたわけだ。大人しく従うよりほかなかった。
シリルにとって幸いなのは、コンピューターやネットワークを利用できたことだ。すぐにSNS上で助けを求めた。芳しい応答はなかったが、それでも自分が完全に孤立したわけではないと確信を持つことができた。
しかし2日後に友人がシリルの失踪を責めるメッセージを寄越したとき、ネットワークはむしろ不安の種に変わってしまった。
「部屋になんていないじゃないか」
「ちょっと待て、まだ部屋があるのか?」
「なんだ、燃やして逃げるつもりだったのか?」
誰に説明を求めても解決はしなかった。自分が妙な黒い幕に覆われた部屋の中で地震後孤立しているとどれほど主張しても、そもそも地震などなかったという応答しか返ってこない。ついにはネット上を賑わせる奇人の一人としてちょっとしたバズりの種にされてしまった。
その頃にはミネラルウォーターをすっかり受け入れていた。はじめこそこの得体の知れないペットボトルに恐怖を抱いたが、一度飲んでみれば乾いた喉はいつもそれを欲していた。
割れた窓ガラスもとうに片付けられて、排泄は壊れた窓の外に向かってすることにしていた。どういうわけか匂いも残らず、水が地面を弾く音も帰って来ることはなかった。
シリルにとって最も長かった1週間は唐突に終わりを迎えた。
まるで空間がすっぽりはめ込まれたみたいに、窓の外の景色が下からぬっと現れたのである。
しかしその景色はひどく荒涼とした田舎の光景だった。
「俺がいない間に街が田舎になった」
そう発信してみても、ウェブ上のリアクションはシリルの新しい反応を笑うばかりだった。
遠くに看板が見える。眼を細めれば、アルファベットによく似た見慣れない文字列が並んでいた。
「何が起きてる……俺はアリスじゃないぞ」
口ではそう言っていたが、シリルはなんとなく直感していた。
ネットワークだけが繋がった、どこか別の世界に自分が下されたことを。
荒涼とした景色の中に、柔らかい雨がサラサラと降り始めた。
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