第二巻 凶夢ヴィーダーゼーエン 前

街道を歩く足どりは重かった


街道を歩く足どりは重かった。

狭い室内からようやく解放されて、もう僕を縛る枷はなにもないのに、腹の内にはまだ黒く淀んだものが漂っている。

今まで、自分の意志で四人殺した。

最初は無我夢中だった。

二度目は友人を殺した女への復讐のためだった。

三度目は愛する人を守るためだった。

四度目は――愛する人と再会するため……。

「馬鹿なやつ……」

三度目のことを思うと、自然とそんな悪態がこぼれた。

一〇〇年も僕を監禁していた魔女の末路は、そんな一言に尽きるからだ。

僕はあの女を憎んではいたが、生きながらえる選択肢も与えてやったはずだ。

それなのにあいつは、僕を好きだと抜かしていたあいつは、結局殺されることを選んだ。

『愛してる』

あんな言葉で、僕が心変わりすると、本気で考えていたのか?

そんなことは絶対ありえない。わかっていたはずだ。だってあいつは――

握りしめていた手から、いつの間にか血が滲んでいた。

これは、復讐だ。

この手に残る不快な感触にさえ目を瞑れば、なんてことはないはずだった。

今までの四人はすべて、許されないことをしてきた。当然の報いだと、それで割り切れてしまえるはずだ。

だのに――

窓のついた家を通りかかる際、そこに映った男の顔が目にとまる。酷くやつれて、憔悴しきった顔だった。

そんな顔でどこへ行く。誰に会いに行くと、男がそう僕に訴えているような気がした。

誰に――?

もちろん、愛する人のもとだ。彼女と再会することだけを考えて、今日まで生きてきた。

だというのに、この曇り切った胸中はなんなのだろう。窓に映った死人みたいな顔は、まるで死刑台に向かう罪人のようだ。

顔を覆って、視界を閉ざした。

『後悔してるの?』

瞼の奥で、黒髪の彼女が立っていた。

僕を悲しそうな目で見ている。

『なら、どうしてわたしを殺したの?』

涙目で訴える彼女に、僕は何も答えることができなかった。


休日の午前中、その大きな街は控えめな賑わいを見せていた。

通りを歩く人々は明るい色の外套に身を包んで、誰も彼も笑顔を咲かせている。そんな人々の手には一様に花の束が握られており、通りに並ぶ家々の玄関にも彩り豊かな花が飾りつけされている。

僕はそんな風景の中をとぼとぼと歩いている。

「おい、あんた」

暇そうに歩いている人間が珍しかったのだろう。通りかかっただけの僕に声をかけてくる男がいた。

さして興味などなかったが、僕は首をかしげて、なんだ? という顔をしておく。

「こんな日になんて辛気臭い顔してんだよ」

「こんな日とは……?」

暗い顔で歩いちゃいけない日なんてあるのだろうか。

男は腕をまくって、得意げに言った。

「生誕祭だよ。明日からお祭り騒ぎが三日三晩は続くんだ。そういう顔してると悪目立ちするぜ」

生誕祭――

「その顔、まさか知らないでここを歩いてるのかい?」

「今しがたこの街に来たばかりなんだ……」

なんのことか見当もつかなかった。

「よそから来たのかあんた? なら教えてやるよ。生誕祭はな――」

彼は、旧友にでも語って聞かせるように、この街の発祥から話し始めた。


海とは縁遠い大陸の中腹に、サンスタウェイという山林に囲まれた街がある。

かつて大戦によって荒廃した旧市街が、人の手で再び息を吹き返した歴史ある都だ。

新市街は旧市街を囲うようにして隣接していて、ちょうど三日月の明るい部分を象っているのが新市街だ。中央寄りの、月の陰影部分の方にいけば、まだ旧市街の色が残っている。

秋の半ば、作物の実りの季節に、街は名前を変え、代表者を新たに選ぶことで生まれ変わった。それは街の復興記念日となった。

年に一度、墓参りに参拝者たちが外部からも訪れる。この時期は人の出入りも激しくなって、客商売が捗るのだそうだ。道行く人々が手にしている飾りの花は、先の大戦で亡くなった人の弔いの意味もあるらしかった。


旧市街の方に進むにつれて、人通りもまばらになっていく。

露店や市場でごった返していた広場に比べて、少し古臭い建造物が並んでいる静かな道だ。

僕はこの街に祭りを楽しみに来たわけでも、墓参りに来たわけでもなかった。

リナリア・センチェル――

僕の恩師であり、命の恩人であり、とても大切な人。

彼女がこの街にいるという噂を、色々と探し回って掴んだからだ。

なんでも、同姓同名の人物がここの『ミチーノ』という名前のレストランで働いているらしい。

彼女があの廃墟を離れて、本当にこんな大きな街に移り住んだのかは、釈然としないところがあるが。

彼女の特性上、人のいる場所を絶対に好まないだろうという思い込みもあった。

だからまだ、半信半疑だ。

似た名前の人物である可能性もある。情報源が古ければ、すでに彼女がこの場所を離れている可能性だってある。

そんな風にごちゃごちゃ考えながら、僕は街の通りを進んでいった。

はやる気持ちはある。でも一方で、恐ろしい気持ちもあった。

会って何を話せばいいのか。

そもそも僕は、彼女と言葉を交わす資格があるのか。

血で汚れたその手で、彼女に触れてもいいのか。


あなたを愛していたのに――


ある少女の顔が頭に浮かんで、酷く気分が悪くなる。

リナリアを探すという段階では、まだ何も考えずに捜索するという行動ができたけど。

でも彼女と顔を合わすところまでは、まだ覚悟ができていない……。

このまま引き返してしまおうかとも、僕は考えはじめていた。

だけどすぐにそれが最も愚かな選択だと自分に言い聞かせた。

全部、彼女に会ってから、判断しなければいけない。

彼女が僕にとって大切な存在なら、なおさらだ。

綺麗なタイル張りの坂道を登っていくと、ちょうどこちらに向かってくる馬車の存在に気づいた。急いでいるのか結構なスピードが出ている。

それを何気なく目で追っていると、突然進行方向に黒い何かが飛び出した。

猫だ。

黒猫が一匹、馬の足元を走り抜けようとしていた。

でも、間に合わない。

御者には小さな猫の姿など見えてはいないようだった。

小さな命が押しつぶされる刹那――

「どいて!」

誰かの声がすぐ横を通り過ぎていった。気づけばその誰かは僕の前に飛び出して猫に手を伸ばしている。

馬車の勢いは弱まらない。

僕にはその一連の光景がスローモーションに見えた。

車輪の間にもつれて、猫と少女が引き千切られる様を想像した。


馬車は土埃を上げながら僕らの真横を通り過ぎていった。 

黒猫を抱いて地面に座り込んでいる少女は、それを目で追いながらキョトンとしている。

「あれ……生きてる……?」

死ぬつもりだったのかと、思わず突っ込みたくなる。

「大丈夫かよ」

僕が声をかけると、少女はこちらを見上げてぎょっとした顔をする。

どうも僕の顔を見て驚いたように見える。失礼なやつか?

一応彼女に手を差し出すと、女の子は特に迷いもなく掴んで立ち上がった。その拍子に彼女の膝の上に乗っていた猫はぴょんと飛び降りて、そのまま走り出してしまった。

「うわぁ、助けてあげたのに薄情なやつ!」

口をいーっとさせて、少女は猫に吠えていた。

これだけ元気なら、大丈夫そうだ。

僕はその場から離れることにする。

「ちょっと待ってよ。なに立ち去ろうとしてるんですか」

今しがた命を救ってやった少女に肩を掴まれる。

改めて目に入れたその子は、真っ白な髪をしていた。一瞬、探し人が突然目の前に現れたようで驚いたが、よくよく見れば顔は似ても似つかない。するとパールピンクの双眸が訝しむように細められた。いけない、ついジロジロ見てしまった。

「な、なに?」

身を引いて距離を離そうとするが、追いかけるように少女が顔を近づけてくる。険しい表情で僕の顔を見ている。なにやら、つま先から頭のてっぺんまで、値踏みでもされているみたいにじろじろと見られている。

もしかして、助けに入ったのは余計なお世話だったのだろうか……。

「ありがとう!」

突然深く頭を下げた。

「今、助けてくれたんですよねっ? だって絶対に助からないタイミングでしたし」

どうやら感謝はしてくれているらしい。ただ今、無視できないことを言った。

「……助からないってわかってて突っ込んだの……?」

少女は苦笑いを浮かべた。笑い事ではないぞ。

「猫を助けたい一心で馬車の前に飛び出したのならわかる。けど死ぬとわかっていたならただの自殺行為だ」

「ですよね。気を付けます」

返事だけはしっかりしている。気を付けるで済む話でもないが。

「でもあなたすごく速かったですね。直前までぼーっとしてたのに」

時魔法を駆使して彼女と猫を道脇に移動させたことを言っているらしい。というか――

「ぼーっとしてる男の前で飛び出すなよ……」

話してると、本当に自殺願望でもあるんじゃないかと混乱してくる。

「とにかく、ありがとうございます。あなたは命の恩人です」

「誰かに感謝されたくてやったわけじゃない」

だいたいこの子が道へ飛び出さなければ、猫を見殺しにしていた。

実感がないくらいに、自然に手を出してしまったようなものなのだ。

「それでも! ありがとうございます! あなたが助けてくれなかったらぼく死んでました!」

少女の瞳は嫌味なくらいにまっすぐで、子供のように目をキラキラさせて笑った。心から感謝しているように見えた。

そのときなるほどと僕は思った。

今、僕は一人の女の子の命を救った。人殺しの僕でも、誰かを救うことはできるんだ。それは、もしかしたら誇っていいことなのかもしれない。

その力が、別の誰かに施されて得たものだとしても――

「でも残念です。とても貴重な出会いでしたが、もう時間切れなので……」

少女の顔が、今度は残念そうにうつむいた。

コロコロと表情が変わって、忙しそうだ。

「時間切れって?」

「……いえいいんです。どうせ忘れちゃいますから」

「え?」

不可解なことを口にした直後、少女は顔を上げてこちらに笑顔を向けた。

「それじゃあ買い出しの途中だったので失礼しますっ」

少女はもう一度お辞儀をすると、手を振りながら走り去っていく。

買い出しということは、何かの用事の最中だったのかもしれない。

名も知らない彼女が走り去った後、しばらくその場から動けなかった。

彼女のありがとうという言葉が、思いのほか心地よかったからだろうか。

リナリアのことで暗澹としていた気持ちが、少しだけ晴れた気がする。

「行くか……」

僕はそう決めて、歩き出した。

目指すはレストラン『ミチーノ』だ。

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