一九〇日目
こんなはずじゃ、なかった。
「――じゃあ法陣とはなに?」
わたしの問いかけに、彼はすばやく言葉を連ねる。
「魔素に命令を与える設計図みたいなものである」
その目にはまだ、生気が宿っていた。むしろ以前より輝きが増しているようにさえ見える。
もう何度目かもわからない魔法の授業の真っ最中である。
そこはあらゆる誘惑を遠ざけるための特別な個室で、狭く、机と椅子以外は何も置かれていない空間だ。窓のない部屋を照らす光はランプの明かりだけだった。
「魔素と、人間自身が持つ魔力の関係は?」
続く問いに、彼は眉間に深い皺を作った。考えに没頭するときの彼の癖のようなものだと、最近気づいた。
「魔力は、人が体内から絞り出す目に見えないエネルギーである。
魔素とは、魔力の干渉によって消滅・構築・変換などの現象を引き起こせる小さな粒で、世界中のあらゆる場所に存在する」
正解。だから罰ゲームは無し。
部屋の中央でゆらゆらと揺れるランプの光を前に、わたしは教本をめくる。細かな文字の羅列から、彼を試すための問題を頭の中で作る。そんなわたしを、アルバは飽きもせずに見つめ続けている。その目が、続きを早く、と訴えている気がする。
「魔素に関わる消滅・構築・変換の現象の詳細は?」
モノを考えるとき、彼の鼓動は少しだけ速くなる。頭の中にあるであろう答えを探すことに夢中で、閉じた本を持つ手の指で、本の表紙を無意識に叩きはじめる。
そこに解答を誤るという恐怖は感じられない。
魔術の心得、保有する魔力量、あらゆる点で彼は半人前だった。だから最初は、失敗ばかりだった。間違いのたびに、苦痛を強いる場面が多々あった。
でも、わたしの理不尽な罰に、文句の一つも言ったことは無かった。ただ子供が親の前で粗相をしたときみたいに、気まずそうな顔をするばかりだ。
トントンと、本の表紙を指で叩く音がする。
無音の部屋に、波風のように、心地よく耳に響いてくる。
鳥の声も、風の音も聞こえないここでは、わたしが耳にできる数少ない環境音の一つみたいなものだった。
「『消滅』とは、魔素が消えてしまう現象。
『構築』とは魔素を新たに生み出す現象。
『変換』は魔素の性質を変える、あるいは流動させる現象」
正解。生意気だなと思うが、教えている側としては成長の手ごたえを感じられるようにもなってきていた。
座学の基礎――本来なら退屈な知識だ。知らなくても、法陣を描くことはできる。
アルバはそれをあえて基礎から詳細に、と要求してきた。
結果的には、アルバの得た知識も相当なものになっているようだ。
彼は勤勉だ。わからないことをそのままにしないで、遠慮なくわたしにぶつけてくる。
そのときわたしは魔法について改めて自分の解釈に向き直る。
彼に殺されるなんて目的が無ければ、この授業というものも、とても有意義な時間だと思えたかもしれない。一人きりで教本に目を通すよりも、ずっとやりがいを感じられていたかも……。
「それじゃあ最後ね。六大元素の魔素の持つ特徴的な性質をすべて二つずつ答えて」
これは、だいぶ意地悪な問いだ。ここまで淀みなく解答していたアルバもさすがに黙り込んだ。考え込むように額に手を当て、いつも以上に眉間に皺を寄せている。
六大元素の理解は基礎でもそれなりに重要な部分だ。実現したい魔法によっては六大元素(火、水、土、風、闇、光)のどの魔素に干渉するかでアプローチの仕方が全く異なってくる。例えば傷を癒す魔法にしてもそうだ。火による自然治癒力の向上、あるいは水により破壊された体組織を繋ぎ合わせることによって、違う角度から治療の効能を得ることができる。
「火は――」
沈黙の末、アルバは真剣な表情で解答を口にした。
「火は生物、有機物に作用しやすく、水は無生物、純物質に作用しやすい。風は精神と感覚、土は振動と素粒子、光はベクトルとスペクトル、闇は空間と魔力……」
火は術者の体組織に干渉し、肉体の強化や破壊を。
水は命を持たないものに干渉し、命を持つものに恵みと調和をもたらす。
あらゆる魔素の特性を理解すれば、実現したい事象がどの魔素を使ってできるかを考えればいい。
随分昔に自分も学んだことが、彼の口から紡ぎ出されるのは、なんだかとても不思議な気分だった。
わたしは本を閉じて、アルバに視線を戻す。
「一か所だけ解釈が違う」
彼が語った長い説明の中に、間違いがあった。それを丁寧に指摘すると彼の顔が緊張に染まる。
「まじか……最近は上手くいってると思ったんだけどなぁ……」
頭を抱えてうずくまる。
なんだかんだ言って、罰ゲームは嫌みたいだ。
「……」
「今日はどうする? ナイフか? それともビンタ?」
まるで今日の晩餐のメニューはなに? みたいなノリで聞いてきた。
そんな彼を見て、なんだか色々と、力が抜けてしまった。
「いや……いい……」
元々短い期間で結果が出る予定だった。
彼の心身を痛めつけることでなにかわたしに満たされるものがあれば、この行為を続ける意味はあったかもしれないけど。
「もういいよ、罰ゲームは終わり」
何もない。楽しくもなんともない。
「え、なんで?」
「飽きたから」
今日までの一九〇日間、彼は一言だって文句は言わなかった。
このまま彼への体罰を続けても、ある日突然、彼の逆鱗に触れる日が来るとは、思えなかった。
やり方が間違ってるってことなんだと思う。
「割と、緊張感あって良かったんだけど」
ばかだなこいつは。
「なに? 殴られたいの? あなたもしかしてそういうのに快感を覚えるタイプ?」
「ちげーよ!」
「なら、それでいいじゃない。あれって実は結構疲れるのよね。治療するのも面倒だし。それにもうそんなに間違えないでしょ」
認めたくはないけど、とつけ足そうとしたが、嬉しそうに口元を緩める彼を見て、一瞬で毒気が抜かれてしまった。
「これでいよいよ実技の方に移れるんだよな?」
アルバは本を抱えながら期待に満ちた表情を浮かべた。
なにか、信頼めいたものを向けられている気がする。この期に及んで、どうしてそんな表情をわたしに向けるのか? わたしは必要とされているんだろうか?
今まで自分が誰かに必要とされる可能性なんて、考えたこともなかった――
「まあそうだね。実技の方も、ちょっと考えてみる」
ぼそぼそとした話し方になった。
わたし自身、戸惑いのような感情を抱いたからだ。
どうしてわたしは、こいつに魔法を教えているんだろうか?
厳しい現実を彼に突き付けて、少しずつ彼の選択肢を狭めていって。
最後は――
「先生?」
アルバが、心配そうな表情でこちらの顔をうかがっている。
とっさに手に持った教本で彼から顔を隠した。
こんなはずじゃなかった。
こんな茶番を早々に終わらせることもできたはずだ。先生なんて役目に徹するよりも、わたしへの殺意を促し、もっと早くに自分が楽になる道を目指すことも――
「……」
いつの間にか教鞭を執ることが楽しくなっていたのだろうか。
ひたむきに頑張る彼に、心動かされていたのだろうか。
その両方なのかもしれない……。
「……調子に乗らないことね。こんなの基本中の基本なんだから。上手く答えられたからって自慢にもならないよ」
今自分は、どういう顔をしていただろう。
「ああ、わかってる。いや――」
彼はあらためて頭を下げた。
「わかっています。ありがとうございました」
その姿を見て、わたしは眉間に必死に力を入れた。
きっと今、本で隠している口元が変に歪んで、しまりのない顔になっている。
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