ごきげんよう、はじめまして 後編

   凶夢



 たとえ居候が一人増えようが、小汚い使い魔が三匹増えようが変わらない習慣がある。

 弟子との勉強会だ。

 リナリアはいつもの大広間で、いつもの机に座っているアルバの真後ろに立って、彼の手の動きに注視する。

「どうですか?」

 彼が作り終えた法陣を見て、唸る。

「ここ、間違ってる」

 普段のように指摘する。直させる。その繰り返しだ。その積み重ねで、一般的な魔法学の基盤が仕上がっていく。地道だけど、あまり要領の良くない彼には必要な工程だ。

「近くない?」

「え?」

 ただ普段と違うことが一つ。傍でじっとこちらを眺める女の子の視線だ。

「いつもこんなだけど?」

「近いよ」

 ルピナス――ついさっきまで大人しくソファに座っていただけだったのに、今はむっとした表情をしている。

「なんでそんな怒ってるのよ」

「怒ってないよ」

「怒ってるわよ」

 機嫌の悪さが伝播する。というかこっちだけ愛想を向けるのも馬鹿らしい相手だ。居候のくせに。

「二人とも? 怖いよ?」

 ほら、勉強に集中していた彼の気がそれた。

「怒ってないもん……」

 ふてくされたように腕を組んで、そっぽを向く。子供みたいな振る舞い。

 結局、勉強会の間ずっとルピーは不機嫌だった。


   嫌悪




 たとえ長く住み慣れたあのお城を離れたって、アルバとリナリアと一緒ならずっと楽しい毎日になると思っていた。それはある意味正解で、別の意味で不正解だ。

 二人の仲が、良すぎる。朝っぱらから二人でくっついて、あんな近くでおしゃべりして……。

 こんなに仲がいいなんて聞いてないぞ。

 師匠と弟子って聞いてたから、もっと堅苦しい関係だと思ってたのに。

「おもしろくない……」

 結局今は、勉強会に勤しむ二人の邪魔にならないように、近くのソファに寝ころびながら見守っている。

 彼は椅子に、彼女はその背後に引っ付くように立っている。その距離感に最初は戸惑ったが、見慣れると、まあ、そんなものかと思うようになった。リナリアがアルバの出来の悪さを指摘して、アルバは落ち込みながらも法陣を描くことを続けている。普段の私生活と比べると立場が全く逆なのが、少し面白いとは思って見ていた。

 二人の様子に、恋人同士のような浮ついたものは見受けられない。でも――

「私だけ除け者みたい……」

 退屈というより、漠然とした不安。

 ルピーは二人に背を向けて、横になる。埃っぽい布の上に頭を置いて、時間が過ぎるのを待った。


 可愛い――かつてのルピーにとっては朝の挨拶ぐらいに聞きなれた言葉だ。

 年下の子からお年寄りまで、ルピーを見た人はまるで宝石でも見つけたように瞳を輝かせて幸せそうな笑みをこぼしていたものだ。周囲にちやほやされ、甘やかされて育った。楽しい日々だった。何もかもが、自分の思い通りにできると思っていた。

 百年という歳月を嫌われ者で過ごしてきた一方、そういう頃の自分の記憶を昨日のことのように思い出す。

 こんなことを一人で悶々と考えるくらいに、自分はあの頃に戻りたいと願っているのだろうか……。

「……ルピー」

 西日が部屋に入り込む頃、いつの間にか寝入っていた自分の顔を、アルバが見下ろしている。

「な、なにっ?」

 慌てて飛び起きると、彼はにっと子供っぽく笑った。

「外に行こうか。お師匠、疲れたから休むっていうし、退屈だったろ?」

 あどけない笑顔で言われて、時が止まったように感じた。かつてルピーをちやほやしていた人たちとは近いようで、異なる。どっちかと言えば――こちらを労わるような視線に、思わず胸の中から温かいものがこみあげてくる。

「う、うん!」

 差し出された手を握って、ルピーは嬉しそうに起き上がった。

 あの頃とは違う、別種の何かが、体内に渦巻いている。可愛いって言ってくれる人はいない。いないけど。

「リナリアだけずるい……」

 悔しい気持ちが、自然と口から漏れ出た。

 二人は、きっと家族なんだ。血のつながりはないけど、お互いがいて、当たり前に思っていて、それがずっと当たり前のように変わらないって、信じてる。

「私もなりたい……」

「え? なんて?」

「ねぇ、アルちゃん」

 彼の手を握ったまま、最高の笑顔で彼に囁く。

「私アルちゃんのお姉ちゃんになるよ」

「……は?」


「はい、行っていいよ」

 調整を終えた魔法生物たる怒熊の肩に手を乗っけてそう言うと、「はいぃ……!」とそれは震え声をあげて逃げ出していった。まるで鬼母にお尻を叩かれたような反応である。

 ルピーはその背中を、複雑な気持ちで眺めていた。

 大広間、キッチンに面したその室内には、台所に立つアルバと、椅子に座って朝食をとるリナリアがいる。

 スライスしたパンを溶き卵に浸して焼いたもの――ふれんちとーすとと彼は言った――を大口で頬張るリナリアを何気なく眺めた。容姿はそこそこ良い、だけど起きてすぐの寝ぐせはそのままだし、眠たげで焦点の定まらない目は締まりがない。その口元に、パンの欠片がくっついている。

 隙だらけで、見てるこっちが眠くなってくる。こんな性格だっただろうか? ダメな妹をもった気分だ。

「リナ――」注意してやろうと声をかけようとしたら、

「あ、またぁ……口汚れてますよ」

 自然な動作で割って入ってきたアルバが、布を彼女の口元に当てた。リナリアもまるで抵抗もなくそれを受け入れる。そうするのが当たり前みたいに。

 綺麗になった口で彼女はまた当然のように食事を再開する。もそもそとパンを食むリナリアを見ながら一考。なんだ、今の。

「……」

 おもむろに、指でパン滓を拾って頬にくっつける。

「アルちゃん、私の口にも、ほら」半分冗談のつもり。彼の反応を楽しむための戯れだ。

「うん?」アルバは首を動かしてこちらにも目を向けた。視線が交わってから、急に自分がしていることに恥ずかしさを覚える。

「お前もか」

 しょうがないなぁ、とか言いながらその手が躊躇なくこちらに伸びてくる。

「よしよし」

「ぴゅ!?」

 顔を拭かれる。まるで赤子にするみたいに。

「゛んーっ!」

 ちがう。そうじゃない。

「ちょっとアルちゃん! リナリアと違うじゃない!」

 布を振り払って抗議すると、きょとんとした顔でこちらに視線を送る二人の姿が視野に入った。

 なんでリナリアまで驚いてるんだ。

「いいアルちゃん、私、リナリアとほぼ同い年なの」

「ああ……まあ同級生って、言ってたよね、確か」

 百才超えてるんだぞ、わかってるのかほんとに?

「私、お姉ちゃんよ。子ども扱いしないで」

 吐き捨てるように言ってやる。

「はは」

 間の抜けた笑いを浮かべたアルバ。

「笑うなばか!」ルピーは彼のほっぺを掴んで横に引っ張ってやった。


 姉の威厳を示さなくてはいけない。

「ねぇねぇ」

「ん?」

 朝食を終えて食器洗いをしているアルバの横に立つ。こうして並ぶと彼の肩ぐらいに自分の頭があることに気がつく。ちょっと納得がいかない……。

 不老不死となった年齢はリナリアとまったく同じだが、当時の自分は周りよりほんの少しだけ発育が悪かった。ほんの少しだけだ。その事実が今はほんの少しだけ恨めしい。

 リナリアはまだ椅子に座ってぼーっとしている。こっそり話をするなら今がチャンスだ。

「ちょっちょ、頭下げて」耳打ちをしたくて裾を引っ張る。彼はしぶしぶ食器を置いて顔を向けた。

「こっそり外いかない?」

「……なんで?」

「お姉ちゃんと楽しいことしようよ」

 彼の視界に入り込む。もちろん上目遣いで。

「今日は難しいなぁ、ここを片付けたら部屋掃除、洗濯干し、午後になったらお師匠の勉強会があるし」思ったよりも反応が鈍くて腹が立ってきた。

「ぶぅ、そんなのさぼっちゃいなよ」

「あはは、いやいや」

 笑顔で頭に手を置かれる。彼はその手をそのまますりすりと左右に動かす。

「ちょ、なんで頭なでる……」気恥ずかしくなって逆に彼の顔を見られなくなる。

「え? いや、なんでだろ? ルピーってちっちゃいからちょうどいい高さなんだよな」

 ちがう! そうじゃない!

 ちょうどいい位置にあった彼の足を素足で踏みつけた。

「いだい! なんで!?」


   凶夢



 この世界はあきれるほどに平和である。

 曰く、世界に蔓延る悪意の権化たる『魔物』は、つい百年前にとある人物によって淘汰されたという。

 曰く、王様の反乱分子たる他国の権力者たちは、五十年ほど前に国ごと滅ぼされたという。

 故に、この世界はあきれるほど、平和なのだ。

「統一国家、それがこの国の形なの」

 リナリアは分厚い本を片手にぽつぽつと話し始める。

「統一国家――どういうことかというと、国を治める国王は、世界でたった一人だけなの。その国の王様は、つまり世界の王様ということね。数十年前の大戦終結を期に、他国を残らず滅ぼして世界を征服したのよ」

「すいぶん乱暴な歴史ですね」

「私は単純明快で好きだけど」

 リナリアはぼやくように言った。

「他国との軋轢が――とか、あの国とあの国は冷戦状態だ――とかめんどくさいじゃない。それに比べたら今は非常にわかりやすい構図なのよね」

 そういってリナリアは机に広げた世界地図の中央を指さす。

「この黒い丸に囲われた場所が王都。この世界唯一の王がいる世界の中心ね」

 黒い丸は海に面している。大陸は全部で四つ、海によって分断され、そのどれもが似たような大きさをしている。まるで羽を広げた蝶のようだ。リナリアの指さした場所は南西の大陸――プラスターナの最北東。

 そして王都のあるプラスターナ大陸のずっと下のほうにとても小さな赤い丸が描かれている。

「これが私たちのいる場所」

 南の端っこ。王都と同じ大陸とはいえ、その場所に至るには山脈を何度も越える必要がある。

「田舎なのよね。田舎はいいわよね。人は少ないし、ここらへんには大きい動物もめったに出てこないし」

「王様が一人ってことは王様のやりたい放題ってことですか?」

「それはちがうわ」リナリアは得意げな顔で人差し指を立てた。

「王都には評議会というものが存在していてね、王様を含めた様々な立場の人が議席をもってお国の法律とか、情勢対策とかを話し合いで決めるの。王族勢でしょ。臣下勢、貴族勢、軍勢に、民間勢、それから……教会勢」

 指折り数えていたリナリアが、最後だけ神妙な顔つきになる。妙な間があいて、アルバは首をひねるが、そんな空気を一蹴するように、リナリアが話を続ける。

「その六つの派閥が意見を出し合っていろいろなことを決めてるの。だから王の独壇場ってわけにはいかないのよ」

 評議会……議席……世界征服が成立した後の覇権争いのようなものだろうか。

 いろいろ気になる話だったが、『教会』と口にしたときの彼女の複雑そうな表情は特に気になった。

 歴史の勉強は続く。ルピーも加わった共同生活もつつがなく続いていた。

 廃墟の一角が整備され、使い魔たちの住まう掘っ立て小屋のような建物が出来上がるその傍らで、アルバの魔法の授業も進行していく。

 暇なときはルピーの遊び相手などしたり、リナリアと一緒に村へ出たり。夜は相変わらずリナリアと同じベッドで就寝し、翌朝は当然のようにそのベッドの中にルピーが入り込んでいたり――

 カチ、カチ。

 そうやって時計の針が刻々と時間を刻むように、進んでいく。

 一見、何事もなく。


   白白明



 その日、アルバは外で掃き掃除をしていた。

 風が運んできた枯れ葉やなんかを一か所に集めて森へ返す。この景観を維持するのもアルバの大事な役割の一つだった。海鳥の鳴き声がして頭上を見上げると、ちょうど番の二羽が、海に向かって羽ばたいていくところだ。

 平和な日常を象徴するような光景だった。なんでか嬉しくなって、その鳥の行く先を目で追ってしまう。自由でいいな、なんてことを思いながら。

 だからその奇妙な現象にもすぐに気づいた。

 鳥が、不自然に停止したのだ。羽ばたくのをやめた二羽が墜落するでもなく、宙に静止している。

 音が消えて、風がやんだ。

 景色が、まるでリモコンで停止ボタンでも押されてしまったみたいに、止まっている。あたりを見回してみても、静止画を見ているような印象を受ける。

「え?」

 景色が突然、切り替わる。自分の立っていた場所が、土の上が、気づけば硬い石質の床に変わっている。

 白一色――物体の影となる部分には僅かな影が見える。頭上に照明らしきものはないが、であれば部屋を明るく照らしているのはなんだ? 天井それ自体が光っているのかもしれない。窓はない。目の前に巨大なテーブルが配置されている。その卓を挟んで反対側には、見覚えのない少女が座っていた。

「……だれ?」

 それは音もなく現れた。死神のように見えた血色のない肌に、暗く淀んだ瞳。表情はどこか陰鬱で、まるで死を常に連れ歩いているような、得体のしれない印象を受ける。アルバと目が合うとほんのり柔和な笑みを浮かべた。

「こんにちは、ごきげんよう」

 じわりと涙を浮かべて付け足す。

「私の救世主さま」

 と――


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