僕のお師匠さま 後編
白白明
学ぶと言った以上、授業というものがある。
そもそも、魔法とは、人が作った『法陣』なるもので引き起こされる奇跡のことを指す。
もう少し構造的な言い方をするなら、『法陣』は人が生来持つ『魔力』を込めることで発動し、『魔素』と呼ばれる目に見えない小さな粒に命令が送られる。命令を受けた『魔素』が反応し様々な現象が生まれる。それら一連の流れを魔法と呼ぶ……のだそうだ。
魔法が引き起こす現象は多岐にわたり、長い距離を一瞬で移動したり、死に至るような傷を瞬く間に癒したり、人の記憶を改竄することだって出来てしまうという。聞くだに、おっかない。
そんな基礎から始まったリナリアによる勉強会だったが。
「だからちがうってば」
三たび咎められて、置き石で固定した羊皮紙の上を走るアルバの筆は止まった。
「その線じゃ魔法は発動しないわ。もっとこう、はっきりと描かないと」
身振り手振りで言われても困ってしまう。陣を描く、というよりは知らない言語をただ書き写しているようで、なかなか頭に定着しない。それに……。
「ほらここ」そう指をさす彼女の手が、いちいちアルバの頬に触れる。「私が描いたみたいにやらなきゃだめよ」
「集中できないんです」
「なんでよ。集中しないとだめよ」
吐息がふりかかるような距離で、リナリアが話しかけてくる。声よりも、彼女の腕の感触や、匂いの方が気になってしまう。普段からこんな感じなので彼女にとっては平常運転なのだろうが、こんな風にされると彼女に異性を意識してしまいそうになる。
「手、あと顔が近いです。そっちが気になって集中できません」
ぴしゃりと言ってやった。すると彼女はアルバの言葉の意味が一瞬飲み込めなかったらしく、きょとんとした。こういうところも無頓着であるが故なのだろう。それからようやく何かを察したのか、僅かに耳を朱に染めて、口元を引き締める。
「ご、ごまかさないの!」
ほら、と言いながら、アルバに筆を執るよう促す。はいはい、と渋々とそれに従う。
しきりに体が触れてしまうような距離で、師弟の授業は続いていった。
勉強会の時以外にも気になることはある。
師匠は常にアルバを見ている。自分を監視するのが彼女にとって義務であるみたいに。
「なにしてるの?」
「え?」
厨房で晩御飯の仕込みをしていた時のことだった。鍋に放り込む食材をただざく切りにするだけの作業を、リナリアはすぐ背後に立って覗き込むように見ている。
すでにこういう距離感が当たり前なので驚きはしない。とはいえ包丁を扱っている傍で不用意に近づいてくるのは感心しない。
「あの、また近いです。危ないです」
「んー?」彼女は顔を近づけながら訝しそうに目を細める。
「私に命令する気?」ああ、めんどくさい。
「そんなものに従うなんて癪だわ」
言うなり、服の袖をつまんでくる。
「だからあえて私はこの位置を動かないの」
「へぇ……そですか……」そういう問題じゃないだろ。
しかしながら、こういう時、反論しようものなら彼女はすぐに意地になると知っている。
「こんなの面白くもなんともないと思いますけど」
「あなたがいるじゃない?」
不思議そうに目を丸くした。よくわからないけど、ちょっとくすぐったいセリフだ。
そんな執拗な監視下で作業を終わらせると、今度は室内に散らかった衣類を目の当たりにする。というかほとんどリナリアのものだ。マントや帽子、下着のようなものまである。次は洗濯をするべきなのだろう。
「何するの?」
「洗濯です」
籠を取りに別室に向かおうとすると、そのあとをちょこちょことリナリアもついてきた。
女の人と同棲する、といえば夢見がちな妄想を膨らませる部分もあった。一方で、やれドアが開けっぱなしだの、衣服を脱ぎ散らかしっぱなしだの、つまらないことを追及され神経をすり減らす予感もあった。だけどふたを開けてみると、これはなんだ、という感じだ。
「お師匠には生活能力が皆無です」ストレートに文句を言ってみる。
「そんなことより知ってるアルバ、弟子はいつも師匠のあとをちょこちょこ付いてくるものなの」
知らないよ。話逸らすなよ!
「これじゃ逆だわ、面白くない」
「昼間から酔ってるんですか?」
「酔ってないよ!」
彼女の下着を拾ってもそっちには全く反応を示さない。よくわがんね。前は一緒にお風呂に入ることについては顔を真っ赤にしていたのに。単なるおこちゃまなのか?
「今日の魔法の授業は午後からですよね」衣類を籠に放り込みながら尋ねる。
「そうね」
「それまではお師匠の自由な時間だと思います」
「そうね」
「僕なんかに構ってて楽しいですか?」
「??」
そこでなぜ首をかしげる。
「趣味とかないの?」直球で聞いてみる。
「んま! 失礼ね! 趣味ならあるわ!」
なんだよそれ、是非聞きたいね。弟子の観察とか言い抜かしたら大笑いしてやる。
「弟子の観察よ」こちらを指差して言う。
「お願いだから、期待を裏切ってくれ……」
「む、どういう意味よ」
ため息が漏れ出た。
「早く午後にならないかなぁ」
洗濯ものを運んでいる最中、後ろに控える当人は指をくわえながらそう呟いていた。
一般的に師弟関係とはどういうものなのだろうか。少なくとも男と女、ではない。師匠というからにはなにか尊敬に値する一面を期待したいところだが、普段の生活がそれに靄をかけている気がする。
その日は居間で独りきり。座学から離れてただひたすらにスクロールというものを作っていた。
スクロールは法陣が描かれている紙のこと。で、完成品を手元に置いておけば魔力を込めるだけで魔法が発動するという便利なアイテムなんだそうな。だが、アルバはまだスクロールを完成させたことがない。出来損ないのスクロールには魔法という奇跡は生み出せない。
「やっぱ先生なんだなぁ……」
失敗作を前に、深いため息が漏れた。彼女への尊敬、というよりもただ悔しい気持ちが大きかったのだ。
生活能力皆無の我が師匠が優秀すぎて辛い。魔法の才能に生活能力は関係ないということか……。
「あら」
嫌なタイミングで居間にリナリアが顔を出し、げっとなる。
「なによその顔は?」
リナリアは軽い感じで声をかけてきたが、アルバは押し黙る。
床には、アルバが作った失敗作が散らばっている。スクロールの元になる羊皮紙はタダで手に入るわけじゃない。それを無駄に使いつぶしているのを、アルバも自覚していないわけじゃなかった。
「これは――」
彼女は出来損ないに気づいてそれを手に取った。まじまじと眺めている。自然とアルバの顔が強張る。
「ずいぶん散らかしたのねー」
したり顔で、こちらを見てくる。リナリアは動揺するアルバを見て楽しんでいるようだ。まるでアルバの心中を目ざとく察したように。
「あらなに、気にしてた? 湯水のように使うから特に気にしてないもんかと」
リナリアは笑っていた。きっといつもの師弟のじゃれ合い程度の言葉だったのかも。だけど、アルバは神妙な表情をリナリアのように笑いには切り替えられなかった。
「そこまで無神経じゃないです」
子供が母親に叱られて、拗ねたような感じになった。
「教えてもらってるのに、さらに資源を食いつぶしてたら気にはします」
「ふうん」
リナリアは意外そうに目を丸くする。その反応に少しムッとした。
「そうねー、だらしない弟子を持つとそれなりに苦労するわね。ほんと師匠って大変だわ、うん」
彼女はそう言ってやれやれと、ため息を吐いた。
苦労――
なるほど。
「……だったら出ていきますけど」
「え、えっ?」
リナリアはびっくりしたように目を見開いた。
「な、なんでよ?」
「だらしない弟子はお師匠に苦労を掛けたくないんですよ」
「なによ、すねてるの?」
そのとおりだけど言わないでください……。
それに前々から考えていたことだ。こんなお師匠におんぶにだっこな生活に甘んじていいのかと。
これではまるで若い女性の家に転がり込んでスネをかじるヒモそのものではないか。男としてそれでいいのか?
「良いわけがないっ」
「な、なによ急に……」
だいたいアルバには魔法を扱う上での才能が壊滅的だ。敵を蹴散らす力も、便利な生産スキルみたいなものもない。チートなど皆無、異世界転移モノにあるまじきほど、平凡な能力しか備わっていない。
そんな奴がこの先独りで生きていけるような知恵と勇気を身に着けることが、こんな温いお師匠さまとの同棲生活で育まれるようになるだろうか。
「否、きっとダメ人間になります」
「ちょっと無視するな!」
「僕は家を出るべきだと思います。この廃墟にはいくらでも空き家はあるし、たぶん一緒に同じ家で住む必要はないと思いますよ? 自分の食いぶちぐらいは自分でなんとかでき――」
「な、なんでそんな話になるの!?」
顔を押し付けるように近づけて来たので、うわっと跳び引く。
「じゃ、邪魔になるぐらいならその方がいいかと思って言ってんですよ……」
実際、今苦労するだとか愚痴ってたじゃないか。
「邪魔だなんて言ってないでしょ!」
物凄い剣幕だった。妙な空気になって、アルバも返す言葉を見失ってしまう。
二人きりの部屋、沈黙がそのまま気まずい静寂を生み出している。
「まったく、ばかなんだから……」
口火を切ったのはリナリアが先だった。
「私はあなたを邪魔だなんて思ったことは一度もあるもんですか。邪魔であればとっくの昔に外に抛り棄てています」
「……」
「手間は増えるけどね、同居人が増えるのは良いことだと、最近は思うよ」
「……そうなんですか?」
「ええそうよ」リナリアは胸を張って、当然のように言う。「家族みたいなものを持ってみると色々気づいたこともあるのよ」
「気づいたこと?」
「ひとり身はそれはそれで気楽でしょうけどね。今一人に戻ったら張り合いがなくて退屈になっちゃうわよ」
リナリアは片目を閉じて、悪戯っぽく笑う。それが社交辞令の言葉ではないことは、いくらアルバでも伝わってくる。
「僕は、家族なんですか?」
「みたいなものよ。だからまあ、あなたみたいなのがあと二、三人増えてもたいした邪魔になんかならないわよ」
家族――それは何というか、くすぐったい響きだ。
「むしろどんとこいって感じっ? 私は偉大で寛大なお師匠さまだからね!」
「はぁ」
「あでも、増えたらにぎやかで楽しそうだけど、増えすぎても困るわ。養っていくのもただじゃないしね。あと五、六人が限界かなぁ」
「意外と注文多いっすね……」
弟子を子供に置き換えたら結婚を夢見る女の妄想のようである。というか――
「お師匠は、なんで家族を今まで作らなかったんですか?」
「? どういう意味?」
「いや、誰かと結婚して子供でも孕んで増やすって手もあるのに」
百年以上もこんな廃墟で独り暮らしに拘る必要もない。リナリアも顔は良いので相手に困ることはないように見えるが。
「……」
なぜか茫然と黙り込んでしまう。なにか、おかしなこと言っただろうか。
「お、ひゃ!?」
変な悲鳴、白い髪がびくんと飛び跳ねた。
「そ、そういう冗談は、きき、嫌いだぞ……!」
「……? いや、こんなの冗談にもならないと思いますけど。なに焦ってんですか?」
「お前が下品なこと言うからでしょ!」
顔を真っ赤にしてこちらを指さす。
「下品て……生娘じゃあるまいし……」
「――っ!! げ、下品! そんなことを女性の前でどうどうと口にするなんてお前は本当にどうかしてるぞ!」
「何故にマジ切れ? よもやその年で処女ってわけでもないでしょうに」
音が止んだ。リナリアはぷるぷると唇を震わせ、顔を赤くしたままこちらを睨んでいる。
「ねぇ!」突然声を張り上げ、アルバに詰め寄る。「よもや、ってどういう意味!? その年でってどういう意味!? ねぇ!」
「……いや」
自分が、どれほど残酷な言及をしたのか、気づいた。その罪深さに、しばし、言葉を探す。
「なんか……ごめんなさい」
何にも思いつかなかった。
「なんかってなによぉぉぉぉ!!」
二人の距離感は、兄弟のようなものかもしれない。最近になって気づいたことだが。
「あ、あの」
「んぉ?」
自分の体に背中を預けて寄りかかってくるリナリアに、変にドキドキしなくなった。ただ――
「重いです」
「誰が? なに?」太ももをぎゅっとつねられる。
「いたい!」
今は、一通りの座学が終わり、家事もこなした夕刻。やることが無くなってしまったので、魔学の予習に励んでいたのだが――
「弟子がちゃんと勉強してるか見守るのも師匠の務めなの」
「いや、僕に寄りかかって本読んでるだけじゃないですかっ」
まったく何がしたいんだよ。
すっかり集中力が切れてしまい、本を置いてソファにもたれかかる。リナリアは離れる気が全く無いらしく、寄りかかったまま読書を続けている。
「……この生活の最終的な目標とかってあるんですかね」
ふと、湧いた疑問を口にすると、リナリアは本に目を向けたまま「平穏な日常」、ぼそりと答えた。
「すでに達せられている気がしますけど……」
「の恒久的な維持」
どうしても引きこもりたい質のようだった。
「外は危険なのよ、アルバ」
「はぁ」
「いろんな悪意でいっぱい。あなたも都では身に染みたでしょう。人間ってのは自分のことしか考えてないの。だから路頭に迷ってたあなたには見向きもしないし、手も差し伸べない」
「お師匠が手を差し伸べてくれたじゃないですか。そういう良い人たちもいるってことですよね?」
「運がよかっただけよ」
寄りかかった彼女の背中でぐっと押される。やめてほしい。
「本来なら自分の名前も思い出せない名無しなんて、だれも助けてくれやしないんだから」
「でも、助けてくれたじゃないですか。なんで助けてくれたんですか?」
「たまたまよ……」
「じゃあなんでこうして家に置いてくれるんでしょう?」
「それもたまたま」
「また僕みたいな人を見つけたら助けてあげるんですかね」
「……しばらくいい」
従魔
死んだ生き物の魂は時に、現世に留まり続けることがある。生前の未練だとか、死んだことに気づかないとかで。
凡そ七十年とちょっと前、怒熊は大陸最南西の人里離れた森の奥深く、その地下にある巨大な空洞の中で化け物――ご主人によって生み出された。三体の使い魔のうちの一体だ。
魔法生物、とも呼ばれている。
怒熊の身体は布と、たくさんのもみ殻と、糸と、二つのボタン、それと、何かの魂で出来ている。何の魂かは知らない。かつてのご主人の親族か、あるいは友人か、食らった赤子かはわからないが、その記憶を持たない怒熊には知りえないことだ。
身体の色は白、短い手足は太く丸みがある。肌は上等な絹の布で、中にはもみ殻がたくさん詰まっている。二頭身ほどの体形の頭には左右で色と形の違う大きな二つのボタンが縫い付けられており、口は開閉できるように凹凸に縫われている。誰がどう見ても人形だ。
命の定義が熱を持った臓物を必須とするなら、その限りではないが、少なくとも怒熊は自分自身のことを生物と認識している。思考し、吟味し、自らの意思で行動する。自身の存在を維持するために食事や、睡眠もとる。
性格は冷静沈着、仲間想い。一方でご主人には畏怖の念を抱いている。使い魔は、ご主人の気まぐれで生み出され、処理されるのに抗うことができないから――
同系統の茶色い人形――喜犬は、見た目はほぼ同じだが頭部に犬の耳のようなものが繕われている。性格は非常に温厚で、仲間の中では唯一ご主人に忠実であり、生んでくれたことを感謝している。ご主人の誕生日には必ず、ご主人に小型の人形を贈ったりもしていた。渡す際に恐怖でぶるぶると震えていたが……良いやつだ。
黒い人形――楽猫。頭部に二つの獣耳あり。身勝手で、気ままな性格。ご主人への猜疑心は最も強く、忠誠心の欠片もない問題児。仕事中はいつもご主人への愚痴が絶えない。ご主人は自分に相応しくないなどと言っている。かと思えばご主人が視界に入るだけで悲鳴を上げて逃げ出す臆病者だ。
地下空洞には長い年月をかけて彼ら自身が作り上げた城が建っている。決して日光に照らされることのない暗闇の中で唯一光を灯している。一匹の異形と三体の使い魔を住まわせるためだけに建てられた城。
怒熊はその日、ご主人の部屋の清掃に勤しんでいた。寝台の上に長い髪の毛、リボンや靴下といった人間の少女の所持品めいたものが見つかる。瘴気が漂う室内には不釣り合いなものだ。
給仕を申し付けられたことはない。それどころか、ご主人が食事をしている姿を見たことすらない。ご主人が何を食べているのか――
嫌な想像が巡って、思考を放棄した。
未だにご主人を前にすると恐怖に竦むが、それさえ目を瞑れば不自由のない暮らしだった。
ここには友人もいるし、十分な水や食料も与えられている。広い城内には一体に一つの部屋が宛がわれ、プライベートだって守られている。余計な詮索はすべきではない。
清掃を終え、点々と照明が灯る静かな回廊を歩いていると、血と汗と、汚泥が混ざりこんだような臭いが鼻先を突いた。嫌な臭いだ。横切ろうとするだけで、思考力を奪われそうになる。
「ご主人、こ、こんばんは」
それは一瞬立ち止まるが、口からぐつぐつと何かを吹き出すようにして呻いた。気持ち悪い。
「醐んvぁ愚あ゛A」
なんと――?
なんと言ったのだろう。聞き取れず、笑ってごまかすことしかできない。そして何事もなかったように、それは歩き出す。
不意に、それの体からぼとりと何かが零れ落ちた。
床に、血のように赤い色のハンカチが落ちていた。
・・・・・・1章の続きは書籍版で!
・・・・・・引き続き2章のイントロもお読みいただけます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます