第10話 一人のオーストラリア人の場合
あの裸の連中が現れてから7年が経ちました。今日もワタクシは日本のこの旅館に泊まっております。これで10回目になります。
ワタクシが来てからちょうど1年、下働きから仲居になった琴美さんと言う方は、今日もまたたくさんお客様の対応に追われていらっしゃいます。その1年間で急激に客が増えたためにあわてて雇われた新米従業員たちの中で、いつの間にか古参のようになっていました。本当に、ずいぶんと風格を感じます。一方で女将さんの側近であった仲居頭さんは、まるで子芋を茂らせるために栄養を使い果たした種芋のように小さくなっていました。
「まったく、日本セーフハウス第一号だなんて、どこの誰がそんな肩書きをくっつけたんだか」
「WSHA、世界セーフハウス協会とか言う変な協会だよ。本拠地は確かロンドンだかパリだかにあるけどさ、そこが好き勝手にくっつけた看板だよ」
セーフハウス。そうです、ここは日本セーフハウス第一号なのです。ワタクシ今は、このセーフハウスたちを取材、まとめる仕事をしています。世界中に幾十幾百と言う数の宿泊施設にその肩書きが取り付けられた。
世界セーフハウス協会とか言った所でまだ大した権限がある訳でもないです、ただのガイドブック編集業です。それでもミシュランのように星印が付けられており、星なしから星三つまできっちりと評価されています。
ここはもちろん、日本の第一号として星三つが付けられていました。だって言うのに仲居頭さんも板前さんも、もっともっと自慢すればいいのにこんな調子です。日本人の美徳は謙遜だと言いますけど、いくらなんでもやりすぎじゃないですかねえ、
「視界は塞ぎやすく、周辺に家屋がないため損害も少ない。ただ不安は、次代当主候補がさほど寛容ではない所。まだ若年ゆえ成長次第と言う所か。施設そのものは簡易で素朴であるが問題はない。従業員四名のうち三名は寛容もみな高齢であるのがやや不安。その三人がいなくなった後の残る一人の対応によっては、評価を下げざるを得ないかもしれない。成熟に期待したい所である」
これは、先月WSHAの認定によりスイスで星二つを獲得した宿屋の紹介文です、ああこれを書いたのもワタクシです。料理?アクセス?そんなものどうでもいいんです、やっぱりどんなホテルでも人間が第一なのです。どんなに高級ホテルであろうとも、従業員の不作法によりそのサービスを享受できず不快な気分に陥る事はよくある事ですよねー。
「極めて静かな田舎であり、そして何より宿主が理解があるのが良い。そして宿主もまた同じように理解ある人間を従業員として集めており日本セーフハウス第一号として今後ともますますの発展が望まれるだろう。唯一の不安点としては、従業員筆頭の女性が宿主とかなり不仲である事。彼女は宿主と対立しており、宿主が死に彼女が主導権を握れば一挙に環境が激変する可能性がある。二十年以上勤めている身と言う話であり、ぜひ世の中の流れを考えて心を広く持ってもらう事を期待したい」
そしてこちらがこの旅館の説明文です。そうなんです、いわゆる仲居頭さんだけが不安なんです、これは仲居頭さんのプライドをずたずたにするには十分な破壊力かもしれません。でも実際その通りなんです、彼女が心を広くすれば、この旅館は未来永劫安泰です。
実際、この旅館にやって来た多くの皆さんから、仲居頭さんは軽蔑に似た視線を向けられていたみたいです。それでも地元の人たちだけは味方になってるみたいですけど。
ワタクシたちはしょっちゅう言われるのです、ここに来て景色も温泉も楽しまないのはもったいないって。そんな事をするぐらいならば、中に籠って般若心経と言うブディズムの教えを唱えている方がいいのです。
「そんな事より温泉も景色も、それから情け深い人情も味わおうとした方がよろしいと思うのですがねえ」
仲居頭さんは全然わかっていません。ワタクシたちがたまに旅館から外に出た所で、お金は落としますけどそれ以上の事はしませんし望みません。小さな親切大きなお世話っていい日本語ですね、そういう淡泊な扱いこそ最高なのです。まれに家屋に上がり込んで話し込むように勧める親切な話もありましたけど、それも徐々になくなって行ったみたいです。
単純素朴なゆえに、いつわりを嫌う。それゆえに、素直な気持ちを口に出す。それが、ワタクシたちに取っては正直気に入りません。何せその素直な気持ちを聞かされると不愉快になり、そして隔たりを感じてしまうのです。どんなに言葉を糊塗して迎合しようとしても、そんな事をする必要もなく生きて来た人間たちの演技なんかすぐにわかってしまうのです、悲しい事に。それがきっかけになって帰国してしまった人もたくさんいるようで、結果的に思惑通り皆さんだんだんとよそよそしくなって行きました。ありがたいです。
「キャー!」
ああ今日もまた、悲鳴が小さな村に響き渡りました。話によれば今回は小学校高学年の男子、股間にごくわずかに毛を生やした黄色人種の男子の姿をしているそうです。ああ恐ろしや恐ろしや。
ワタクシは両手耳を塞いで縮こまり、フランスから来た女性たちはお互い抱き着き、サウジアラビアから来た人は顔を両手で覆って泣き叫び、ロシアから来た人は捕まえてやると言わんばかりに追いかけ始めました。
ワタクシを含めこの旅館にいるほぼ全てのお客さんは、みんな肌をほとんど露出していません、新人の板前さんが袖をまくりながら板長さんから指導を受けていたみたいですが、この時この旅館にいる中で一番肌の露出が多いのはその人だったでしょう。
ワタクシたちは敏感なのです。その上に正確に反応するセンサーがその存在を捉え、危険だと言うシグナルを出します。そのシグナルが寄り集まり、悲しみと苦しみ、そして怒りを増幅させます。ワタクシたちの手で、世界の危機を告げているのです。
ブラックリストと言う物がある事ももちろん知っています。その中にワタクシたちWSHAのメンバーが多数入っているようなのです、ああ情けない。
でもそのブラックリストに載っている客を排除したら、この旅館はジ・エンドでしょう。そうなれば新たに雇い入れた従業員の面倒を見る事をできなくなるどころか、女将さんの身さえ危なくなります。まあ女将さん自身、なんでそんな物の中に大事なお客様の名前が載っているのだと言う反感を持っていたようですから大丈夫でしょうけどねー。
あの女将さんは数年前、次男さんに去られてずっと辛い思いをしていたようです。それもまたあの化け物のせいのようで、本当に許しがたいですね。それで他の方の話によればそれから今まで一番楽しい顔をしているそうで、そんな人間に対して何か言う事はできませんよねー、仲居頭さん。
「どうしたの、思う事があるのならば好きなだけ言いなさい。二十年以上あなたにはお世話になって来たんだから」
「何もありませんけど」
「やっぱりあの化け物に侵食されてるのね、本当に大変ねお互い。もう我慢しなくていいから、思う存分気持ちを解き放ちなさい」
わかります、わかりますよその気持ち。
ようやく自分の側に回ってくれたと言う達成感と、ようやく罪の意識に覚醒してくれたと言う喜び。この数年間、平然としていたけれど自分の見えない所でどんなに苦しんでいたんでしょうか。女将さんは恐怖心をこらえ必死に頑張ってくれたお仲間さんの心を癒してあげてるのでしょう。満足感が体中にあふれ、善意となって体に栄養を与えています。ああ、実に素晴らしいです。
そのおかげでしょうか、女将さんやワタクシたちと同じような人たちが、この1年間でぐっと増えています。逆もまたしかりのようですけど、どうしてわかってくれないんでしょうかね、まあそんな人は別にいいですけどー。
そんなこんなで今日もまたこの素晴らしいセーフハウスの中を歩いていたワタクシは、琴美さんとまた出会いました。
「ああお客様」
「いいですいいです、ご自由にどうぞ」
歴史を感じさせる緑の公衆電話に10円玉を注ぎ込み、あらかじめ調べていた電話番号を押す指先は実に軽やかです、六年前には酒に溺れていたなどとても信じられません。最近では寝つきもよくなり、悪夢にうなされて起きる事も減ったそうです。
「もしもし」
「もしもし……って母さん、どうしたんだよ急に」
あの怪物のせいで嫁ぎ先を追われて以来、まったく言葉を交わしていなかった息子さんのようですね。その息子さんの声を聴いた琴美さんの気持ちはさらに高揚し、その瞬間少し顔の皺が減ったみたいです。素晴らしい薬です。
「最近少し元気になってね。今どうしてるの?」
「普通に高校に通ってるよ。それでサッカー部に所属してるから」
「……そう」
サッカー部に所属している、それはちょっと危険です。琴美さんも普段の生活では旅館の中に閉じ籠り、たまに暇ができても外に出ず本を読んでいるかただ寝ているかのどちらかでだそうです。うかつに外に出るとその時に限ってあの怪物が現れ、目と脳と心を殴って来るのですから。息子さんはどうして平気なんでしょうか?
「それで今どこで何やってるんだよ」
「今は旅館に勤めてるの、最近少し話題になってるかもしれない所」
「…………へえ」
「やはりつらいんでしょ?何かある?どんどん説明して?」
「特にないよ」
「そう、そんなに沈んでどうしたの?いじめられてるの?ねえ何でも言いなさいよ」
「そこの旅館の名前さ、学校でも話題になってるんだよ」
「へぇどんな風に?」
おお、この素晴らしい旅館が高校でも話題になっているんですか!このような子どもたちがいるのであればこの世界は大丈夫です!みんなちゃんと清く正しく生きて、あの化け物たちをいつか滅ぼしてくれるはずです!
「猿山だってさ」
「猿山!」
「僕もその猿山ってフレーズを聞いてああそうだよねぴったりのネーミングだよねと思ってるんだよ。そんな猿山に閉じ籠ってどうする気なの」
猿山!ああなんという事でしょう、日本語で言う所のサルオとサルコ、英語で言う所の3Nが集い、普通の人間にとっては慣れ切った存在にキーキーとわめき声を上げ、さらに縄張り意識の強さをもって自分たちのおきてに従わない者に制裁を加える。彼にはそのような物にこの旅館は映っていたと言うのですか……ああ嘆かわしい!
「まだ高校二年生の分際でどういうつもりなの!まさかあの化け物に変な興味でも持ったんじゃないでしょうね!」
「じゃあいつになったらまともに接する許可をくれるんだよ!」
「二十歳になったら」
「そんなに待てるかよ!」
「まったく、どこまであなたは短慮なの!これでも目一杯配慮した結果の数字よ!あんなのに惑わされて人生を台無しにしたいの!若い時の苦労は買ってでもしろってのはそういう意味じゃないの!誰よあなたにそんな猿山なんて汚い言葉を教えたの!」
「高校生になってできた彼女」
「すぐ別れなさい、そんな尻軽女!」
ああ、あの存在たちにまったく危機感を感じないような悠長な生活を送るような人間にまっとうな異性との出会いなんかありませんね……。ワタクシも琴美さんも、かつてのパートナーと別れてから今までずっとそう信じてきました。
「母さんこそお酒飲んで甘ったれて僕と父さんにしがみついてさ、それで離婚されなきゃ今でも同じ事してたんでしょ!そんなのにはもう付き合いきれないよ!」
「もういいわ、もうあなたの病は誰にも治せないわね……私は医者じゃないし」
「母さんはもうずっとそこにいればいいよ、死んだって聞いたら彼女と一緒にお花ぐらい送るからさ、じゃあね」
ああ、世の中にはあまりにもわかっていない人間が多すぎます。ワタクシたちがここまで真剣にあなたたちのために戦っているのに、この親不孝な子はそれを簡単に踏みにじるのですねー……。
「……取り乱してしまい申し訳ありませんでした……でも息子は親権を失ってから六年経った今でも、まだそれなりには自分の真心を信じてくれていると思っていたんです!その私の事を全力で踏み付けにして……あああんな子生まなきゃよかった!」
全くその通りです、あの化け物たちの危険性がわからないような鈍感な子は、たぶん高尚な存在には育ちません。子育ては完璧だったはずなのに、ああ残念ですね……
「まったく残念な子ね、まあよく言うでしょ。親の意見と茄子の花には千に一つの無駄もないって。その内わかってくれるわよ、あなたの本当の気持ちを」
「不治の病に効く薬になりますかね」
「絶対になるから、安心しなさいって!負けないで頑張りましょう!」
すっかり泣きはらした琴美さんを支えたのは、やはり女将さんでした。仲居頭さんたちを含む他の従業員の前で包み隠さず息子との電話の内容を話した彼女を、女将は母親のように抱きかかえ、なぐさめ、励ましました。ああ、実に素晴らしいです。
そしてそのひと月後―――日本各地のセーフハウス認定作業を終え再びこの旅館に戻って来たワタクシは、従業員の皆さんが怒り狂っている所を見てしまったのです。
「彼女を放り出してくれないのならば私たちはお暇を頂きます」
「彼女って」
「あの琴美とか言う」
「じゃそうすれば?」
いわゆる最後通牒、宣戦布告だったのかもしれません。でも女将さんは、ワタクシたちの期待に見事答えてくれました!板長さんも、仲居頭さんも、旅館を支える存在二人がどうしてこんな風に血迷ってしまったのか、どうにもこうにもわかりません。女将さんは食べ時を失って冷蔵庫の奥でしなびている野菜でも見るような目で、この実際にしなびそうになっている二人の側近を見つめていました。ワタクシも多分、そういう目をしていたんだと思います。
「わかりました」
「では元気でね」
日本の八月だと言うのに、まるでオーストラリアの八月のようにまるで湿気のない風が吹いています。涼しいのではなく、寒いようです、たった二人の無神経な人たちに取っては……
「キャー!!」
ああ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、神よ仏よ我らを救いたまえ!
今回目の前に現れたのは、一人の中年女性。ふくよかな体型をしたこの五十路ぐらいの女性は、付くべき所に付くべき量が付いた脂肪をゆらしながら、これまでの同じ種族と同様に目の前を走って行く。ああ、根絶までワタクシたちの戦いは続きます、負けたりはしません!そして神よ仏よ、願わくばこの無神経な二人の男女に高尚なる魂を!
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