第9話 ある温泉旅館の女将の場合

 今夜も、彼女はまともに眠れなかったようです。目は充血し頬はこけ、かつて持っていたであろう美貌は見る影もございません。

 四捨五入すれば五十歳になるとは言え、今の彼女を四十五歳として見るのは困難でした。私がどんなに化粧を勧めてもすっぴんなのは、おそらくはただ単に諦めているだけでしょう。


 かつて細い細い伝手をたどり、ようやくたどり着いた身の置き場。住み込みと言う事で自分の口に糊する事ぐらいはできる職場で、今日も彼女はほとんど物も言わずに働いていました。

 観光シーズンでもない今はほとんど開店休業状態でしたが、それでも温泉だけを目当てに地元住民が来る物です。一日一組でも客が来れば、全力でもてなすと言うのが客商売としての仁義と言う物ですからね、もちろん数の多寡によって話は変わりますが。

「お疲れですか。今日も客は一組だけですし、あなたももう少しお休みになっては」

「いえ」

 働き者と言うよりは、働きたがり。やたらにまめまめしく働き、そして従業員室でお眠りになる。しかし疲れているはずなのになかなか熟睡できないようで、決まって悪夢にうなされては冬でも汗だくになって起きる。それなのにまた朝から夜まで働き、また悪い目覚めを迎える。そんな負の連鎖が彼女を覆っています。








「不貞により嫁ぎ先を追われ、女一人行き場もなく、こうしてどこかで口に糊する事ができれば良いと思って参りました」


 彼女がそう言ってこの旅館にやって来たのは四年前の事です。その時から、彼女の顔はまるで変わっていません。唯一年相応だったのは髪だけで、そこ以外はすっかり年老いていました。

 五十路どころか、還暦と言っても通りそうなほどのしわくちゃな顔と手足。そして何より、生気のない顔。どんなに皺が多くても生気に満ちた表情をした人間と言うのはいる物ですが、私が彼女の不貞と言う言葉が嘘である事を見破るには、ほぼその一点で十分でした。

 もし本当に不貞行為の果ての離縁なのならば、もう少し性のにおいが彼女からするはずだったのです。四十一歳と言う年齢は閉経にはまだ早い物です、それなのに彼女の醸し出す空気はまるで閉経後、いやそれよりさらに後のように老け込んでいました。

「いつまで持つかわからない旅館ですが、こんな場所で良ければどうぞ」

 まあそういうわけで私は彼女を、あっさりと下働きとして迎え入れました。


 そして知ってしまったのです、彼女が私と同じ種類の人間であった事を。










 四年前のある日、私は数日前に高校を卒業し旅館を継ぐつもりでいた当時十八歳の次男と衝突しました。きっかけはその前の日の事、市場へと買い出しに出掛けていた私たち母子の前を、中学二年生ぐらいの男子が走って横切ったのです。

 それが私たち母子にとってともに十二回目の遭遇でしたが、母がこれまでの十一回と同じように叫んでいるのに対し、子どもはこれまでの十一回と同じように平然と沈黙していたのです。


「母さん、みっともないよ!」

「みっともないとは何ですか!あなたもまだ十八歳なんでしょ!」

「もう十八歳だよ!って言うかもうどれだけ経ってると思ってるんだよ!」

 旅館に戻るや否や、親子ゲンカが始まりました。奇しくも「あの日」から、ちょうど一年が経っていました。もっとも私たちにとっては十一ヶ月前の六月十日が初日でありましたが、いずれにせよ相当な時間があの時から経っていたと言う事は変わりません。初めての時は、まだ甘く見ていたというごまかしが効きました。

 でも幾度も同じ事態に遭遇して同じ反応を繰り返すとなると、学習能力を疑われても仕方がなくなります。そしてその反応が狂乱と言う形であるとなると、答えは言うまでもないでしょう。息子は私の学習能力のなさに、とうとう頭に来てしまったのでしょうか。


「母さんがそんなんだからうちに来ても心休まらないとか言われるんだよ!この旅館が学校でなんて言われてるか知ってるのかよ!悲鳴屋だよ、悲鳴屋!」

「お客様にあんなものを見せられるって言うの!」

「じゃ逆に聞くけど、どこ行けば見なくて済むんだよ!今じゃ世界中どこでもあふれ返ってるんだよ!」


 その言い争いの行われている窓の外を、二十代前半の女性が走っていたのです。言うまでもなく、全裸でした。その女性を視界にとらえた私はしかめっ面を崩壊させて泣きわめき、今まで説教していた息子にすがり付きました。

 こういうひなびた地域と言うのは結び付きが強い代わりに隠し事はしづらい物です。ましてや私の場合人目構わず叫び回っているから、否応なくよそ様の耳に入ります。息子の言う通り私のせいでこの旅館の評判は落ちていましたが、その時はそんなのはどうでも良かったのです。


「ほらまた!こうなったら俺に番頭を譲って隠居しろよ!親父のためにもさ!」

「十年早いわよ!」

「十年後にあれがいなくなってるって言うのか?明日いなくなったところでもう母さんがこの一年積み上げてきたもんは消えないよ!女将と言えば旅館の顔だろ?その顔である母さんがしょっちゅうギャーギャー泣きわめくような宿で誰が心休まるって言うんだよ!」

「……変態」

「変態変態ってそんなこと言ったらみんな変態じゃねえかよ!温泉に服着て入れって言うのかよ!」

「TPOってもんがあるでしょ、この変態!」

「変態って言葉はな、相手にぶつければ絶対勝てる爆弾じゃねえんだよ!」


 次男はそう言いながら私を突き倒し、身動き一つとれないまま呆然としている私を背に荷物をまとめてそのまま旅館を出て行ってしまったのです。

 それっきりまともに連絡など取れてはいませんが、聞いた話によればそのまま六つ上の兄の部屋に入り込み、現在では立派に小さなシティホテルの従業員になっているそうです。

 まあどうでもいいんですけどね、うちの人をなくして以来ずっと頼りにして来たはずの息子が、あんな非道な行いを私にするだなんて。許せませんね、どこまでも。私が死んでも、あんな子どもにはびた一文残しはしませんから。


 まあ、要するにそういう事なのです。











 彼女もまたあの一糸まとわぬ姿で走り回る化け物、この町この国この星を好き勝手に跳梁跋扈し自分たちの心を引き裂く毛のない猿に全てを食い尽くされ、その結果誰よりも大事にして来たはずの子どもを失ったのです。

「外に出るのも辛かったんですよ……」

 不貞と言うのは大噓だったとしても嫁ぎ先を追われたのは事実であって、その後お姉さまの嫁ぎ先に転がり込むもまたあの輩で出くわして、そのたびに迷惑をかけてはいけないと思いながらまた出くわすたびに大騒ぎの繰り返し。と言う訳でわずか半年で姉の家を出て、小さなアパートに転がり込んでそして四ヶ月でこの旅館に流れたと言う事のようです。


 実際、お姉さまの元にいた時通勤中にも遭遇して泣き喚いた事もあったそうで、その度に慣れ切ってしまった皆様から生温かい視線が投げかけられ、その視線を顧みる余裕もなく紙袋を握りしめながらその中に酸素を吐き出す行為を繰り返したとか。その結果ますますその存在を浮かせ、足はますます重たくなり家に籠りがちになったそうです。

「その内結婚でもすればわかってくれますよ、きっと。うちの息子も今年から高校生です、恐ろしさと恥ずかしさをきっと感じてくれているはずです」

 その前に結婚できないかもしれないとも思っていますけどね。あんな目の前のおぞましい光景に何とも言わないような無神経な人間が、恋愛などできるのでしょうか。

 彼女もまた、相当に辛い思いをしたようです。父母も夫もすでに亡い私と違い、彼女には家族がありました。でも夫も、義母さんも、実父母さんたちもわかってくれなかったようです。かろうじて息子さんと同じ学校に通う生徒たちの親という層にはわずかながら味方がいましたが、時が経つにつれて減り続け気が付けば一人ぼっちになってしまいまして、味方が減る度に弱り切った心の隙間に酒を流し込んで埋め合わせ、全く届くはずのない呪詛の言葉を泣き喚いたそうです。

 これもまた、私と何の代わりもありません。




「ごめん下さい」



 そんな調子で過ごしていた私たちの元に、一人のお客様がやって来ました。

「私は日本語も話せますのでお気になさらず、それで一晩お願いできますか」

「はい」

 青い目をして厚着をしたお客様。通と言うにしても、なぜわざわざこんな宿を選んだのでしょうか。彼の姿を目の当たりにした仲居さんは目を大きく開きましたが、それでも客商売の本分を守ると言う思いを込めて、ただの客として部屋へと導いてくれました。


 旅館の廊下を歩くその外国人の方の姿は、実に奇異な物だったかもしれません。七月だというのに手首のわずかな隙間以外上半身の露出部分はほとんどなく、下半身も長いズボンに長い靴下で徹底的に露出部分を減らしておりました。さらにイスラム教徒のように布を頭からかぶり、顔にはマスクをしておりました。


「精一杯もてなさなければいけませんね!」

「琴美さん、私と一緒にお願いできます?」

 琴美さんは陽気な足取りで客間へと向かって行ってくれました。なんだか急に肌に潤いが戻っている感じで、普段からまともな睡眠を取れていないようにはとても見えなません。そして私もまた、意味はわからないですけど実に愉快な気分です。

「あのー」

「研修みたいな物よ、研修」

 仲居頭さんに少し不服そうな顔もされましたけど、まあどうって事もありませんね。八年前に夫に先立たれた時には全力で励ましそれから後も支えてくれましたし、あの「災難」の時もどんなに泣き喚いても個性ですからと言って必死に励まし、そして相談にも乗ってくれたんですけどね。そう言えば彼女はあれを何回見たんでしょうか、まあ反応しないってことは一度もないんでしょうね、ああうらやましいです。


「こちらの景色は」

「やめて下さい」

 いいですとか、結構ですとか言う肯定とも取られかねない言葉を使わない物言いをせず、はっきりとした拒否の言葉を言いました。外国人らしいというより、ただ単純に強い意志を感じる物言いです。温泉以外には風景ぐらいしか売り物のない旅館で、宿泊しに来た客にまずその風景を見せるのが一つの流れでもありました。

「私外国人のお客様はどうにも不慣れで」

「仕方がないですね」

「どうぞごゆっくり」

 私自ら、食事や温泉についての細かい注文を聞き茶を入れます。琴美さんに見せるかのように意欲をあふれさせながら、ベテランの技を見せていく、ああ快感です。

「日本語どれぐらいわかりますか」

「一応不自由ないぐらいには話せます」

「では琴美さん、あなたはいったん下がってください」

 琴美さんが廊下を去って行くと、その外国人男性は何も言わないままリュックサックを床に転がし、そしてただ寝転がりました。

 リュックサックの中には般若心経や小説、自己啓発本などが詰まっておりおよそ生活感のある物はありません。かと言ってスマホやカメラ、ガイドブックなど観光旅行という立場にふさわしい物もございませんでした。


 まあとりあえず用件が済んだと思い部屋を出た私が、再びその部屋を訪れたのは二時間ほど後の事でございます。仲居さんに代わってお茶を入れようとお入りした際、そのお方はカーテンを閉めきり電灯を点け般若心経を唱えておりました、ああまるで修行僧です。閉め切りのため風も入らず中は相当に暑いのですが、それを気にするそぶりは微塵もございません。ウーム全く、修行僧みたいですね。しかしその顔と来たらほころびが見え、門を叩いた時から比べて目線がずっと軽くなっておりました。女将冥利に尽きます。


「今日泊まりに来た外国人のお客さん、とても感じがいい人ですよ」

「そうですか」

「あなた、夜にでもちょっと話し相手になってあげたら?」

「私はただの下働きで」

「いいの」

 私は控室に戻ると、また琴美さんとおしゃべりを始めました。仲居さんも板前さんも、私たちの会話に割り込めないようです、私はいつでもウェルカムなのに。


 夜になるとわかりやすく暗くなるこのひなびた地で、外はなかなか見える物ではございません。それでもデザイン重視のモスグリーンのカーテンだけでは完全に覆い隠す事などできないようで、オーストラリア人のお客様はなるべくそちらに目を向けないようにしながら、私たち新たな訪問客と言葉を交わし始めました。私自らの手で琴美さんを指導しながら敷かれた布団の上で分厚い服を着ながらあぐらを掻くその方の姿は、実にこの空間に適応していらっしゃいました。

「噂で聞いたのですが」

「何でしょうか」

「あなたたちもあの怪物が恐ろしいと考えているようですね」



 怪物!その言葉を聞いた途端、私はすべて気が付いたのです。お客様にもまた泊めたいと思う方もいれば二度と来ないでもらいたい方もいます。このお方には最初から前者のにおいを感じ、そしてその芳香の正体に今気づきました。このお方もまた、あの怪物のせいで全てを失ったのです。

「そうなんです!ほら琴美さんもそうでしょ!」

「私は四年前、離婚しました」

「不思議な物ですね、私も実は四年前に離婚したのです」

「すべては五年前からですか」

「ええそうです、話によれば五年前の5月2日深夜からです、日本時間の」

「そうですね、あの日以来ですよ」

「ええあの日以来です」

 幾年前と言う数字や日付ばかりで話は通じました。はたから見ればまるっきり噛み合っていないかもしれませんけど、そんなのはどうでもいいんです。

 まあそれからおよそ一時間近く、好き勝手にお客様と話し込んでしまい仲居頭さんに呼び出されたのは不覚と言う他ありませんけどね。半分が己が身の上に対する自嘲であり、三分の一が本来ならばこんなはずじゃなかったという悔恨……

「アメリカで生まれ育ち、オーストラリアで仕事をなさっていた…」

「あなたはずっとこの日本で普通に過ごしていたのですか」

「まったく、瞬時にしてこの国、いや世界は無法地帯になってしまいました」

「ああそうです、本当にどこから来たと言うのでしょう」

「今日もまた視界を奪い、無駄な犠牲者を生み、そしてしまいにはまた戦争を巻き起こそうとしているのです」

「まったくその通りですね」

 そして残りが、あの裸の人間に対しての悪口雑言です。

 いったいどこから湧いて出て、どこへ消えて行くというのでしょうか、何のためにやって来ると言うのでしょうか。まったく許しがたいとしか言いようがございません。


「最後にもう一つだけおうかがいいたしますが、どちらでこの旅館を知ったのですか」

「ふた月前の事です。東京の小さなシティホテルで新人の従業員に会いましてね、真面目で実に日本人らしいなと思い好感を持っていたのです。それでつい気になってどうしてそこに勤めるようになったのか聞いてみたのです。

 そうしたら彼は元より自分の生まれであるこの旅館を継ごうと思っていたとか、それがここの女将さんと対立して現在はそのシティホテルに務めているそうです」

「その人から聞いたんですか、私の事を」

「ええ、未だに性的異常者とののしられた事が許せないそうです」


 私がどれだけ必死に危険性を訴えても聞こうとせず、離れて行くばかり。あくまでも清く正しく、心を直ぐにしてこそおもてなしもできるはずです。純愛を通り越して肉欲に走り、望まぬ妊娠からの堕胎と転落。自分の子どもにそんな人生を歩ませたい親が一体どこにいると言うのですか!

「女将さん……」

 琴美さんが右手でハンカチを差し出してくれたのを見て、私はこの時初めて泣いていたのに気づきました。ああどうして、いとしいいとしい我が子は私の気持ちを分かってくれないのでしょうか!




「いつまで話してたんです、もう十時過ぎてますよ!」

「もうそんな時間ですか」

「まあ大変有意義な時間だったようで何よりですがね」


 売り物のはずの温泉をすっぽかされる結果になった仲居さんは、えらく不機嫌そうでした。だいたいたかが一人の話し相手のためだけにそこまで時間を占拠できるのか、こちとらプロの仲居として食事場への案内と夕食の用意をしながら一時間足らずしか触れる事ができていなかった彼女に対し、下働きの琴美さんが延々とかかわってらっしゃったんですからね。

「もしかしてあなた、私の説明聞いてました?お風呂には入らないんじゃないかって説明」

「もちろん聞いてましたけど、気持ちが変わるっていう事もあると思いまして」

「まあその心がけは大事ですけどね、でも」

 私と琴美さんの笑顔に何か問題があったのか、仲居頭さんは首を傾けながら口をへの字に曲げてしまいました。全く何が悪かったのでしょうか……




「アーーー!!」

「行って来ます!」

 悲鳴が鳴り響きました。間違いありません、またあの怪物が現れたのです。まさかカーテン越しでも見えるようにその姿をアピールしたのか、さもなくばうっかりカーテンを開けてしまった所に不意討ちをしに来たのか、そんなのはどうでもいいんです。

 仲居頭さんには悪いですけど、これは戦いなんです。私と、琴美さんと、あのお客様の。こういう場合は、接客業としての二十年のキャリアより五年間振り回されて来た人間の方がよほど役に立つのです。

「申し訳ありませんね、この通りだから」

「はい」

 仲居頭さんもしっかりと首を縦に振ってくれました。ありがたい事です。これでまた同志が増えてくれれば何よりです。さて明日はより丁寧に、より心を込めてもてなさなければなりませんね。あんな上客、逃してたまりますか!


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