第8話 とある警察官の場合

「俺がもしこんな事になる気はしないでもなかったと言ったらお前はどう思う?」

「本当、恐ろしいですね薬物の蔓延ってのは」

「それはわざとか?」


 裸の人間たちが地上を闊歩するようになってから一年あまりが経つ。その一年間で私たち警察内においてもっとも多忙になったのが交通課であるが、その次は薬物取締部門だった。

 特に年が変わってから、薬物に手を出す中年以上の層がかなり増えていた。還暦間近の大先輩は、新人で研修中の私たちと共に違法薬物を買おうとした客をパトカーに連れ込みながらそんな雑談をしていた。


「どうしてこの年までまっとうに生きて来て最後の最後でこんな事をしたんです」

「もう、耐えられませんでした」


 地位も名誉もあったはずの亭主を持ち、二人の子も立派に育て上げた六十七歳の女。それが違法薬物に手を出したのは、十一月の終わりだった。

 その日、遊びに来ていた次男の嫁と孫の面倒を見ようとしていた彼女に、その孫からとんでもないナイフが投げ付けられたのが原因だったと言う。





「ねえおばあちゃん、どうしてはだかではしってる人がいるの」

「あれは人間の格好をしてるけど全然別の生き物なの、そう教えたでしょ」

「ああ、おばあちゃんはお母さんよりずっとたくさんいろんなことをしってるんだよね、そうだよねごめんなさい」


 まったく危機感がない孫と嫁の物言い。一応ぶつかったら危ないと言う旨言いつけてはみたが、それに対しても自転車や自動車と同じなんだよねと言い返されて終わったと言う。

 かわいいかわいい孫にさえも自分を殴り続けているあの化け物が侵食しているのか、その事実が胸に深く刺さった。それで年を取っただけ傷に弱くなり、孫の穏やかな顔を見ていると怒鳴り付けて傷をなすりつける気力も起きなかったと言う。

「まったく!どうして最近の子は……」

「あのな、最近の子はとか言い出したら完全な年寄りだぞ。いくら俺たちが六十代後半だからってさ。お互い、まだ若いと自分では思ってるんだろ?だったら受け入れてやらなきゃ。このスマホってのも面白いもんだな、動画でも見るか?」

 旦那さんもまた、自分の嫁と孫への憤懣を真剣に受け止めてくれなかったらしい。本人からしてみれば他にいろいろ面白い事もあるんだぞと言う愛情のつもりだったけど、彼女には話題そらしにしか聞こえず傷口をさらにえぐられただけだった。そしてその傷を埋め合わせるために薬を買い、そして最終的にこうなってしまったと言う訳だ。








「麻薬を流行らせるために出て来た訳じゃないんでしょうけどね」

「ああ、人間、最後の最後までどう転ぶかわからんぞ。ましてやあんなもんで人生を棒に振りたいのか?」

「まさか!」

「俺のようなじじいでもそうならんとは限らん。五日前のことを覚えてるだろ?」

 五日前には、古稀の男性が息子とあの裸の人間を巡る大喧嘩の後誰も自分の味方がいない事に絶望して、やはり逃げるように薬物に走り逮捕された。一流ビジネスマンであったはずの人間の哀れな晩節に、親しい人々はほんの少しだけ裸の人間たちを呪っただろう。

「ああー」

「大丈夫ですよ」

 自分と同じような、六十代後半の女性。顔にも体にもしわが目立つが、足の速さは変わらない。自分を犯罪者にした存在に対してのいろいろな感情のこもった声。幻覚だからとか、直接的な被害は出ていませんからとか言う理屈よりも大丈夫だと言う単語が彼女には何より欲しかった。

 そこまで弱り切っていたことにもし誰かが気付いていればこんな悲劇は起きなかったかもしれない、と言うありきたりなフレーズを使って形容してはいけないだろう。確かに頻発こそしていたが、それ一個一個が皆悲劇である事には変わりはないのだから。それでも同一の事件の頻発に伴う過剰とも言うべき報道により、だんだんと世間が慣れてしまっていた。


 裸で走り回るホモ・サピエンスに酷似した二足歩行動物たちに対し、私たち人類はまったくなすすべがない。その事を実感させられるには、もう十分な時が過ぎていた。

 一体誰がそんな事をしたのか、その見当さえ付ける事ができない。諦めろと言う声を、その二足歩行する動物が口から放っているようにさえ聞こえて来ていた。

 裸の人間たちの出現に、同時多発テロ。こんなひとつ起きるだけでもその年を象徴できそうなほどの事件が、一年間で二回も起きた。しかも裸の人間たちはいまだに消える様子はなく、同時多発テロの危険もまたこの前の襲撃事件により頭をもたげて来た。

 平和を気取るには、あまりにも現実が荒れ過ぎていた。そしてその荒れた現実から逃げる事は、大人としては絶対にできない、ましてや子供を守るとあればなおさらである。相手を知らずに戦おうとする事がどれだけ愚かかなど、二千数百年前の孫氏の時代からまったく変わらない真理である。













 そんな最中、一件の殺人事件が起こってしまった。




 殺された男性は、その時裸で走る七十代半ばぐらいの裸の老女の存在を見止めつつ今日も仕事に励もうか、今日の昼飯はスパゲッティにでもするかとか言う事を考えていただけの存在であった。

 もしその男性に彼女がおらず、休日は寝るか部屋に籠ってゲームをするかぐらいしか楽しみのない人間である事を知っていたら、果たして犯人は思いとどまったであろうか。


「今日も走っていますか」

「ええ、走ってるよ。北は北海道から南は沖縄まで、いや北はモスクワから南はシドニーまでな」

 容疑者は三十代半ば、無職。妻はいたが三年前に離婚し現在は独り身。警察署に移送されるにあたってすれ違った際に、まるで缶コーヒーでも買いに行くように歩いていたそのふてぶてしい姿は強く印象に残る。

「そう言えば被害者だけど、ツイッターをやっててな。どうもあの裸の人間を見つけた第一号らしいんだよ、写真は今でもツイッターの頭に登録されている」

「ふーん……」

「何だよただの人殺し」

 他人事と言うより、むしろ歓迎するような調子での相槌。その相槌に対し刑事が眉をわずかに上げながら捨て台詞を吐いたのに対し、男は口元を緩めていた。

「そこに気づくとは、さすがだね警察は」

「やっぱりか」

「そうだよ、俺の嫁の娘の同級生の母親がさあ。あの野郎のせいでひどく落ち込んでいるのを聞いちまったからさ。ちょっと前に別れてからもみっともなくよりを戻そうとしてやがったみたいでよ、他に生きる目的も見つからなかった俺にくれた大チャンスだと思ってね」

 第一発見者である彼を殺せば、あの化け物たちも消えてくれるのではないか。そうなればこれ以上無駄に世が乱れる事もなく、世界は平和になる。頭からそう信じて、全く疑っていないこのある意味純粋な男。

「奥さんは悲しむぞ」

「だから離婚したんだよ」

「仕事を辞めたのも」

「ああその通りだよ、こんな奴を抱えてたら会社が潰れるだろ」



 被害者がうかつにアップロードしていた写真からその住所を突き止め、仕事も家族も投げ捨てて、たまたま真っ先に遭遇しただけの存在を悪の権化と思いこみ、その彼さえ殺せば世界平和が訪れるなどと言う、どこまで自分勝手な独り相撲。安っぽいRPGやライトノベルのような、いやそれ未満の発想だ。


「まったくの無駄だったな、お前はただの人殺しだ」

「あの化け物のせいでな」

「いいや、まったくお前のせいだ!」

「だからあの化け物が」

「人のせいにして何が解決するんだよ、ああみっともない!」

「あんなハレンチなもんをほっとくような奴の方がみっともないよ」


 反省の色など全くないまま、どこまでもあの化け物のせいにし続ける。交通関係の仕事をする人間ですらとうの昔に通り過ぎたはずの場所を、彼はまだ行き来しているのか。

 でも実際、そう言う人間が多い事も私は知っている。警察内部でさえ、あのハレンチな輩になす術がないと言う苦悩にさいなまれ配置換えを申し出る人間がいるぐらいだ。そのせいで離婚したり、逆に不安になって伴侶を求めるべく結婚したりと言う話も多々ある。自分にもそう言う出会いがない物かどうか、探していないわけではないがあいにくその相手は今の所いない。








 そして五月二日、彼に対する判決が下された。


「被告は被害者を昨今まかり通っている怪事件の犯人であると一方的に決め付け、被害者をためらうことなく刺殺した。その上に自らの犯罪行為に対しまったく反省の様子はなく、その有様は実に自分勝手と言うべき物である。何よりそのきっかけとなった被害者の些末な行いに対しまるで憎悪を隠す事がなく、むしろなおさら自分の行いを正当であると認識するその有様から、被告に人間として持つべき良識を感じうる事はできない。よって被告に、無期懲役の刑を申し付ける」


 この判決後即時抗告がなされたが、刑はまったく軽くならなかった。自分の正義を信じて疑わず、そして実行に移した。その結果これまで築き上げて来たすべてを失い、この後の人生を刑務所の中で過ごす事を余儀なくされる。哀れな話だ。

 そして判決が下された裁判所の横では、今日もまた走っていた。今回は白人で金髪の少年だったが、マスコミが集まっていたと言うのにその白人の少年を撮ったカメラはほとんどなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る