第6話 一人の老女の場合
うちの次男の嫁は、いい嫁だった。長男の嫁ならばと何度も思わせるほどだった。
でもそれが、まさかあんなことのせいでぶっ壊れちまうとはねえ……。
別に翔一がもらした訳ではなく嫁が隠す事をしなかっただけなんだけど、よくもまああんな異常な行動をペラペラと言いふらせるもんだね、しかもそれどころかその事を正義であると信じて全然疑ってない。
その結果四月までクラスの中心の一角にいたっぽい翔一は、いじめられっ子になっちまってたようだ。この前チラッと下校する翔一を見かけた時にはもう本当驚いたね、初めて二十歳ぐらいの男に出くわした時ぐらいに驚いたね。
地位は人を作ると言うけど、四月に比べ翔一の顔からは生気が薄れ、顔もたるんでいた。運動不足であった物だから筋肉の付きも悪くなっており、たぶん目つきも悪くなったし視力も落ちているんだろう。ったく、何一ついい事なんかありゃしないじゃないか!あんまりにも愕然としたもんで声をかける事も出来ないままなんとなく横に反れたけど、したら待ってましたとばかりに孫にべったりと嫁がくっついていた。
「外に出て思いっきりサッカーしたいよ」
「もうちょっとだけ我慢しなさい」
「もうみんなバカになんかしてないよ、ああまた来たかぐらいしか言ってないよ」
「誰がそんな事言ったの」
「和樹と美香とさくらと祐樹と元と藤平さんちの双子と…」
「赤羽さんはそんな事を言ったの」
「言ってない…何にも言ってない」
「ねっそうでしょ、赤羽さんも何も言ってないだけで内心ではあんな事をしちゃいけないってバカにしてるの、だから何があってもあんなの見ちゃダメなの」
必死に助けを求める息子に対してのその手を薙ぎ払うような物言い、ああ顔から火が出るってのはこういう事を言うんだろうね!
民主主義国家において白であると述べている十人の他者とそれと平等の権利を持つ一人の人間の灰色って回答が目の前にあるってのに、白でも灰色でもなく黒であると勝手に解釈してだからこれは黒なのなんて論法が成り立つはずなどないだろ!
まったくもって結論ありきであり、ただ暴威を振るって従わせようとしているだけ。
私はもう堪忍袋の緒が切れちまったんだよ!
「お義母さん!」
「ちょっとあなた、今日はいろいろと聞きたい事が、って何目を反らしてるんだい!こっちを見なさい!」
次の日の午前八時半、おびえながら孫を送り出しただろう嫁が家に入ろうとするや、私はずかずか上がり込んでやった。
ところが私が靴を脱いで足をかけようとしたちょうどその時、私は私と同い年ぐらいの男が全裸で走っているのを見ちまったんだよ。嫁は訪問客の顔を見ようともしないで悲鳴を上げながら目を反らし、全身を私が使っている古い携帯電話のように震えさせ出した。
「ったく、これまでさんざん電話で言って来たのに全然聞いてないようね!」
「掃除、洗濯、炊事みんなきちんとやってますけどやはりお義母様にはとても」
「話をずらすんじゃないの、サルコさん!」
サルコさんと言う単語を聞かされた嫁は、その日も朝からずっとうつろだったっぽい目を大きく見開かせた、すぐさまその力をなくして閉じられちまったけど。
あの日からひと月もしない内に誰かが使った
「去勢されているのであるから、全裸の人間たちを見ても性欲と言う第一の本能すら湧き立たず、と言うかそれすら否定する人間」
と言う存在を定義するのに絶好の言葉としてたちまち一人歩きを始めたっつーのがサルオとかサルコって言葉。自分としては煩悩などに囚われず崇高な道を歩いているつもりの人間を揶揄する言葉として、サルオと言ういかにもマヌケっぽく弱々しい響きがピッタリだったって事かい。まあ本当にその通りだよね!
「サルコ……?」
「翔一の同級生からサルコって呼ばれてるそうだね、あの変な連中にびくびく怯えるような人間を指す言葉を」
「お義母様は怖くないのですか……?」
「ああ今さっきも出くわしたわ、まあさすがに少しむかついたけど」
「そうですよね、人の迷惑なんぞ顧みずまったく目の毒にもほどがあると言うか」
「うちの人の同級生、要するにあんたの義父のライバルにそっくりな顔をしてたからね」
「ああそうなんですか」
私からしてみれば、少し不満っぽい事を述べただけで喰い付こうとする嫁の頭を叩いてやったつもりだったのに、そのある意味での打擲に対する反応と来たら、実に適当で平板で敬意のない相槌だけ。
「ったく、茶の一杯ぐらい出さないのかい」
「はい今すぐ!」
「いいのよ買い置きので、何それもないの?まあ別にいいんだけどさ、あんたと違って私は寛容なんだから」
「今すぐ沸かしますので」
その平板な返答に腹を立てて嫌味とかいびりを通り越して直接的に殴りかかってみたけど、それでも嫁は鈍く重たい言葉を返したのみ。茶葉を急須に放り込みやかんに水道水を汲むと言う事に関しては、彼女は本当に活発に動いていた。
大方私とお茶の事を考えている間は、あの変態どもの事を頭から追放できるって事なんだろうね。だから家庭用のたかが知れた火力のコンロの火をじっと見つめ、湯が沸き上がるのを待つ事もできる。見つめる鍋は煮立たないなどと言うことわざなど知った事かいと言わんばかりにコンロの前でじっと立っている姿と来たら、息子の目を呪いたくてしょうがなくなるぐらいだよ。
「お待たせいたしました!」
で、現実逃避の果てに入れられた緑茶がまずければいくらでもそこから文句の言いようもあったのに、うまかったのがもう最悪だね!嫁と来たら私の悪意に気付く事もなく、ほんの少し前まで死んだ魚のような目であった事がまるわかりな、緑茶同様ににわか作りの笑顔で安堵のため息を吐いていた。
「ったく、あんたもあんたの親父さんのキンタマに入っていた精子とおふくろさんに入ってた卵子の成果じゃないの」
「キン……」
「あの子もねえ、四つ上の兄と三つ下の妹に挟まれた子だから産まれてからずっと兄に世話されたり妹を世話したりしてるんだよ、その際に兄のキンタマや私や妹のあそこなんて嫌って程見てたんだよ!末っ子なんてお兄ちゃん子で毛が生えるまで一緒に入りたい入りたいって風呂に入ってたんだよ!あんたはどこから翔一を出して来たんだい!」
「あのー……」
「この年になっちまうともう恥じらいなんかないよ」
そんでいよいよとばかりに本題をぶつけてやったら、まるで化け物を見るように目を見開いて喉を見せて来た。まるで私がんなこと言うだなんてびた一文考えてませんでしたって言わんばかりだね。
「順番って物が……その……」
「順番だって?あんたは赤ん坊の翔一を連れて義妹の結婚式に参加したことをきれいさっぱり忘れちまったってのかい?そん時翔一のおしめを換えてたでしょ、それで結果として翔一のキンタマもお披露目しちまった訳だろ、披露宴だけにさ!ったくあんたって薄情だね、本当に薄情だよ!」
「そんな事を言いたいんじゃありません」
「じゃあ何が言いたいんだい?ゼロから正確な知識を教え込んでそれから外に解き放ってやればいいって訳かい?だったらすぐやりなさいよ、って言うかやってなかったのかい!ったくとんだ怠け者だね!今すぐ花でも見せてやりなさいよ、性教育の入り口としてはそんなに悪くはないと思うわよ、おしべとめしべだけでも十分じゃないの?」
「ああ……そうですか……」
数年前に翔一が生まれて以来ずっと使って来た笑い話も、今や説教の種だ。その話を聞かされた嫁は瞼を濡らし、顔も上げられなそうにしている。あるいは睾丸や陰茎ならまだともかく、キンタマとか言う単語をこの人生経験豊富で尊敬に値するはずの相手から二度も叩きつけられるとは思いも寄らず混乱しちまったのかもしんないけどね。
だからこそ活を入れてやろうと思ったわけよ、薄情だの、怠け者だなんて言ってね。同居ではないにせよ自分なりに義母に仕えて来たつもりであった人間としてはまったく心外のセリフであったはずだよ。しかしそこまでやってもまだ嫁はまともに動こうとしない。ったくここまで嫁の症状が進んでいるとは思わなかったよ、って言うか放置していた私もアホだね本当。
「そりゃ最初は私もビックリしたよ、でも何べんも見る内に慣れて来ちゃったって言うかさ、世の中にはいろんな奴らがいるんだって事。直近だってあんな自然災害が起きたでしょ、たかが平凡な主婦のあんたが予知できたの?」
「その……」
「いいかげんにしなさいよこの弱虫毛虫のサル女!」
「はあ?」
「あんたが一番翔一を信じていないのよ、あの連中のせいでそういう犯罪が増えたってデータがどこにあるんだい?」
「いずれ、いずれ大きなひずみになって」
「いずれだって!ったく便利な口上で逃げ回るんじゃないわよ!しっかりとあんた自身があの連中と向き合う気がないのが悪いんじゃないの!幼い時から裸をしょっちゅう見て来たうちの息子は変態だってのかい?もしどうしてもやだやだって言うんなら、こっから出て行く事だね!もちろん翔一は置いて行きな、お金なら払うけど」
そしてその上で弱虫毛虫だの、一番子供を信じていないだの、自分の亭主を何だと思っているだのとぶちまけてさえなお、口答えをやめようとしない嫁に対して私はついに最後通牒を叩きつけてやった。目を覚まさせるためならばこれぐらい知った事かい、憎むんならないくらでも憎んでくれて構わないんだよ!
「…………………お強いんですね」
「あんたが弱虫なだけだよ!どうしてもって言うんなら目玉くり抜いたらどうだい!」
「どこで出来ます?」
あーあ……皮肉や恨み節というより、ある意味での挑戦だよこりゃ。
いっそのこと目玉がなければあの連中から逃げられるってえ理屈かい、ある種の最後通牒を突き付けられてなお戦いをやめようとせず、その上で怯懦の心に打ち勝てない弱々しくかつ力強い返答。おまけに最悪な事に、開き直りって単語がちっとも見えて来ない。極めて誠実過ぎてひたすらに気持ち悪いわよ。
「いくら女だからって女々しいにもほどがあるわよ!孫にはお母さんは少し疲れちゃったからお休みしてるのと言い含めておくから、少しあたしの家で考えなさい!」
「家事は」
「私がしばらくやります!そうね、十日間ほど考えなさい!態度次第ではまだもう一度認めてあげないでもないから!」
「……はい」
「……実はこんなことが起きるかもしれないと思ってたのよ、まさか翔一がとは思わなかったけどね。翔一の事を信じてやりなよ、信じて信じて信じ抜いて、ね!」
何かができる人間に比べできない人間は劣る、それは勉強でもスポーツでも同じ理屈。それでだんだんとできる側にできない側を見下す空気が生まれ始め、そしてそれがこじれるといじめに発展する。ありふれた理屈ではあるけど、今回もまたその流れなんだろうね。
で今回の場合、むしろできなかったり関与しなかったりする方が世間や親から肯定されやすいはずだった。でも時が経つにつれ世間にあきらめが広まちまって、タガが外されて行った。関与するか否かはともかく認識についてはなければならないスキルになり、新しい常識を持とうとしないでかたくなに古い時代にしがみついている人間に対する不可解さと困惑が、嫁をこんなにしちまったんだろう。古い女と書いて姑って言うはずなのに、どうして嫁の方がこうも古い考えに凝り固まってるんだろうね。
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