第5話 一人の少年の場合

 六月半ば、もうそろそろ梅雨入りって時期。もうあれから一ヶ月半以上経つってのに、いまだに母さんはびくびくしている。

 あれが出るたびにギャーギャーワーワーと叫びまくり、僕の頭を全力で押さえ付ける。


「絶対にあんな真似しちゃダメよ!」

「お風呂場でも?」

「いつから道路はお風呂場になったの!」


 母さんが言う所の「化け物」たちは未だに世界中を好き勝手に走り回っているらしい。うらやましいと言う気持ちを隠しながらほんの少しだけ言い返そうとしてもこの調子。

 この前、一人のおじいさんがあの裸の人たちに戦いを挑んだ事をニュースで見せられた。あのおじいさんはいったい何をしたかったんだろう。あんな風に死んじゃって、いったい誰が喜ぶんだろうか。








「何が欲しい?翔一が好きなマンガ?それともゲーム?」

「スパイクシューズ」

「うーん靴とか服とかね、どうしてもすぐに翔一がおっきくなっちゃうからね、どうも何かもったいない気がするのよ。その点本とかならいつまでも取っておけるし、もし飽きたら売っちゃえばいいし」


 十日後に迫った僕の誕生日を前に、母さんは一方的にプレゼントを決めようとして来る。

 あのねえ、僕は昨年八回もJリーグの試合を見に行き、将来の夢と聞かれればひいきチームの選手だってずーっと言ってるんだよ?四月まではスパイクシューズって事になってたじゃないの。


「明日健太郎とこのお父さんと健太郎と一緒にサッカーの試合見に行くんだけど、それもダメなの」

「いやその、大丈夫よ」

「やっぱりやめようかな」

「私は全然気にしてないから行って来て!」

「お母さん、怖いの?」

「そ、そんな事……そんな事……あるのよ」


 もうすっかり慣れっこなんだよ。僕一人でも行けるぐらい覚えちゃったんだよ?だってのに母さんったらもうマンガみたいにぶるぶる震えている。父さんに精神安定剤じゃなくて洋服とか買えってどなられてたけど、母さんはその言葉をぜんぜん聞き分ける気がないみたいだった。


「お母さんがそんなにおびえてるとサッカーなんか楽しめないよ」

「私は大丈夫だから!当日券ってまだあるの?」

「ないって健太郎のお父さんは言ってたけど」

「じゃあずっと試合終わるまでスタジアムの外で待ってるから!」


 サッカー観戦どころか、学校への登下校すらこの調子。五年生になった僕はもちろんサッカー部に入りたいけど、本当のことを言えば校庭に出る事さえしてほしくないらしい。なぜなら、校庭のそばにある道路にあれが走っていた事があるから。と言うか、三日前にも見たぐらいだ。学校の中とか、ああいうスタジアムの敷地の中に侵入してくるという話は、世界中どこからもまだないらしい。


 僕にはわかる。母さんはきっと、スタジアムに入るまでは僕の目も耳も完全にふさぎたいんだろう。そしてスタジアムを出るや、家まで同じようにして連れて行きたいんだろう。まったく、むちゃな事をする人だ。







「翔一、お前のお母さんって本当怖がりだな、もう十二回目だぞ」

「うん、でもどうしても付いて行きたいって」

「大丈夫ですよ、私が付いてますから」


 結局母さんも一緒に来て、試合が終わったらすぐに帰るって約束を三回も取り付けて、それで親子二組二人ずつ、計四人でスタジアムに行く事になった。

 前を向く事すらまともにできないお母さん。最近ではスーパーマーケットに行く時ですら精神安定剤とか言う物なしでは無理になり、出くわそう物ならそれだけでパニックになる。

 楽しみなはずの試合なのに、気になるのは母さんの事ばかり。あまりにも哀れなお母さんの姿はスタジアムに向かう他のサポーターから少しずつ元気をむしり取って行ったみたいで、バスの中はものすごく静かだった。

「頑張れ頑張れ!」

「うるさいんだよ、まだ試合は」

「ごめんなさい!ごめんなさい!許してください!」

「……いえいえ、こちらこそ」

 母さんは恐怖から逃れるために大声を出したけど、当然だけどどなられた。でもそれに対して母さんがやたらペコペコあやまるもんだから、どなった人の方が逆におとなしくなっちゃった。

「やっぱり帰ろうよ」

「大丈夫だから、あんな変態たちになんか負けたりしないから、お母さんは大丈夫だから…」

 変態たち、その単語が何を表しているか、ここにいたすべての人がわかっている。


 二ヶ月足らずの間に、すっかり定着してしまった存在。

 どんなに逃れようとしてもムダな存在。

 母さんはその変態に、すっかり打ちのめされていた。

 幸い、ぼくたちはその変態を見る事なくスタジアムにたどり着いたけど、母さんはアイマスクをするとぐったりと外のベンチに座り込み、無言で空に目を向け出した。両手はぎっちりと合わせられ、まるで誰かに向かって祈っている感じだ。梅雨の前の貴重な青空のくせに、お母さんだけはまったく雲の中だった。













 で、結局夏休みの間僕は家に引きこもり状態だった。宿題も日記がなかった事もあって八月二日に終わっちゃって、以後は四週間ずっとゲームばかりする生活。

 当然体はなまっちゃう、こんなんで何がサッカー少年だよ。


 でも健次郎と健次郎のお父さんといっしょにサッカー観戦に行った帰りにアイマスクをしてぐったりとベンチに座っている母さんの姿を見るだけで、母さんが本当につかれている事がよーくわかった。

 自分が外に出るだけで、母さんははげしく傷付く。帰りのバスでも必死に下を向かせようとし、裸の人間たちを見せちゃいけないとしていた。せっかくチームは勝ったのに、気分は全然浮き上がらなかった。

 その結果、予定していた他のサッカーの試合の観戦も家族旅行もおじいちゃん家への帰省もすべてキャンセルになり、健次郎たち他のお友だちと会う事もなくなった。たまに外出した所で母さんものすごく怖い顔をして付いて来る物だから息苦しくてたまらなくて、だんだんと足が重くなってきた。




 もちろん、お父さんだって母さんをほっといた訳じゃない。

「お前さ、翔一にサッカーをやらせたくないのか」

「そんな事はないわよもちろん」

「じゃあなんでずっと家に塞ぎ込ませておくんだ」

「じゃああなた四六時中翔一を見ていられるの!あの変態の毒牙にかかったらどう責任を取ってくれるの!」


 それ以外の事に対しては基本的に優しいはずの母さんが、あの全裸の人間たちだけには全く優しくなかった。それがお父さんであっても変わる事はなく、目一杯の大きさと高さの声を出してお父さんと僕を抑えにかかる。

 圧力と言うよりお願い、それこそ最後のお願い。足にしがみついてでも止めたくて仕方がない、どうしてもと言うのならば母さんを踏み越えて行け。何て言うかもうメチャクチャだ。


「俺が付いてるから安心してくれよ、頼むから」

「じゃあ一日だけね、翔一には防犯ブザー渡しておくから、変態が出たらすぐさま鳴らすように言っておいて!」

 なんとかお父さんの必死の交渉の結果遊園地に連れてってくれる事になったのはいいけど、あの裸の人たちに出くわす事もなく遊園地を楽しんだぼくらが家のドアを開けると、とんでもない物を見てしまった。


「あんの変態どもいつかこの世から消してやるから、覚えてなさいよ~!この瓶頭にぶち当てて頭叩き割って今までの罪ぜーんぶ償わせてやるから、あははははは~!ああ二人ともお帰り~!あの変態どもはどうしたの~何~出会わなかった~?ったく本当に嫌らしいやつらよね、人が警戒してる時に限って出て来ないんだなんて、私にケンカ売ってるの、ねえあなた、そう思うでしょねえ、ねえ!ああそうよねやっぱりそうよ、うへへへへ、あははははは……」


 休日とは言え、夕方だと言うのにものすごいお酒の量。空っぽになった日本酒の瓶を床に転がしながら笑い声を上げる姿と来たら、もう見てられない。このお酒の量と母さんの姿を見てお父さんもとうとうあきらめちゃったみたいで、その後は何か言ってくる事はなくなっちゃった。







「思いっきり叫んでいいから!恥ずかしいとかそんなのどうでもいいから!それがみんなの為にもなるのよ!」


 んで二学期の始業式の日も、母さんは僕にそう呼び掛けた。

 さすがに一緒に行くのだけはやめてもらいたいと僕が何とかお願いした結果とは言え、母さんの言葉はぼくの顔を赤くした。もう小学校五年生だよ、高学年なんだよ?まるで一年生の、それも一学期の行動じゃないかい。


 ぼくはますます頭を上げられなくなった。その結果アフロヘアにも似た派手なパーマをかけた五十代前半ぐらいの女性、しかしやはりプロポーションは非常にきれいな全裸の人を見る事はなかったようなんだけど、それが一体どうしたって言うんだろう。その時僕の周りには同じ学校に通う十人ほどの小学生がいたけど、あっと言う小さな声を二年生の女の子が上げたのが最大の反応だった。




「どうしたんだよ、あああれか、宿題さっさか終わらせて遊びほうけてたからリズムが狂ってるのか?」

「お前さ、夏休み何やってたんだ?あれか、サッカーの練習とかもずいぶんキャンセルしてたけど」

「それが、その……」

「もしかしてお前あのすっぽんぽんどもが怖いのか?」

「僕じゃなくて僕のお母さんが、お父さんと遊園地に行くってだけでもうお酒飲んで騒いじゃって……」

「大変なんだな、みんなも気を付けるんだぞ、なるべく気にしないようにしろよ」


 まあ二学期の頭だなんてみんなそんなもんだろうけど、教室でみんながほぼ同じように夏休みの反動でだらけ気味の姿をさらす中、僕は一番その程度が大きかったみたいだ。

 その理由を素直に言っちゃった結果、ぼくに一つのあだ名が付けられる事になった。


「おいサルオ、お前だよサルオ」

 サルオってのが、二学期から僕のあだ名になった。




「桃太郎の猿?」

「ちげえよ、サルオってのは……女の子の前で言っちゃいけねえもんだよ」

「私は別にいいけど、私のママとかおばさんとかあの人好きだもん」

「確かにね、ああやって割り切って生きてる姿ってかっこいいってさ」




 この年の正月に放送されたバラエティー番組に出演したタレントさんは、自分の事をいわゆるニューハーフに成り立ての時期からしばらく面倒見てくれていた先生が使っていたサルオと言う言葉をテレビで言った。

 詳しいいきさつはわからないけど、その人からしてみればきれいなお弟子さんに対してちょっとうらやましくなってそんな風に呼んだみたいだったんだけど、それが気に入ったその人は好んでサルオと言う言葉を使っていた。

 その時はさほど話題にもなんなかったけど、最近になりあの全裸の人間たちが走り回ると言う現象に対してオーバーリアクションする人間の事を、誰かがサルオって言い出したみたいだ。で女の人に対してはサルコと言われてて、最近じゃサルコの方がサルオより多く使われてるみたいだ。


「いやこいつはサルオじゃねえだろ」

「でもこいつの母ちゃんは間違いなくサルコだぜ」

「でもそれは納得だけどな」

「お前の母ちゃんサールーコ」


 デベソをサルコに変えただけの、昔から生き残ってる古典的な文句らしい。まあ僕自身がサルオと呼ばれる事は少なかったけど、お母さんがサルコと呼ばれる事はかなり多い。それこそ一日一回の単位で呼ばれている。




「オレの兄ちゃんが昔やってた競馬のゲーム、貸してやろうか?お前にはこれがピッタリだろ」


 それで九月半ばごろの放課後、僕に向けてそんな言葉を飛ばして来た奴がいた。競馬ってのがなんだかよくわからないけど、馬の交配ってのはまったく生産者の都合であり、お馬さん同士の感情など基本的に関係ないらしい。

 ものすごくきれいな顔をしながら、僕にそんな事を行って来る奴を止めるクラスメイトはだーれもいない。


 そりゃそうかもしれない、一学期の時から登下校さえ手をつないで行い、少し外出するだけでもまるで大冒険でもするかのように神経をとがらせ、あげくお父さんと一緒に遊園地に行っただけでお酒ばかり飲んでいる――母さんがおかしいのは明らかだもん。

「速く帰りましょ!」

 ああ来ないでよ、まったく授業が終わって帰る所にピッタリやって来ないで!

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