21
※※※ ※※※
「僕はねえ、沖永良部島の出身なんだ。知ってる? 沖永良部島」
義兄はバリトンの効いた声でゆっくり話し始めた。
「ええ」
僕は鹿児島の南に位置する小さな島の群れをイメージした。そのうちのどれが沖永良部島かは分からないけれど。
「狭い島だよ。一度、小学生のとき家出したことがあるんだけどね。なにせ、周りが海だろう。それに顔見知りばっかりだ。その事実に気づいて絶望したよ。やけになってそこらに生えてるさとうきびをかじったんだけど、あのときの味は忘れられないね。それ以来、甘いものは大嫌いになった」
義兄が大阪に出てきたのは芸人を目指すためだったと言う。彼は京都出身の相方とコンビを組み、活動を始めた。
「そいつがひどい甘党でね。喫茶店なんかで打ち合わせをしてても砂糖をがばがば入れるんだな。一方の僕はサトウキビに対する反発からブラック一辺倒。苦くないのかって宇宙人でも見るような顔をされたもんだねえ。まあ、あれもいま考えるとやせ我慢だったんだなあ。本当は」
しかし、そのうちにコーヒーにも豆や入れ方によって味の違いがあることが分かるようになったという。
「それで、バイトも喫茶店に変えたんだよね。そこの店長に気に入られちゃってさ。俺が倒れたらこの店を継いでくれなんて言われるのよ。ひどいよね。芸人として成功するとはまったく思ってなかってわけ。でも、結局はその店長の言うとおりになったんだから笑えるけど」
尤も、そのきっかけは笑えないものだったらしい。相方が糖尿病を患ったのだ。
「大変だったみたいだねえ。でも別に糖尿病だからってやめなきゃならないもんでもないんだよね。それでも、解散の話を持ちかけられたとき強く反対しなかったのはきっともう別の道を見つけちゃってたからなんだろうな。合い方もそれを見透かしてたんだろうな。砂糖が入ってないコーヒーのよさは分からんが、まあがんばれなんて言われちゃってさ。まあ、芸人の道は諦めたわけだな。その数年後には店長も脳梗塞で倒れてね。けっきょく僕がこの店を継いだわけだ」
喫茶店経営にも慣れてきた頃、長年勤めていたバイトの女性がヤクザと駆け落ちして遁走してしまったと言う。義兄は新たなバイトを募集することになった。
「ナホちゃんが応募してきたときは正直、どうしようかと思ったよ。本人は笑ってるつもりなんだろうけど、ガチガチだったしさ。あんまりひどいから、ちょっと冗談で緊張をほぐしてやろうと思ったんだけでこれがまったく受けなくてさあ。そこは愛想で笑っとくんだよって心の中で叫んだけど、まあ他に候補もいなかったし彼女に決めたの。明日から来てくださいって言ったら彼女自身、びっくりしてたなあ。きっとだめもとだったんだろうね。後々聞いたら、ここの前に居酒屋に応募したけど、表情が硬くて落とされたんだってさ。ナホちゃん、笑顔はガチガチだったけどまじめだし接客は丁寧だったからさ、常連さんにもすぐ受け入れられたよ。仕事に慣れたら、そのうち自然に笑えるようになってきてさ。ああ、この子こんな顔するんだって」
姉は次第に義兄と打ち解けて話すようになった。
「そしたらある日、訊かれたのね。『店長ってもしかしてアイゼンハワーのツッコミでした?』って。ああ、アイゼンハワーっていうのはコンビ名ね。びっくりしたな。だって解散してからもうずいぶん経ってたからね。テレビだってめったに出る機会がなかったし。『もしかしてファンだった』って訊いたときはそれはちょっと期待したよ。そしたらがっかり、年末の特番で勢いに乗れず滑ってたのが印象的だったとばっさりさ」
そのうち、義兄は姉と飲む機会を持つようになったという。
「ナホちゃんはホントぐでんぐでんになるまで飲んじゃうんだね。どうしてそんなことするのさって訊いたら、自分を試してるんですだってさ。そっからナホちゃん、自分の家のことをガーっとはなしたわけ。もともと居酒屋に応募したのも、アルコールに近づきたかったからみたいだね。それで分かったんだ。ナホちゃんにとっての神さまは俺にとってのサトウキビだったんだって。だから俺さ、自分のこと話したんだ。家出とか相方の話ね。それで最後に訊いたわけ。僕にはコーヒーが見つかったけど、ナホちゃんはそうやってくだを巻いて何か見つけられるのかいって。お説教ですか、なんて言われたけどさ。そのあと続けて『わたし、居酒屋には落ちたけど、結果としていまの店に会えたのはよかったと思ってます』なんて言うんだな。『わたしも接客やコーヒーの奥深さに気づけましたから』って。そりゃ嬉しいけどさ、正直言うと、僕はそこで『店長に出会えましたから』みたいな台詞を期待したわけだな。その頃にはすっかり彼女にまいってたからね。ああ、もうこんな時間か。長いこと話しちゃってごめんね。別に何か訴えたかったわけじゃないんだ。ただまあ、ナホちゃんにも言ったとおり、何かをはじめるならきっかけは何でもいいわけだな。サトウキビでも神さまでも」
きっかけは何でもいい。その言葉がなぜか心に残った。
※※※ ※※※
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます