20
「俺、高垣さんって絶対家にパソコンが何台もあると思ってたんすよね」
立花がそんなことを訊いてきた。
「なんで?」
「いや、パソコンじゃなくてもいいんすけど。ジグソーパズルとかプラモデルとか、あとは熱帯魚とかでもいいけどとにかくそういうのっすね。一人っきりでしこしこ作業できるものが飾ってあるもんだと思ってたんす。それが来てみたら本ばっかりでびっくりしました。意外と文系だったんだんすね。それより飲まないんすか?」
「未成年だから」
僕はさばを読んだ。
「真面目っすねー。俺なんて十歳から飲んでますよ」
立花はけたけたと笑う。二本目のボトルを開けてグラスに注ぐとそのまま一気に飲み干した。なんとなく目が据わりはじめている気がする。立花は酔ったらブルース・リーになるという宮下の話を思い出して不安になってきた。
「これ、高垣君が描いたの?」
相原が姪のくれた絵を手にして言った。
「いや、姪がくれた」
「高垣君、おじさんなの」
「何でびっくりするんですか」
「なんていうか、高垣君も人間なんだなって」
「何だと思ってたんです」
「え、ほら。宇宙人の可能性もあったから」相原は笑った。「それより飲まないの?」
「一滴でぶっ倒れますから」
「えー、ぶっ倒れる高垣君、見たい」
相原も確実に酔いが回ってきている。けれどこの二人はまだいい方だった。問題は宮下だ。グラス二杯でへろへろになり面倒な絡み方をしてくる。
「高垣君ー」
「何ですか」
「会社を興そう」
「は?」
「だから、会社を興すんだよ。迫り来る電子化の波から紙文化を守るべく防波堤を打ち立てんのよ」
「何の会社なんですか」
「とにかく紙にかかわることならなんでも。それこそ文房具とか出版とか、手広く手がけるよ。高垣君にはもちろん副社長の椅子を用意するからさ。ねえ、やろうよ、起業。まずは祝杯だ。ほら、飲んで飲んで」
「けっこうですから」
酔っ払いというのは、素面の人間にアルコールを勧めずにはいられないらしい。まるでゾンビか吸血鬼だ。僕は同僚の誘いをかたくなに拒んだ。自分でもどうしてそうまで頑なになるのか分からない。僕は姉のように簡単には、一線を越えることができないらしい。
「一発芸やります」立花が急に立ち上がって宣言した。「ワンインチパンチ」
「待て……」
止めなければという本能が働いた。ワンインチパンチというのが何を意味するか分からなかったが、「酔ったらブルース・リーになる」というのが本当ならどんな惨状を招くか分からない。僕だって酔拳くらいは知っていた。しかし、素面の僕よりもブルース・リー立花の方がよっぽど動きが早かった。僕が立ち上がる頃には、立花は押入れの襖を神妙に見つめながら間合いを詰めており、僕が彼に向かって足を踏み出す頃には、至近距離から繰り出された彼の拳が襖を貫いていた。
「立花君、すっご」
「痛くねーの、それ?」
「全然」立花はにかっと笑った。「いや、ちょっと痛いっすけど。それより今度は宮下さんの番っすよ」
「俺ぇ? 無理だよ。何もないもん」
「取っておきのがあるじゃないっすか」
「取っておきって何だよ」
「いやだなあ、宮下さん。アレっすよ、アレ」
立花がそこまで言うと、宮下の背筋がすっと伸びた。「馬鹿、あれはこの前失敗しただろ」と慌てたように言う。
「宮下さん、失敗は成功の母って言いますよ」
「できないものはできないの。それに見て楽しいものじゃないって絶対」
「えー」
「立花君。しょうがないって。宮下さん嫌がってるし。いじめるのはかわいそうだよ」
「相原さんは見たくないんすか」
「うーん、それは気になるよ。でも、こういうのはやっぱり本人の意思が……」
相原はちらと宮下を見た。「無理はしなくていいですよ」と同時に「宮下さんには最初から期待していませんから」というニュアンスも含ませた絶妙の表情だった。
「俺、やる」
宮下は言った。
「マジッすか。宮下さん」
「男に二言はない!」
「かっけー。じゃあ早く早く」
「分かった。高垣君。割り箸ある?」
「台所に」
「オーケー」と台所に向かっていく宮下に、僕は底知れぬ不安を覚えた。取っておきの芸というのが何か分からないが、ろくなものであるはずがない。
「二人とも、びっくりすると思うな」
立花がニヤニヤしながら言った。勢いよく戻ってきた宮下の手にはしっかり割り箸が入った紙袋が握られている。
「レディース・アンド・ジェントルメン」宮下は高らかに言った。紙袋を勢いよく破り、中から出てきた割り箸を高く掲げる。「これよりわたくしリョウヘイ・ミヤシタによる割り箸割りをごらんにいれます」
僕は宮下がやらされようとしていることに思い至って愕然とした。アレは幼い頃、家族でテレビを見ていたときだ。その「割り箸割り」なる一発芸が披露された瞬間、母親はリモコンでチャンネルを変えてしまった。無理もない。男の汚い尻が割り箸を真っ二つに割る映像など誰が見たいだろう。
アレをこの部屋でやろうというのか。冗談じゃない。笑っている立花も立花だし、本気で止めようとしない相原も相原だが、これから磔にされるキリストのように神妙な顔でズボンを下ろそうとしている宮下も正気ではない。
「ちょっと」僕は声を上げた。「何しようとしてるんですか」
「高垣君。止めてくれるな。いま俺の男が試されているんだ」
「そんなことで試さないでください」
「いいじゃない、高垣君」相原が笑いながら言う。すでに顔が赤いにもかかわらず、まだ飲み足りないらしい。グラスに薄桃色の液体を注いでいる。「宮下さんも乗り気だよ」
「何をするか分かってるんですか?」
「よく分からないけど」相原はしらを切った。「でも、ちょっとくらいはめを外してもいいじゃない。わたしたちも酔ってるんだからさ」
「高垣さんも飲めばいいんすよ」立花が横から口を出した。「そうしたらそんな目くじら立てたりしなくなるっすから」
「そうだぞ、高垣君」なぜか宮下までもが彼らに加勢する。その前に、ずり落ちそうになっているズボンをどうにかしてほしい。「一緒に酔っ払おう」
「僕は酒なんて……」
「ねえ、高垣さん。俺たちは高垣さんと友達になろうとしてんすよ?」
「そんなこと頼んでない」
「頼んでないってそれはないよ、高垣さん」
どういうことだ。僕の疑問に答えたのは相原だった。
「たしかに口では何も言わなかったよね。高垣君、シャイなんだもん。だから、あんな遠回りな方法で仲良くしようって言ってきたんでしょ?」
相原はやはり酔っているのだと思った。でなければこんなことを言うはずがないと。
「何の話……」
「住所とか、メアドとか高垣君が自分から教えてくれたんだよ。職場で保険証をこれ見よがしに置いていったり、メアドを書いた紙を置いたり……」
覚えがなかった。最近、保険証を失くしたことがあっただろうか。メールアドレスを紙に書いて検討したのは職場だったのだろうか。それとも誰かが僕の財布から保険証をすりぬいたり、アドレスを書いたのだろうか。けれどいったいどうやって、何のために? それに、篠塚から聞いたという話はなんだったんだ。
「みんな、高垣君がきっとかまってほしいんだって思ったんだよ」
「違う。そんなことやってない」
「あんまりいたいたしいから、かまってあげたんすよ」
「余計なお世話だ」
全部、アルコールが悪いのだ。僕はそう思うことにした。相原も立花も自分の主観と事実を取り違えてしゃべっているのだと。
「ひどいなあ。ぜんぶ高垣さんのためだったのに」
「知ってるよ。ホントは二二歳なんでしょ。高垣さんも飲みなよ。付き合い悪いと損するよ」
「そうそう。そうだ、相原さん、俺が高垣さんを押さえるから飲ませちゃってください」
「やめろ」
僕の抵抗はしかし、立花の長くしなやかな腕によって封じられた。背後から伸びた腕がジェットコースターの固定具のように僕をがっちりと押さえつける。立花が背後から「ほら、一気。一気」と煽り立てると、僕の耳元を彼の湿った息がかすめた。前方からは僕のグラスを持った相原が近づいてくる。
「飲んだことないんでしょ? 一気はまずいから、まずは半分ね」
相原はげらげら笑いながら僕の口にワインを流し込んだ。冷たいしずくが零れてあごを伝う。フルーツの芳香が口いっぱいに広がり鼻から抜けていく。それが最後の記憶だった。
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