22

 あてもなくほっつき歩いていると雨が降り始めた。関西地方の梅雨入りが発表されたのはつい三日前のことだった。天気予報には当然気を配っていたのだけれど、降水確率二〇パーセントというから油断して傘を持たずに出てしまった。道行く人がぽつぽつと傘の花を咲かせる中、僕は開店準備中の居酒屋のひさしに飛び込み、雨が止むのを待つことにする。


 コンビニに飛び込んでビニール傘を買おうか。けれど、そのお金で一日分の食費になってしまう。飢えるよりは濡れた方が良いだろう。そう自分を納得させて糸のような雨を眺めた。雨は嫌いじゃない。湿った土の匂いは記憶の奥底に眠る懐かしい何かをくすぐるような気がする。


「やっち?」


 声が聞こえたのはそのときだった。誰かなんて問う必要もない。僕をこんなけったいなあだ名で呼ぶのは一人しかいないのだから。


「やあ」


「やあじゃないよ。傘は?」


 姉は赤い傘の下に未来と並んで立っていた。


「高いからさ。節約」


 姉は呆れたという顔をする。


「そんなに金欠なの? 傘くらい買ってあげるけど」


「いいよ。そんなに困ってないから」


「遁走先で新しい職場を見つけたの?」


「まあね」


「今度から引っ越すときくらいは連絡してよ。急にいなくなってびっくりしたんだから」姉は言った。「じゃあ、いったん家に帰ってもう一本傘持って来るからここで待ってて」


「うん」


「じゃあ、未来。おじさんに傘持ってくるよ。って、未来?」


 未来がこちらに走ってきた。姉から僕のいる庇までは五メートルと言ったところだが、四歳児の小さな体をずぶ濡れにしてしまうには十分な距離だった。勢いあまって衝突しそうになるところを、肩を抑えて止める。未来はそのまま僕の横に並び、驚きのあまり口が半開きになっている姉に向かって言う。


「一緒に待つ」


 こういう状況なら、僕も迷わず言える。


「ありがと」


 未来は「うん」とうなずく。


「もう、返ったらシャワーだからね」と言う姉に未来は「うん」と答えた。雨を拭ってやれるものはないとポケットを探るが、一人暮らしの若い男にハンカチの常備を期待するのは無茶というものだ。こういうことは若い母親の方がよっぽどしっかりしている。未来は姉から持たされているのであろう小さいハンカチで顔を拭いていた。

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