18
土曜の昼過ぎ、近場のスーパーに出かけると、線路沿いの通りに植わった桜が満開になっていた。通りは花見の客でいっぱいだ。シートの上で寝転がっている場所取りの男もいれば、カラオケの機材を持ち込んで赤ら顔で歌っているおじさんもいる。世の中にはきれいなものに小便を引っ掛けて台無しにしなければ気がすまない連中がいるのだ。
「あれ、やっち君?」
特徴的なバリトンの声が特徴的な呼び方で僕を呼んだ。シャツの上にきこりのようなベストを着た義兄が立っていた。両手にはビニール袋を提げている。
僕は軽く会釈した。
「やっち君も買い物の帰りかい?」
「ええ、まあ」
「よかったら、店でコーヒーでも飲んでいかないかい」
義兄の店は駅前のけっこういい立地にある。コーヒー豆の形をした看板に店の名前が書かれていた。店の表に立ったブラックボードには、看板メニューであるホットサンドの写真が貼られていた。それまでにも何度か訪れたことがある。けれど、姉を伴わず一人で義兄に相対したのは数えるほどしかなかった。
カウンター席に座った僕の前で、義兄はサイフォンをセットしコーヒーをいれはじめる。
「いつも未来がお世話になっているね」
義兄は抽出されたコーヒーをカップに注ぎ、僕の前に差し出した。
「別に。手のかからない子ですし」
「そうだねえ。むしろ、まだ小さいのにいろいろと我慢しすぎてるんじゃないかと心配になることがあるよ」
「大丈夫なんじゃないですか。一人が好きな子供もいますし」
「やっち君がそうだったりしたのかな」
「そんなこともなかったと思いますけど」
それからしばらく沈黙が降りた。新たに客が入ってくる気配もない。僕はコーヒーをことさらゆっくりすすることで、間を持たせた。こういうとき、喫煙者ならば煙草でいくらでも間を持たせることができるのだろう。
「自己紹介でもしようか」
義兄が唐突に言う。
「はい?」
義兄はそんな僕にかまう風でもなく 「表と裏、どっち?」などとさらに唐突に重ねてくる。とっさに「表」と答えると、義兄はエプロンのポケットからなぜか一ドル硬貨を取り出し、それを指で上に弾いた。
一ドル硬貨は空中で照明を反射してピカピカ光りながら回転する。義兄はその落下予測地点に手の甲を待機させている。一連の動作はあまりにも自然で、てっきりこういうことに慣れているのだと思ったのだけれど、義兄は一ドル硬貨をキャッチしそこね床に落としてしまった。静かな店内に、義兄の「あ」という間の抜けたバリトンと金属的な音が響く。
「ごめんごめん。今日はできると思ったんだけどなあ」
義兄はその後何回か失敗を繰り返し、挑戦の度にどんどん高度が下がっていく一ドル硬貨をついに捕らえたのは四回目の挑戦でのことだった。
「表、だね」
彼の手の甲に乗った一ドル硬貨を見ると、何代目だかのアメリカ大統領の顔がデザインされた面が上になっていた。義兄によると、こちらが表ということになるらしい。
「やっち君の勝ちだね。ということで今日は僕が自己紹介するわけだ」
どうやら、義兄の中ではそういうルールだったらしい。そうならそうと最初から言ってほしいが、きっとなんのかんのと理由をつけて話を聞かせたかっただけなのだろう。義兄はおしゃべりだ。彼が鹿児島の離島から大阪に出てきて喫茶店の店長に収まるまでの身の上話を長々と話す間、僕はコーヒーを四杯も飲まされるはめになった。
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