17
長い日曜が明けると、いつも通りの一週間が始まった。僕は文房具をカートに突っ込み、食堂で安いパンを食べ相原や立花と話した。立花は相変わらず変なメールを送ってくる。宮下はあまりメールを送ってこなかった。家には誰も来ない。まるで潮が引いていくようだ。住所やメールアドレスが流出したのは気味が悪いが、だからといってそれがこれ以上の脅威になることもありそうにない。ちょうどそんなことを思いはじめた頃、篠塚さんと話す機会が訪れた。
その日、僕は脚立に上って一番上の棚からアルバムの箱を取ろうとしていた。アルバムが詰まった箱は思った以上に重く、僕はバランスを崩さないようにして脚立を一段一段降りた。そこに篠塚さんが立っていたのだ。
「これ?」
僕が訊くと、篠塚さんはうなずいた。肩まで伸ばした黒髪が垂れる。小ぶりな鼻にちょこんと乗った眼鏡はファッション性という言葉から最も縁遠く見える。
どうしよう。僕の情報をどこから仕入れたか訊くべきか。僕は思案した。篠塚さんとこうして接触の機会を持つのははじめてのことだった。彼女はいつも定時には真っ先に姿を消してしまうし、何時ごろ休憩に入っているのかも知らない。いつも倉庫の中にいるような気がするし、いつもいないような気もする。幽霊のように曖昧な彼女を捕まえるならいましかないかもしれない。僕は彼女に猫の写真がプリントされたアルバムを渡しながら考えた。
「ぬこ、かわいいですよね、ぬこ」
僕が口を開きかけたところで、篠塚さんが言った。彼女の方から話しかけてくるとは予想しなかった。それにしてもこの人、いま「ぬこ」って言ったのか?
「そうですね」
「犬もいいんですけどね。でもかわいさの種類が違うんですよね。ぬこはこう……膝の上に乗っけてかわいいかわいいしたくなるんですけど、犬は思いっきり腹を蹴り上げたくなる」
篠塚さんは自分の口から出てきた言葉に、自ら驚いているようだった。僕は面食らいながら聞いていた。うっかり「そうですね」と同じ相槌を繰り返してしまったが、僕には動物虐待の趣味なんてない。
「なんて言うんですか? ぬこは人を従者に変えますけど、犬は人を暴君に変えるんですよね」
彼女はしゃべり続けた。まるで僕を近づけまいとするかのように。
「あ、変なこと言ってすみません。じゃあ」
篠塚さんはアリバイ作りを終えた犯罪者のようにすっきりした顔で言った。あっけにとられていた僕だが、逃がすわけにはいかない。彼女がカートを押し始めたところで「あの……」と声をかけた。続く言葉を考える必要はなかった。篠塚さんが途中でさえぎって話し始めたからだ。
「わ、わたし、全然関係ないですから」
「はい?」
「相原さんたちに何を言われたか知りませんけど、わたし全然かかわってないんです。ホントです」
篠塚さんは明らかに動揺していた。やけに早口になっているし、目線もきょろきょろとして決してこっちを見ようとしない。いくら予想していた答えでも、こうもあからさまだと僕も真意を測りかねてしまう。
「すみません。わたし急がないと……」
「はい?」
篠塚さんは言うだけ言うと、まるで突如意思を持ったカートに引っ張られるようにして早歩きでその場を去り、あっという間に僕の視界から消え去ってしまった。
なんだったんだろう。アルバムの表紙にプリントされた猫は気持ちよさそうにまどろむばかりで何も答えてはくれない。
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