6

 週末、僕は約束どおり姉の家を訪れた。姉のマンションは自転車でものの数分のオフィス街にあった。義兄が経営する喫茶店はそこからものの数分だ。


「じゃ、ちょっと行って来る」


 姉は特にめかしこむこともなく、ラフな格好で出かけていった。家には僕と未来だけが残された。


 姪の未来は今年で四歳になる。体は四歳児としては大きい方らしいが、その年代の子供とかかわりがない僕にはよく分からない。口数が少なく、僕が彼女について知っているのは絵を描くのが好きということでその日も僕が来たときにはすでに黙々と絵を描いていた。ラベルがぼろぼろになったクレヨンを握り、画用紙にこすりつける。彼女の脇に重なった画用紙の一枚には魚と思しきシルエットが色鮮やかに描かれていた。そのモデルには見当がつく。僕は子供部屋の一角に設けられたラックの上を見やった。そこには砂利が敷き詰められた小型の水槽があり、一匹のベタがひれをなびかせながら優雅に泳いでいた。名前は「アンコウ」。テレビの深海魚特集を見て「アンコウが飼いたい」と駄々をこねはじめ、ハンガーストライキまで敢行した未来をなだめるため姉と義兄が贈ったものらしい。いまは未来も彼(あるいは彼女)がすっかり気に入り、こうして絵のモデルにしたり、自ら進んで世話を手伝っているという。


 僕は持参した本を読み始めた。未来はおとなしい子だから、いつも特別な注意は必要ない。背中を向け合わせてお互いの趣味に没頭する。そうして流れていく時間には、アパートに一人でいるときや、倉庫の中を機械のように動き回っているときともまた違う独特の質感がある。一人でいられる心地よさとは別の、やわらかい何か。高級なソファに背を預けるようなその感覚が、僕は嫌いではない。


 しばらくすると、裾を引っ張られるのを感じた。


 振り向くと、姪が僕に向かって画用紙を広げて見せた。黒と肌色。色の配置からどうやら人の顔だ。以前、姉から未来が描いた絵の画像が送られてきたことがある。姉を描いたものだ。姉は口を大きく開けて笑っていたが、僕がいま目にしている人物は口を真一文字に引き結んでいた。いったい、誰を描いたのだろう。この子の父親は仕事柄かとてもにこやかな人なのだけれど。


「おじさん」


 姪が言った。なるほど。この仏頂面は僕だったらしい。


「似てるね」


「うん」


 こういうときはお礼を言うべきなのだろうか。よく分からなかった。


 それから姉が帰ってくるまで、再び沈黙が続いた。買い物袋を抱えて帰宅した姉は姪の描いた絵を見せられるとなぜか噴き出した。


「似てない?」 


 姪が心配そうに訊くと、姉は「似てる似てる。あんまりそっくりだから驚いちゃった」とあわててフォローを入れた。


「はい、これお土産」


 そう言って姉は鞄からペンギンのぬいぐるみを取り出した。未来はそのぬいぐるみを両手で受け取ってじっと眺める。


「アデリーペンギン?」


 未来が訊いた。彼女は生き物図鑑の熱心な読者だった。


「さあ、 特にどの種類っていうのはないんじゃない?」


 未来はしばらく悩む表情を見せた後、そのぬいぐるみに「新種」という名前を与えた。


「やっちは今日も食べていくんでしょ?」


 これは答える必要のない質問だった。姉は、僕が来るときはいつも四人分の材料を買ってくるのだから。姉が買ってきたばかりの肉や野菜を並べて調理に取りかかると、僕はとっくに読み終わった本をまた最初のページから読み始めた。次第にキッチンから肉の焼ける音が聞こえくる。


「やっち。皿、出してくれる?」


 僕は席を立って、姉の支持するとおりやや大きめの皿を四枚重ねてテーブルに置いた。


「別に驕って言うわけじゃないけど」


 姉が皿にハンバーグを並べながら言う。


「うん」


「よく、独り立ちして初めてお母さんのありがたみを知るって言うじゃない」


「言うね」


「でも、うちの場合は逆よね。どれだけ手を抜いていたか分かる。少なくとも料理に関してはそう」


「まあね……いつもおかず一品とかだったからな。量は多かったけど。手作りのハンバーグなんてまず出なかった」


「お母さん、ハンバーグ食べたことないの?」


 いつの間にか、リビングに出てきていた未来が訊いた。


「滅多に出なかっただけ。うちではごちそうだったの」 姉があわてて答えた。それから僕にだけ聞こえるように、「未来に手を抜いてたなんて思われないようにがんばらないとね」

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