そして十二時の鐘は鳴った

猫柳蝉丸

本編

 鐘が鳴る。

 十一時四十五分の鐘。

 それと同時にシンデレラが僕の手から離れ駆けていく。

 離れていくシンデレラ。

 僕は追う。

 走り去っていくシンデレラを。

 けれど追い着けない。

 ガラスの靴を履いていてどうやってという速度で僕から離れていく。

 シンデレラ――明日香ちゃんが僕の手の届く場所から飛び立っていく。

 そして十二時の鐘は鳴る。

 明日香ちゃんに追い着けないまま、その後ろ姿すら見届けられないままに。

 僕はずっとそうして明日香ちゃんの姿を見失っているのだ。

 何度も、何度も、気が遠くなるほどに。

 ずっと。



     ★



「また駄目だったな……」

 豪勢で柔らかなベッドの中で目を覚まして呟く。

 これで何度目になるだろう。

 両手の指の数ではとても足りないくらい、僕は同じ事を繰り返している。

 僕は日本人だ。二十一世紀、令和の時代に生きている極一般的な高校生……のはずだ。

 けれど、僕は今こうして王宮の広大な部屋の豪奢なベッドの中に身体を横たえている。

 今じゃないか。気が遠くなるほどの時間、僕はこの王国から足を踏み出せていない。

 ついでに言えば同じ一日からも足を踏み出せていない。

 今日は王宮での舞踏会の日。様々な人を招いて開かれる豪勢な舞踏会の日、単なる高校生であるはずの僕は何故か王子様になっていて、その同じ舞踏会の日を何度も何度も繰り返している。十二時の鐘が鳴ると同時にその日の朝に舞い戻ってしまう。簡単に言えば近年どころか既に古典の域に達している無限ループに囚われてしまっているというわけだ。

 無限ループ。令和になってしばらく経つのに何て古典的な現象なんだろう。

 単なる無限ループならまだよかった。

 その無限ループはこれまた何故かシンデレラの作品世界の中で起こっているらしい。そして、『シンデレラ』の作品世界で僕は何故か王子様になっている。無限ループの上に異世界転生ってわけだ。ライトノベルのお約束のてんこ盛りで何だか笑える。いや、笑えたのは最初の三度のループくらいだ。三度も繰り返すと流石に洒落にならない状況である事を嫌が応にも理解させられてしまったわけだけど。

 どうして『シンデレラ』の作品世界なんだ? とは思わなくもない。

 別に『シンデレラ』自体は嫌いじゃないけれど、僕との接点が思い浮かばない。

 ただ単に僕が『シンデレラ』の無限ループ世界に無作為に選ばれただけなんだろうか?

 これまで何十回も考えてきた事だけど、今回もその答えは出せそうになかった。

 そろそろ時間切れなのは何十回と繰り返して来た経験で分かっている。

「王子様、ご朝食の準備が整いました」

 扉の外から厳かな声が響いてくる。僕の、と言うかこの国の王子のじいやの声だ。

「分かってる。今行くよ、じいや」

 僕は豪勢なベッドから足を下ろして声を張る。これ以上考えていてもしょうがない。しょうがないと思うしかない。とりあえずは食べ飽きた朝食で栄養を摂って、繰り返す今日一日について思いを馳せるしかないのだから。



     ★



 僕がこの『シンデレラ』の作品世界に迷い込んだ経緯を詳しくは覚えていない。

 その日、いつも通り授業を終えた事は覚えている。

 それで特に予定も無かった僕は帰宅しようと家路に着いて、お隣の明日香ちゃんと顔を合わせたはずだ。そこで僕と明日香ちゃんがどんな話をしたかまでは覚えていない。ひょっとしたら単に挨拶をしただけなのかもしれない。とにかく僕は明日香ちゃんと何らかの話をして、気が付いたら僕は王子様の部屋の大きなベッドに寝転がっていた。寝転がっていた……はずだ。

 何十回も繰り返しているせいか記憶が曖昧だ。自分が本当に令和の日本の高校生なのか自信が無くなって来そうな程に、僕が高校生であった頃の記憶が希薄になり始めている。とにかく高校生だったはずだと仮定して話を進める事にする。

「どうかなさったんですか、王子様?」

 僕の腕の中で踊るシンデレラが不安そうに僕の顔を覗き込む。

「君の踊りに見惚れていただけだよ、シンデレラ」

 歯の浮く様な気障な台詞も慣れたものだった。

 何十回も繰り返しているんだ、これくらいの台詞は簡単に言える。

 頬を紅く染めるシンデレラの姿を見て、僕は吹き出しそうになってしまう。何十回繰り返してもこれだけはどうしても慣れない。だってそうじゃないか。僕が王子様役でシンデレラ役が明日香ちゃんだなんて小学校のお遊戯会ですらやった事が無いんだから。

 どういう因果関係なのかは分からないけれど、このシンデレラの作品世界では、そのキャスティングが僕の知った顔の中から選ばれているらしかった。シンデレラはお隣の明日香ちゃん。シンデレラの義理の姉の二人は僕の姉ちゃんと妹の由美。シンデレラの継母は明日香ちゃんのお母さんの美佐子さん。王様と女王様はそのまま僕の父さんと母さんで、じいやは明日香ちゃんのお父さんだった。その適当過ぎるキャスティングには毎回笑わされてしまう。そのおかげでこの繰り返す世界に飽きずにいられる利点もあるけれども。

 それにしても笑わされてしまうのはやっぱり明日香ちゃんの姿だ。髪が短くて活発で、陸上部のエースで色黒の明日香ちゃんがシンデレラに配役されるなんてどう考えてもどうかしてる。こんなヒラヒラなドレスを着て、ガラスの靴まで履いて、どう考えてもミスマッチだ。他にいいキャストが居なかったんだろうか。まあ、シンデレラ役に姉ちゃんや由美、母さんなんかが振り分けられても困るんだけど。

 ただ見る限り明日香ちゃんなのは外見だけで、中身はそのまま作品のシンデレラの人格そのままらしい。明日香ちゃんは僕に気障な台詞を言われてもこんな風に頬を染めたりしない。絶対にしない。自分で言っていて少し悲しくはあるけれど。

 僕は明日香ちゃん――シンデレラと踊りながら考える。踊りだって慣れたものだ。何十回も同じ舞踏会をこなしていれば、簡単なステップくらい考え事をしていたって朝飯前だ。とにかく考える。

 この作品世界は僕に何をさせたがっているのだろうかと。

 最初は『シンデレラ』のストーリーを再現させたがっているのだと思った。よくある話じゃないか。何らかの理由で王子様を失ってしまった作品世界が代役を立てて既存のストーリーを再現させようとするなんて、手垢が付き過ぎるほど語られてきた無限ループ系の基本パターンだ。

 だから、十回ループするくらいまでは昔読んでもらった『シンデレラ』の記憶を辿って、同じストーリーを再現しようとした。自分で言うのも何だけれど十回目くらいの僕の王子様っぷりは堂に入っていたと思う。外見はともかく立ち振る舞いは『シンデレラ』の王子様そのものだったはずだ。

 それでも、僕はこの作品世界の無限ループから脱け出す事は出来なかった。

 何が悪かったのか、何が間違っていたのか、それが分からないままに僕はパターンを変えてこの作品世界に挑んでもみた。例えばシンデレラじゃなくてシンデレラの義理の姉の方と踊ってみたり、あえて王宮から脱け出そうとしてみたり、ひょっとしてシンデレラに魔法をかけた魔法使いに何か秘密があるのかと思って探してみたり。本当に色々試してみた。それでも僕はこの無限ループに囚われたままだ。

 ひょっとして僕は永久に無限ループに囚われたままなのか。

 そう考えて絶望しそうになりながらも振り払う。いや、まだだ。必ず何かこの世界から脱け出す為の方法があるはずなんだ。例えば、そう、僕はまだこの作品世界で魔法使いの姿を見掛けた事が無い。『シンデレラ』の王子様と魔法使いが顔を合わせる機会なんて無かったはずだから当たり前かもしれないけど、何せ魔法使いなんだ。探してみれば何かを知っていそうな気がしないでもない。

 そう考えて舞踏会中に魔法使いの姿を探してみてもう五回目のループになるけれど、僕はまだ魔法使いの姿を見つけられていない。そして、どうやら今回も見つけられそうになさそうだ。ほら、聞こえてくる。十二時の鐘の前に慣らされる十一時四十五分の鐘の音が。シンデレラが僕の手の中からすり抜けて駆け去っていく。

 僕はそれを追う気力も無い。

 そして十二時の鐘は鳴る。



     ★



 ――くん。

 ――ねえ――純くん――おくれ。

 ――だから。

 ――純くん……。



     ★



 瀟洒なベッドの中で目を覚まして、思う。

 ループを繰り返す中でたまに頭に響く声の持ち主は誰なのだろうと。

 途切れ途切れで、ただ僕の名を呼ぶ誰かの声。

 魔法使い?

 それとも他の誰か?

 何処かで聞いた声のような気はしている。

 聞きたかった声だったような気も。

 あの声は、確か……。

「王子様、ご朝食の準備が整いました」

 扉の外から厳かな声が響いてくる。この国の王子のじいやの声が。

 それだけであの懐かしい声は遥か遠い記憶の彼方に消え去ってしまう。

 これも何度繰り返しただろう。

 分からないまま、僕は食べ飽きた朝食を摂る為にベッドから足を下ろす。



     ★



 舞踏会の準備がある事は分かっていたけれど、僕は体調が悪いと言って部屋の中で眠らせもらう事にした。どうせ何をやっても繰り返されるんだ。たまにはこういうループがあったっていいだろう。何かしたい事があるわけでもないけれども……。

 ベッドに寝転んで高い天蓋を見つめながら、考える。

 どうして他の誰でもない僕がこの作品世界に迷い込んでしまったのだろうと。

 無作為に選ばれたのかもしれないけれど、それにしたって条件の一つや二つくらいはあるはずだ。例えば『シンデレラ』が好きで好きで仕方が無い少年だとか、王子様に憧れている高校生だとか。まあ、残念ながら僕はそのどちらにも当てはまらないんだけど。

 それでも何か一つはあるはずなんだ、僕が『シンデレラ』の世界に選ばれた原因が。

『シンデレラ』……、そう言えば子供の頃、明日香ちゃんのおばさんに絵本をよく読んでもらってたな。母さんが読み聞かせの苦手な人だったからおばさんに頼んでたんだっけ。おばさんの読み聞かせが上手で、明日香ちゃんと一緒に楽しみに聞いてた記憶が微かに残っている。

 そうそう、明日香ちゃんと『シンデレラ』についてもよく語り合った。お遊戯会ではやれなかったけれど、僕が王子様役で明日香ちゃんがシンデレラ役。姉ちゃんと由美がシンデレラの義理の姉の役で内輪で演劇まがいの事をやったりして……。

 あれ?

 待てよ。この配役、今の『シンデレラ』の作品世界と一緒だよな?

 ここに何か意味があるのか?

 分からない。単なる偶然の一致かもしれない。どんな意味があるかも分からない。

 いや、きっと気のせいだ。これまで何度も無意味な共通点を見つけてはぬか喜びしてたんだ。今回もたまたま子供の頃の記憶と作品世界の配役との共通点を見つけて嬉しくなってしまっただけなんだ。そこに何の意味も無いのに。

 そうに違いない。違いないんだ……。

 そう思いながら、考え疲れた僕はいつしかベッドの中で眠りに落ちていた。



     ★



 明日香ちゃんと僕は幼馴染みだった。

 同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校、同じ高校、このままずっと一緒なんだと何となく思っていた。それは嫌な事じゃなかったし明日香ちゃんも別に嫌じゃなかったはずだ。それくらいには僕と明日香ちゃんは想い合っていた。

「将来は明日香と純くんが結婚してくれるとあたしも嬉しいよ」

 なんて明日香ちゃんのおばさんもよく笑っていたものだった。

「私が純なんかと結婚するわけないでしょ」

 澄ました顔で反論する明日香ちゃんの姿ですら満更じゃない。

「当然だよ、僕だって選ぶ権利があるんだから」

 満更じゃない気分で軽い憎まれ口を叩いてみせる。

「純のくせに生意気!」

 明日香ちゃんのアイアンクローが僕を襲うけれど痛くなんかない。

 痛さより楽しさの方がずっと大きい。

 明日香ちゃんとずっとこうして楽しく笑い合っていたいと僕は思っていた。

 だって、そうすれば僕達はずっと……。

 けれど、その願いが崩れるのはあっと言う間で突然だった。

 普段通りに授業を終えた放課後、僕は見掛けてしまったのだ。

 明日香ちゃんが陸上部の男子部員と手を繋いで歩いているのを。

 曲がりなりにも高校生なんだ。それが何を意味するのかはよく分かっていた。

 ショックだった。

 明日香ちゃんが僕の見た事が無い顔をしているのが。

 明日香ちゃんが僕の近くから離れて行ってしまうのが。

 いつまでも昔通りの僕たちで居られないのが。

 だから……、だから、僕は……。

 そして僕はベッドの中で十二時の鐘の音を聞いた気がした。



     ★



 ――純くん……。

 ――目を覚まして、純くん……。

 ――あの時はごめん……。

 ――謝るから、何度でも謝るから……。だから……。

 ――お願いだよ、純くん……。



     ★



 僕は今回のループでもシンデレラと踊っている。

 明日香ちゃんの顔をしたシンデレラと踊っている。

 このシンデレラは明日香ちゃんじゃない。そんな事は分かり切っている。

 シンデレラと踊る必要だって無い。だって何をしたって世界はループするんだから。

 それでも僕はシンデレラと、明日香ちゃんと踊りたかった。

 この手の中から離れてほしくなかった。

 ずっとずっと僕と一緒に笑い合っていてほしかった。

 もしかしたら……、もしかしたら僕の方がこの世界を求めているんだろうか?

 僕の方が明日香ちゃんと離れたくなくて、『シンデレラ』の世界をループさせているんじゃないだろうか?

 その思い付きは僕の心をひどく動揺させた。

 だとしたら、ひどく滑稽過ぎるじゃないか……。

「ねえ、明日香ちゃん」

 気が付けば口に出してしまっていた。

「王子様……?」

 明日香ちゃんは、いや、シンデレラは怪訝な表情を浮かべて首を傾げていた。

 当然だ。僕と踊っているのは明日香ちゃんの顔をしたシンデレラなんだから。

 それでも、僕は自分の言葉を止める事が出来なかった。

「明日香ちゃん。僕はね、明日香ちゃんとずっと一緒に笑っていたかったんだ。楽しかったよね、幼稚園の頃も、小学生の頃も、中学生の頃も、高校生になった今だってずっとずっと……。だからね、僕は明日香ちゃんとずっと一緒に居たかったんだ。笑っていたかったんだよ、姉ちゃんや由美も一緒に。昔みたいに……」

 十一時四十五分の鐘が鳴る。十二時の前の鐘が鳴る。

 魔法が解けるのを恐れたシンデレラが僕の手の中から脱け出そうとする。

 僕はそのシンデレラを抱き締めたまま離さない。

 強く強く、離さない。

 そうだ、『あの時』みたいに。

「離して下さい、王子様! 私は……、本当の私は……!」

「離さない……。離したくないよ、明日香ちゃん……!」

 いつしかシンデレラは抵抗をやめ、僕の腕の中でじっとその時を待った。

 そして十二時の鐘が鳴る。

 ああ、またこの感覚だ。

 僕が明日香ちゃんに本当の気持ちを伝えようとも、世界は変わらず繰り返す。

 それも当たり前かもしれない。シンデレラを抱き締めてみて、ようやく分かり掛けてきた。ようやく思い出し始めた。僕はまだ本当の気持ちに向き合い切れていない。その気持ちに向き合えたその時こそ、この僕の世界は新しい方向に動き始めるのだろう。その先に悲劇しか残されていないとしても。



     ★



 今更になって思い出した事がある。

 僕がこの世界に迷い込んだ原因の一つだ。

 明日香ちゃんから離れたくなくて、シンデレラを抱き締めて、思い出した。

 僕がこの作品世界に迷い込む前にも、僕のシンデレラを強く抱き締めていた事を。

 その時は拒絶された。

 強く強く抱き締めたのに、想いを伝えたのに、引き離された。

 僕がただ環境の変化に戸惑っているだけなのだと、単なる気の迷いなのだと諭されて。

 想いを否定された僕は泣きながら家に帰った。泣きながら何度も吐いた。

 それから、高校生だというのに家にあった姉ちゃんのアルコールをしこたま飲んだ。

 酔って何もかも忘れ去りたかった。この胸に抱き続けた恋心まで全部。

 いい気分なのか悪い気分なのか分からないまま、僕は外に出て河川敷を歩いて。

 そうして、足を滑らせた。

 そのまま川に落ちて、酔った身体ではろくに泳げもしないで、簡単に意識を失った。

 思い出すのも嫌になるくらい滑稽で馬鹿馬鹿しい理由。

 そんな下らない理由で、僕はこの『シンデレラ』の作品世界に迷い込んだのだ。

 勿論、僕一人でそんな芸当が出来るはずもない。

 ずっと僕を呼び掛けてくれている声のおかげで、僕はこうしてこの世界に居られる。

 それが、分かる。

 分かるからこそ、僕は次のループでこそ伝えなければならない、本当の気持ちを。

 今度こそ逃げずに。

 例えループから逃れられなくとも。



     ★



「どうしたんです王子様、こんな所にお越しになるなんて」

 その人が動揺した表情を浮かべるのを、僕は見逃さなかった。

 動揺するのも無理なかった。

 こんな事、『シンデレラ』の物語で起こるはずもないのだから。

 何度か王宮を脱け出して王国を彷徨ってシンデレラの家を見つけておいてよかった。舞踏会では落ち着いて話せそうにないし、何より僕の方から出向く事にこそ意味を持たせたかった。僕は今度こそ自分の足で歩き出さないといけない。どんな形であれ僕を助けてくれた恩返しの為にも。

「少しね、話したかった事があったんだ」

「あらあら、何でしょうかね」

「その前に少しここから離れないか。誰にも聞かれたくない話なんだよ」

「王子様がそう仰るのでしたらいい場所がありますわ。付いて来て下さいますか?」

「ああ」

 彼女に連れられ、僕は付近の河川敷まで無言で歩いた。

 奇しくもそこは僕が足を滑らせた河川敷に似ている気がした。

 いや、奇しくも、じゃないか。僕も、彼女も、きっとその場所をよく知っているのだ。

「それで、何のお話でしょうか、王子様」

 澄ました顔で訊ねられる。

 だけど僕は知っている。

 その表情の下に隠された、隠さなければいけなかった素顔がある事を。

「ありがとう」

「……何を仰っているのです?」

「演技はいいよ、もう。僕も堅苦しい言葉はやめるからさ」

「何を仰っているのか本当に私には……」

「似合ってないよ、そんな喋り方。僕はいつものざっくばらんな口調の方が好きだよ」

「な、何を言うんだい、急に……」

「そう、僕はその口調の方が好きなんだよ、美佐子さん」

「………………」

 シンデレラの継母――明日香ちゃんのお母さんの美佐子さんは静かに視線を下ろした。

 何を言おうか迷っているのかもしれない。構わない。十二時まではまだ時間がある。

 十分くらい待っただろうか。美佐子さんはおもむろに口を開いてくれた。

「いつ思い出したんだい?」

「前回のループでシンデレラ――明日香ちゃんを抱き締めた時に。思い出したんだ、明日香ちゃんじゃない誰かを現実の世界に居た時に抱き締めた事。抱き締めて、突き飛ばされた事。気の迷いだって諭された事。それが美佐子さんだって事もね」

「……純くんが足を滑らせて川に落ちた事も?」

「うん……。情けないよね、失恋で酔っ払って川に落ちて死に掛けるなんて。いや、今も死に掛けてる……でいいんだよね?」

「……そうだね。純くんはあっちの、現実の世界で意識不明になってるよ。肉体的には回復しているはずなのに意識が戻らないから皆心配してるよ、あっちのあたしもね」

「あっちの美佐子さんって言う事は、今僕が話してる美佐子さんは別なの?」

「あたしは……、あっちの美佐子の名残みたいなものさ。責任を感じてたんだよ、美佐子は。純くんに抱き締められた時に突き放しちゃったからね。そのせいで純くんが川で溺れたんじゃないかって気に病んで、気に病んで、もっと優しくしてあげればよかったって、純くんを救いたい一心でこんな世界とこっちのあたしまで創り上げちゃったんだよ」

「そっか……」

「純くんはいつあたしがこの世界の特異点だって分かったんだい?」

「たまにね、声が聞こえてたんだ。懐かしい、僕の好きな人の声が。『目を覚まして。ごめんなさい。あたしが悪かったから元気になっておくれよ』って。それでこの『シンデレラ』の世界の美佐子さんの事を思い付いたんだ、何か知ってる……、ううん、僕を救ってくれた張本人なんじゃないかって」

「僕の好きな人の声って……、まだそんな事を言ってるのかい? 純くんは明日香に彼氏が出来て戸惑ってるだけなんだよ。あたしゃおばさんだよ。純くんより二十歳以上も年上のね。純くんがそんなおばさんを本気で好きになるわけないじゃないか」

 美佐子さんは僕と目を合わさないように呟いた。まるで自分に言い聞かせてるみたいに。

 僕も言い聞かせてた。僕が明日香ちゃんと離れたくないのは明日香ちゃんが好きだからだって。明日香ちゃんと笑い合っていたいからだって。その気持ちに嘘は無いけれど、それよりも奥の方に本当の想いが隠されてるのも嘘じゃなかった。

 僕は勇気を出して、美佐子さんの手を自分の両手で包んで言った。

「確かに、ね。僕は明日香ちゃんに彼氏が出来てショックだったんだよ、美佐子さん」

「ほら、そうだろ?」

「違うよ、美佐子さん。ショックじゃないのがショックだったんだ」

「……どういう事だい?」

「明日香ちゃんに彼氏が出来て最初に思ったのは、これで明日香ちゃんの家に行きにくくなるなって事だったんだよ。明日香ちゃんの事が好きだったはずなのに、彼氏が出来た事自体にショックは無かったんだ。幸せになってほしいって思ったくらいなんだ。それがショックだった。自分が明日香ちゃんの事を恋愛的な意味で好きじゃなかったのがね。それでも悲しかったんだ。明日香ちゃんが居なかったら美佐子さんと会えなくなっちゃうから。美佐子さんと笑い合っていられなくなるから。それであの日、思い切って美佐子さんに告白しに行ったんだよ、僕は。美佐子さんと離れたくなかったから。無理矢理抱き締めてでも僕の気持ちを知ってほしかったんだ」

「な、何を言ってるんだい、純くんは……」

「美佐子さんは……、美佐子さんは本当はどう思っているの?」

「あたしは……そんな……」

「僕は小さな頃から美佐子さんの事が好きだったよ。今ならはっきり言える。僕は美佐子さんの事がずっと好きだったんだ。小さな頃から遊んでくれた事、『シンデレラ』を何度も読み聞かせてくれた事、道で転んだ時に抱き締めて慰めてくれた事、明日香ちゃんに失恋したと思って心配してくれた事、どれもはっきりと思い出せる。僕は……、僕はずっと美佐子さんの事が好きなんだ、今だって!」

「あたしゃ四十路のおばさんだよ……?」

「それでも」

「人妻で旦那の事だってちゃんと愛してるんだよ?」

「僕だっておじさんの事好きだよ。大好きなおじさんだよ。たまに釣りに連れて行ってくれたし、父さん以上に男同士の話が出来るのはおじさんだけなんだ。それでも、一番欲しいのは、何より好きなのは美佐子さんなんだよ」

「それで……だったんだね」

 何処か納得したように美佐子さんは呟いた。

「この『シンデレラ』の世界はあの世に逝きそうな純くんの霊魂を留める為に美佐子が無意識に創り上げた奇蹟の産物だったんだ。強い想いの力が産んだ奇蹟だったんだよ。美佐子と純くんの共通の思い出から創造された、ね。だから、純くんの身体と心が回復したらこの世界はすぐに消えてなくなるはずだったんだ。それでもいつまでも消えない上に純くんが目覚めなかったのはそういう事だったんだね。純くんの強い想いがシンデレラ役の明日香と結ばれる幸せな夢を拒絶してたんだ」

「言ったら悪いと思うけど、それは美佐子さんにも責任があると思うよ」

「どうしてそう思うんだい?」

「救ってもらった事には感謝してるし、美佐子さんにそこまで想われてたのは正直言って嬉しいよ。飛び上がりたいくらい嬉しい。でもね、お膳立てが過ぎるじゃないか。これでもかってくらい僕と明日香ちゃんを結ばせようとしてる。王子様とシンデレラとして。美佐子さんは僕を救いたいのと同じくらい、僕の恋心を諦めてほしかったんだろうね。今思うとそれが嫌で僕自身が無意識にこの世界をループさせてたんだ。僕と美佐子さんの二人の想いが創り上げた世界だから、僕にもそれくらいは出来たんだと思うよ」

「そうかも……、そうかもしれないね……」

 美佐子さんがその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

 僕もその隣に腰掛けて空を見上げる。

 目映いくらいの星空が僕たちの夢だなんて何だか勿体無い気がした。

「もう一度訊かせて、美佐子さん」

「ああ……」

「美佐子さんは僕の事をどう思っているの? 僕は本当の気持ちを伝えたよ。明日香ちゃんに彼氏が出来たからじゃない。明日香ちゃんとずっと一緒に居られないのがショックだったんじゃない。僕は美佐子さんこそが大好きで愛してるんだ。子供の頃からずっとずっとね。それが不倫だって略奪愛だって構わないくらいに」

「馬鹿だよ、純くんは……」

「うん、自分でもそう思う……。幼馴染みの女の子のお母さんを好きになるなんて……」

「あたしは……、あたしも……、純くんの事が好きだよ。あたしと言うかあっちの美佐子の話だけどね。それでもあたしにも分かるよ。あたしはあっちの美佐子がこっちの純くんを救うために創り上げた美佐子の名残だからね。純くんにいきなり抱き締められて拒絶した負い目があるのは事実、純くんと明日香に結婚してもらいたいのも事実、だけど日々逞しく育つ純くんに慕われる事を嬉しく思ってるのも事実、気の迷いだとしても純くんに告白されて喜んでしまったのも事実なんだよ。人の想いは単純じゃない。ま、だからこそこんな複雑な世界を創り上げられたわけなんだけどね。色んな矛盾点丸ごと全部ひっくるめなきゃ、架空とは言え世界なんて創れないもんなんだよ」

 長い話を終え、美佐子さんは口を閉じた。

 それ以上僕たちは何も話せそうになかった。

 お互いに心の内に秘めていた事は明らかにした。後は現実の世界でどうするかだけだ。

「これから、どうするんだい?」

「現実の世界に戻ろうと思う。出来るんだよね、僕が望みさえすれば?」

「そうだね。純くんはこの世界の成り立ちを知った。身体も心も治っているし、後は巣立つだけさ。でもね……」

「うん……」

「あっちの世界の美佐子は、この『シンデレラ』の世界で何が起こったのかなんて知らないよ。名残であるあたしが純くんに美佐子の心の奥底にある感情を伝えたのも気付いていない。それでも、純くんは美佐子にまた想いを伝えるのかい?」

「うん、伝えたい……と思う。でも、この前みたいに暴走して抱き締めたりなんかしないよ。美佐子さんは色んな複雑な想いを抱いて僕と接してくれてたって分かったんだ。僕だって美佐子さんの負い目や責任感に付け込んだりしない。今度こそ真正面から素直な気持ちで告白しようと思う。当たり前みたいに振られたって構わない。僕が真摯に想いを伝えれば、美佐子さんならちゃんとした答えを出してくれると思うから」

「そうかい……。幸福を祈ってはあげられないけれど、幸運を祈ってるよ」

「ありがとう、美佐子さん」

「純くんも」

 そうして僕は美佐子さんと強く握手し、深く望んだ。

 元の世界へ、僕の世界へ戻って、大好きな人と再び出会える事を。



     ★



 病室のベッドの上、目を覚ますと自分の手を誰かが握ってくれている事に気付いた。

 他の誰でもない。

 小さい頃から母さんよりも僕の手を握ってくれていた美佐子さんだった。

「純くん……っ?」

 僕が目を覚ました事に気付いた美佐子さんがナースコールを押そうとしたのを止める。

「大丈夫。僕は大丈夫だから、少し話させて……」

「だけど……」

「すぐに終わるから、少しだけ……」

 納得出来ない様子ながら美佐子さんは軽く頷いてくれた。

 その眼鏡の奥の目尻は赤くなっているように思えた。ずっと泣いていたのかもしれない。

「母さんたちは?」

「着替えを取りに戻ってるよ。それで今はあたしが純くんを見てたんだ」

 好都合だった。母さんたちが戻ってくる前に伝えたい事が伝えておける。

「ごめんなさい、美佐子さん」

「えっ……?」

「色んな事にごめんなさい。この前の僕、どうかしてたと思う。いきなり美佐子さんを抱き締めたりなんかするなんて、最低だった……」

「いいんだよ、そんな事は……。元気でさえいてくれれば……」

「でも……、でもさ、美佐子さん……。身体がもうちょっと回復して元気になったらさ、今度こそちゃんと話したい事があるんだ。その話、聞いてくれる?」

 僕の口振りから何を話そうとしたのか読み取ったのかもしれない。

 それでも美佐子さんは真剣な表情で頷いてくれた。大好きな美佐子さんの表情だった。

「ああ、聞くよ。何でも聞く。でもね、その前にちゃんと身体を治さないとね、純くん」

「うん……」

 美佐子さんの手の温もりを自分の手の平に感じながら、思う。

 僕は愛されていた。恋愛感情ではないにしろ美佐子さんに愛されていた。僕を救うための心の世界を創り上げてくれるくらいに。それだけで十分だった。美佐子さんがどんな答えを出してくれるにしろ、僕は満足出来るだろう。あちらの世界の思い出を胸に。

 不意に。

 目覚まし時計から軽いアラームが鳴った。

 十二時を告げるアラーム。

『シンデレラ』の世界とは違ってお昼の十二時のアラームだったけれど。

 僕の手の中の美佐子さんの温もりは消えない。

 カーテンの隙間からこぼれる陽射しが温かくて、僕は何故だか涙を流した。

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