秋のディトはすぺしゃるな
「ディトに行こう」
しかしながら、その『一歩』もかわいらしいものであった。
ある日誘われて、金香は目をぱちくりとさせた。
連れ立って買い物などに行ったことはあったのだが、『ディト』などと言われたのは初めてであった。
今までのものは違ったのだろうか、と思ってちょっと不安になってしまったのだ。
が、麓乎の意図は違ったらしい。
「洋式の『ディト』を実行してみようと思ってね」
ああ、なるほど。
金香はその言葉で納得した。
今までは日常の延長だったのだ。
つまり、特別も特別、『すぺしゃる』な、おでかけというわけだろう。その思考を麓乎が裏付けた。
「洋式なのだから、洋装で行かねばだろう。用意してみたよ」
「え、洋服をですか」
言われて驚いた。洋装をしたことがないとは言わないが完全な『全身の洋装』というのはしたことがなかったのだ。
女性の洋装は上はぶらうす。下はすかーとというものだということは知っている。
しかし高価なものであるし町中でも扱っている店は限られていた。
「ああ。珠子さんに選んで貰ったからね。間違いはないだろう」
「珠子さんが」
あのお洒落でハイカラな珠子が。
それは間違いなどあるはずがない。
むしろどれほど素敵なものなのか楽しみになってしまった。
珠子の家に頼めば洋装などすぐに手に入るということについても納得した。お高いものだろうからお金の面は少し気になったのだけど。
「少し待っておくれ」
言って麓乎は箪笥へ向かった。
出てきたものを見て金香は驚いた。包みが既にとてもうつくしいものであったので。
桃色の薄紙に包まれて、なにやら外国の文字が入った紅いりぼんがかけられている。
「まだ贈り物をしたことがなかったね。初めての贈り物だ」
「あ、ありがとうございます!」
もう『勿体ない』などとは言わなかった。
以前と同じように、確かに『自分には勿体ない』と思いはするのだが言葉にはしない。そのほうがきっと良いものだと思うようになったから。
人の褒め言葉や好意は素直に受け取って、よろこびを表現したほうが良い。
それは金香にとっては大きな変化であった。
勿論、良いほうへの。
「開けてみておくれ」
「はい!」
渡されて金香はちょっと迷った。
どう開けたら良いのだろう。
まずはりぼんをほどいたら良いだろう。
そろっと引っ張る。りぼんは簡単にするりと解けた。
次に紙に手をかける。
留めているところをそうっと剥がそうとしたが、ぺりっと薄紙が破れてしまった。乱暴だったかと焦ったが麓乎は笑った。
「テープというもので留められているから、どうしても破れてしまうのだというよ。仕方がない」
ゆっくりと開けた包みから最初に見えたのは桃色だった。
なんという名前なのかはわからないが、ふんわりした、冬に似合いそうなあたたかそうな素材でできているようだ。
そっと持ち上げて広げてみる。
随分大きかった。持ち上げて全貌を確かめる。
おそらくこれは、すかーと。着れば多分、膝の下までくるだろう。それどころか足首の近くまで来るかもしれない。
ほっとした。
すかーとは随分短いものもあるのだという。脚を出すのは抵抗があった。そういうものも考慮して麓乎と珠子は選んでくれたのかもしれない。
桃色のすかーとのほかに入っていたのは、白いぶらうすと濃い緑色の上着らしきものであった。
もう随分寒いのだ。これがあればあたたかそうだ、と金香は思った。
「気に入ってくれたかな」
「はい! とてもかわいらしいです」
「それは良かった」
金香が心から喜んだのはわかってくれたのだろう、そう言った麓乎は満足げであった。
「靴もあるのだけどそれは玄関でね」と麓乎は言ったので、靴を見るのはもう少しあとになった。
これを着て、麓乎とディト。
想像するだけで、胸が熱く高鳴って仕方がなかった。
ディトの日はお天気に恵まれた。おまけに気温も高めでぽかぽかと小春日和である。
着慣れない洋装にはもってこいだったといえる。
一度試着していたものの贈られた服を朝着てみて、金香は何度も鏡を見てしまった。
おかしくないだろうか。
自分では意外と違和感が無いと思えた。
金香の持つ暗めの桃色の髪。それとすかーとの桃色がしっくり合っていたのだ。
そして濃い緑色の上着が色を引き締めている。流石、珠子の見立てであった。
そしてもうひとつ気になるのは、かわいらしいだろうか、というところ。
ディトの相手にかわいらしいと思ってほしいのは当然であろうが、初めて見せる格好なので、やはり不安である。
しかしそれはやはり杞憂であった。玄関で顔を合わせた麓乎は、顔をほころばせて「とても良く似合っている。かわいらしい」と言ってくれたのだから。
そして金香のほうも麓乎の格好にどきどきしてしまった。
町中でたまに見かけることがある、紳士の洋装だ。
上着とずぼんが同じ素材と色で作られていて、首元にはりぼんに見えるようなものがついていた。
男性の正式な服だそうで名前は『すーつ』というのだという。そしてりぼんのように結ばれているものは、りぼんとは違い、『ねくたい』というそうだ。
普段のふんわりとした和服や和洋折衷の服は、麓乎の印象そのままのやさしさを感じさせたが、ぱりっとしたその格好はまた違う魅力がある。
「先生も、とてもお素敵です」
言った金香にまた麓乎は嬉しそうに笑ってくれてディトははじまった。
どこへ行くのかしら、と思いながら金香は新しく貰った靴でついていった。少し硬くて歩く感覚が普段とまるで違うので戸惑ったけれど。
それがわかっているように麓乎はゆっくり歩いてくれた。
「そういえばずっと言いたかったのだけど。恋人としては『先生』でないほうがいいな」
道中、麓乎がふと言った。
そういえば金香からの麓乎の呼び方はまるで変わっていなかった。
麓乎からは、最初は『巴さん』と呼ばれていたが、内弟子に入ったときから『金香』になっていたので交際をはじめた時点ではなにも変わっていなかったし、これ以上近くなりようもないほど近かったのである。
確かに『先生』では『師』である。
変えたほうが良いのはわかる、と金香は思った。
が、呼び方を変えるのはなんだか気恥ずかしい。出会ってからもうだいぶ経つが、ずっと『先生』だったもので。
「名前で呼んでおくれ」
そうなるだろうとは思ったが実際に口に出すとなると、大変恥ずかしいものだった。
心の中で一度練習してから、そろそろと呼んでみた。
「ええと……麓乎、さん?」
「ああ、そのほうがいい」
金香の呼んだ、初めての名前。呼ばれて麓乎はとても嬉しそうな顔をしてくれた。
『麓乎さん』
『麓乎さん』
金香は胸の中で繰り返す。これからは交際関係としてはそう呼ぶように心がけないと。自分に言い聞かせた。
しばらくはうっかり「先生」が出てしまいそうではあるが、意識していかなければいけないだろう。
そして呼び方が変わるのはとてもくすぐったかった。金香の頬を熱くしてしまう。
師ではなく、特別な男性なのだと実感してしまって。
いや、今更なのであるが。
呼び方というのはとても大切なものだと思い知らされた。
しばらく歩き、町へ入った。一気に人が増え、だんだん騒がしくなっていく。
それでもまだ居住区であり家が並んでいるところだ。
そこを進む間に麓乎が急に言った。
「そちらから行こうか」
「……? 回り道では?」
町の中心へ行くのだと思っていた金香は疑問を覚える。麓乎の示した道は、どう見ても遠回りであったのだから。
「そちらですと寺子屋のほうへ行ってしまいますよ?」
そう言ったのだが麓乎は言葉を濁した。このようなお姿は初めて見る、と金香は思う。
なにかあるのだろうか。
思った次の瞬間。きゃん! と大きな音、というか声がした。ちょっとびっくりしたものの、金香はすぐに顔をほころばせた。
「ぽち!」
近くの家で飼われている子犬だ。白くてふわふわとしていてかわいらしい。
「また抜けだしてきたの?」
金香はその子に声をかけ、すかーとが地面につかないように気を付けながらしゃがみこんだ。
金香のことを知っている『ぽち』という名前の子犬は嬉しそうに近付いてくる。
「せんせ、……。……麓乎さん。この子はそこのおうちで飼われている……」
ああ、最初から『先生』と呼びかけてしまった。あれだけ自分に言い聞かせたのに。
ちょっと後悔しながら金香は麓乎を見上げたのだが。
「ああ……その先の角を曲がったところのお宅だろう」
麓乎の様子は明らかに違っていた。
こちらを見ない。おまけに落ち着きがなかった。
このような様子は見たことがなく、金香は大変驚いた。
そしてあることに気が付いてしまう。
『その先の角を曲がったところ』というのは麓乎が避けようとしていた道なのである。
「……犬は、苦手なのでしょうか」
おそるおそる金香が訊いたこと。
返事は返ってこなかった。
このようなことは起こったことがない。
そしてそれは、金香の言った言葉が事実であることを示していた。
金香は改めて驚いてしまう。
「かわいらしいですよ」と言ったが麓乎の態度は変わらない。
「ほら、とても大人しいです」
金香が手を出すと、ぽちはその手を軽く舐めてきた。犬の『親愛』を示す表現。
金香の顔がほころぶ。
しかし麓乎はそれを見もしなかった。ただ、言う。
「大人しいなど。吠えるだろう」
このような声や物言いは聞いたことがない。本当に苦手なのだろう。
「そりゃあ、犬ですから」
金香が言ったときまた、ぽちが鳴いた。
麓乎はびくりとする。
それはなんだかかわいらしくすらあって金香はつい笑みを浮かべてしまった。
麓乎には悪いと思ったがそこで気付いた。
自分は麓乎のことを、なにも怖いもののない完璧なひとなのだと思っていたのだと。
しかし現実は違うようだ。このような小さな子犬などを苦手とするようなところもある。
「ほら、もう行こう」
近くにも居たくないという声で麓乎は言い金香を促した。
微笑ましいとは思ったが苦手としているものの近くに長居させるのは酷だ。思って大人しく従う。
そっと立ち上がった。
「はい。じゃあね、ぽち。ちゃんとおうちへ帰るのですよ」
きゃん、と返事をするようにぽちは鳴き、麓乎は更に足を速くした。
それを追いかけて、やっと隣に並ぶ。
ぽちから随分離れて、やっと麓乎は歩く速度を落としてくれた。ほっとした、という空気になる。
しかしそれは大変きまりが悪い、という様子をまとっていたので金香はつい言っていた。
「麓乎さんにも、苦手なものがあるのですね」
それは麓乎の気分を害したらしい。
金香をからかうときとは違う意味で、子供っぽくもあるような声で言った。
「……誰しも、ひとつやふたつはあるだろう」
「そうですけど」
気付けたこと。
知れたこと。
なんだか麓乎を身近に感じて、ふふ、と笑ってしまって、麓乎に軽く睨むような視線をやられたのだった。
麓乎に連れていかれた先は、洋風の食事をする店だった。
珠子に連れていかれたところとは別のところである。洋食を出すらしい。
『Restaurant』と看板に書いてあったが、金香には読めなかった。
看板を見上げた金香に気付いたようで、麓乎は「『れすとらん』と書いてあるそうだ。『食事処』という意味だね」と教えてくれた。
それはまったくいつもどおりだったので、犬の件はもう気にしていないらしい。
笑ってしまって悪いと思っていたところだったので、ちょっとほっとした。
昼前に出たのでちょうど昼時でお腹も減っていた。まずは昼食を食べにきたというわけだ。
麓乎がドアを開けると、ちりん、と鈴のような音がした。
給仕をするらしい男性がすぐにやってきて麓乎と何事かやりとりをする。
どうやら予約をしていた、という話をしているようだ。
わざわざ予約までしてくださって。
金香はそこで既に嬉しくなってしまった。
聞き耳を立てるのも無粋だと思い、れすとらんの中を見る。じろじろと見ないように気を付けながら。
木でできていて、てーぶると椅子がある。基本的に住まいは文机かちゃぶ台に正座などをして座るので椅子は慣れない。
寺子屋の教師の集まる部屋はこのようにてーぶると椅子があるが勿論ここにあるものほど立派ではなかった。とても豪華なのだろう。
「さぁ、こちらだ」
麓乎が示してくれて金香はついていった。
給仕に案内された先は庭の見える席。
椅子に近付く前に給仕が椅子を引いてくれた。意味がよくわからずに彼を見ると、にこりと笑って「どうぞ腰掛けてください」と言われる。
なるほど、座りやすいように引いてくださったのね。
洋風のれすとらんというのはこんなに丁寧なところなのかと感心しながら、金香は言われた通りに腰かけた。
歩いてきた距離はそれほどないというのに、歩き慣れない靴であったからか、少し足がくたびれたような気がする。座ることができてほっとした。
「疲れたかい」
「あ、……えっと」
訊かれてどう言おうか迷った。
まだ屋敷を出て、歩いて町中へきただけだ。それなのにくたびれたなど。
しかし麓乎はわかってくれていたようだ。
「靴は疲れるものだね。私も草履のほうが楽だ」
言われてほっとした。麓乎も同じだったのだ。慣れない履物は疲れても仕方がない。
「さて、ご飯はなににしようか」
言いながら開かれたのは、てーぶるに立ててあった品書きだ。
色々書かれているが金香にはそれがどんなものなのかよくわからなかった。
なにしろ名前しか知らない料理が並んでいる。
おむれつ、だの、かれー、だの。
美味しいと聞いたことはあるのだが、実際にどんなものかは知らない。
洋物に明るい珠子に聞いて、「今度食べに行きましょうよ」という話が出ていたところだったのだ。
「私もあまり食べたことがないのだけど、一番人気はおむれつだそうだよ。卵を柔らかく焼いたものだそうだ」
麓乎がいくつか示してくれて、結局その『おむれつ』を頼むことになった。選べと言われたら困ってしまったと思うので、金香はむしろほっとした。
そして出てきたおむれつは、卵を半分にしたような形にこんもりと盛られていて、卵の黄色の上には赤いものがかかっていた。
とまとだそうだ。
とまとは食べたことがある。あまり出回ってはいないのだが、ときたま町の外から野菜売りが売りに来るのだ。
麓乎が言い、金香も続けて言った。
「いただきます」
「いただきます」
一緒に食事をとることは屋敷でも洋式なので違和感がなかった。
おむれつの前に置いてあったのは『すぷーん』というもので匙(さじ)であった。金属でできていて銀色でぴかぴかしている。
すぷーんを取り上げてそっとおむれつを割る。ふんわりと湯気が立ち上った。
卵の良い香りが食欲をそそる。
少しだけすくって口に入れた。まるでとろけるようにやわらかかった。
卵のまろやかな味。そこにかけられたとまとの酸味が良く合っている。
「美味しいね」
金香の反応を良いものだとわかってくれたらしく、麓乎は笑った。
「はい。とても」
普段、食事中はあまり会話をしないものだが、西洋では食事をしながら会話をするのも楽しみなのだという。
だがすぐに適応できない。よって、ぽつぽつと短い会話だけになる。
おむれつのほかには平たい皿に白いご飯が盛られていたほか、生の野菜が色々入っている『さらだ』などがあった。
野菜も、れたすやぴーまんなど、とまとと同じ、食べたことはあるもののそう頻繁に食べるものではない野菜が多かった。
どれもとても美味しく、食事は愉しかった。
すべて食べ終えて、最後に紅茶が出てきた。
飲むと、ほっと息が出る。お腹が満たされた満足に。
右手のほうに視線をやると緑の茂る庭が目に入った。
庭に見える、あれは薔薇。紅くて鮮やかだった。
自分も麓乎も洋装で、てーぶると椅子に腰かけて、庭には薔薇。
まるで西洋に来たよう。
金香はつい見入ってしまった。
「綺麗だね」
「はい。薔薇は育てるのが難しいと聞きましたが、お手入れが素晴らしいのでしょうね」
「ああ。専門の庭師がいるそうだ」
紅茶を飲みながら食休みをして、れすとらんをあとにした。
お支払いは麓乎がしてくれた。弟子であるので食事をご馳走されたことは何度もあるのだが、今回のお店はお高かったはずだ。
お支払いをする麓乎を離れた場所で待ちながらちょっと申し訳なくなりつつも聞いたことを思い出した。
西洋では『ディト』のお金はすべて男性が出すのだと。
それにのっとって、今日はすべてお金を出していただかれてしまうのかしら。
一緒に貰っていた小さな鞄にがま口は入れてきたものの、なんだか申し訳なくなる。
かといって断ることもできないので、甘えることにしたのだった。
そのあとは町中を散策した。
とはいえ一番近い町なので大体のところは知っている。
普段訪れる雑貨屋で小物を見たり、文を書く者らしく本屋へも行った。
このときだけは麓乎は『先生』の顔になり、あれがいい、これも参考になると色々教えてくれた。
これはこれで興味深く、金香は幾つも手に取り、そして一冊買って貰ってしまった。
それは外国の本だった。小説だ。中を少し見たが、翻訳してあるので読むのには困らなさそうである。
「海外の本を読むのも勉強になるからね」と買ってくれたのである。麓乎の気に入りの作家のものだそうだ。
「帰って読むのが楽しみです」と、金香は包んでもらった本を抱えて笑った。
今日はずっと笑っている気がした。
ディト、という名前のとおり、とても特別で素敵な日。
それは日の暮れる頃、「そろそろ帰ろう」と言われて帰路につくのが惜しくなってしまうほどに。
帰ったらいつも通りの日常が待っている。
日常だってとても楽しいものだ。
麓乎がいて、屋敷の皆がいて、寺子屋の子供たちや先生もいる。
けれど麓乎と二人きりで過ごせるこのときとはやはり違う。
またこういう時間も過ごせたらいい。
そう思った金香と同じことを麓乎も思ってくれたらしい。
「また来よう」と言ってくれた。
「今度は町の外へ行ってみても良いかもしれないね。車に乗せてくれる商売もあるそうだから、また調べておくよ」
「楽しみです」
歩くうちに通りかかったのは河川だった。春には桜が咲き誇る大きめの川。
今は裸の樹しかないちょっと寂しい光景であったが。それでも流れる水は澄んで美しかった。
そしてなにもないわけではない、道のわきには椿が咲いていた。
同じ紅だが、薔薇とは違う趣がある。どちらもうつくしさに変わりはない。
金香がそれに見入っていることに気付いたのだろう、麓乎は足をとめた。
「今度、椿を題にしようか」
「はい。楽しいものが書けそうです」
そんな何気ないやり取りをしたのだが。不意に麓乎が手を伸ばした。
金香の頬に触れる。どきりとしたが麓乎の手はただ頬を撫でるだけだった。
不思議に思っていると、言われた。
「ちょっと目を閉じていてご覧」
きょとんとしたのがわかったのだろう。ふっと笑って「いいから」と言われる。
拒む理由もなかったので、金香は大人しく目を閉じた。目を閉じながらどきどきしてしまったが。
くちづけでもされるのではないか、と。
しかしもう交際して随分経つ。そしてくちづけをするようになっても随分経つ。
だいぶ慣れてきていた。やはり緊張はしてしまうのだが。
が、金香の想像したようなことは起こらなかった。なにかごそごそと音がする。
なんでしょう。
思いながらおとなしくしていると頭になにかが触れた。髪を弄られているようだ。
なんでしょう。
また思ったが、今度はわかった。
髪飾りだ、きっと。
なにかくださるのかしら。
期待に胸が湧いたとき、麓乎が「いいよ」と言った。
目の前に見えたのは麓乎だけ。髪になにかつけられたのはわかるが、自分で見えるはずもない。
「髪にもなにかつけたほうが良いかと思って、髪飾りを付けたのだけど……すまない、見えないね」
「え、えっと、見てみます!」
ちょっと困ったように言われたがそれには及ばない。小さな鏡を持ってきていた。
鏡を出して自分の顔を映す。少し顔を傾けると紅(あか)いものが見えた。
髪につけられたもの、それは紅いりぼんだった。箔が入っているようで角度を変えるたびにきらきらと輝く。
「……とても綺麗です」
ほう、と感嘆の声が出た。
一体、いつこれを。
思ったものの、すぐにわかった。
帰る前。茶屋の椅子に金香をおいて、「少し用を済ませてくる」と麓乎は少しどこかへ行ってしまったのだ。
なにかご用事でもあられるのかもしれない、と思った金香は「はい」とだけ答えて、茶屋で出して貰った茶を飲んでいたのだが。きっとあのときだ。
「ああ。綺麗だろう」
麓乎も肯定してくれたが、それで終わりではなく。
「でも、金香のほうがもっと綺麗だと私は思うよ」
さらりと言われて顔が熱くなる。髪につけられたりぼんくらい赤くなったかもしれない。
「……勿体ないです」
「勿体なくあるものか」
そう言って今度こそ、すっと顔を近付けられた。
金香はどきりとして、しかしすぐに目を閉じる。
以前は思いつきもしなかったが、目を閉じて受けること。もう知っている。
麓乎との関係が進むたびに幾つものことを知って、それは幸せなものばかりだった。
今日のこともそのひとつ。
再び歩き出して金香はふと思い出した。
やりたかったことがある。自分から麓乎に触れること。
今ならきっとできる。
こくんと唾を飲み込んでしまったものの思い切って右手を伸ばす。そっと麓乎の手に触れた。
麓乎が驚いたようにこちらを見る。
「駄目、ですか」
流石に恥ずかしかったが、手は引かなかった。
言う言葉は遠慮がちになってしまったが、その言葉は勿論否定される。
麓乎はすぐに嬉しそうに、ふっと微笑んだ。
「そんなはずはないだろう」
そして金香の手を握ってくれる。大きな手に包まれて、ほっとした。
「あたたかいね」
麓乎がぽつりと言ったのが最後で、そこから屋敷に帰り着くまでずっと言葉はなかった。
けれどまるで気まずくはなく、むしろ心地よかった。
あたたかな手が、隣を歩いてくれると感じられることが。
思ったより、ずっと、ずっと簡単だった。
もう手の届くところどころではなく、触れて繋げるほどに近いひと。
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