しあわせの朝

 翌朝、目覚めた金香は布団に寝たまま目を開けただけで、しばらくぼうっとしてしまった。

 昨夜のことは夢だったのではないか、と思う。

 けれど夢などではない。

 先生、今となってはただの師ではなくなってしまったので、麓乎、と呼ぼうか。

 麓乎と恋人関係になってしまったこと。確かな事実である。

 昨夜の出来事を思っただけで急激に恥ずかしくなり、起きるどころかもう一度布団に潜り込んでしまう。顔だけではなく頭まで煮え立ちそうだ。

 抱き込まれて、子供をあやすようにされて、やっと恐怖感がなくなった。

 安心することができた。

 その心のままに、自分の気持ちを口に出してしまった。

 言葉で。声で。

 言いたかったことだ。

 伝えたかったことだ。

 後悔などしていないし、むしろ嬉しく誇らしくも思う。

 ただ、それに羞恥を覚えるのは仕方がない。

 麓乎が金香の抱えていた恐怖感を拭ってくれたのは、優しい以上にきっと立派な大人の男性だからなのであろう。

 触れることで、『想われること』のしあわせを教えてくれたのだから。

 もう怖くなどなかった。恥ずかしくは、あるけれど。

 昨夜、麓乎はあれから少しして帰っていった。

 しばらく体を抱いていてくれたが、そろそろと離された。

 顔をあげた金香に名残り惜しそうに、でも愛おしそうに微笑んでくれた。

「私はそろそろ帰ろう」

「……はい」

 引き留めることなどまったく思い浮かばず、金香は夢見心地でただ頷いた。

「……おやすみ」

 退室する前に頭を撫でてくださったのが最後だった。

 すっと立って、扉を開けて、閉めて、帰ってしまわれた。

 一人になっても金香はしばらくそこへ、ぺたりと座り込んでいた。

 自分の身に起こったことが信じられなかったが、それが現実であるとはわかっていた。

 ただ、あまりに幸せすぎて、すぐに正気には戻れなかっただけだ。



 いつまでも寝ているわけにはいかないので金香はそろそろと起き上がった。

 布団の上にぺたりと座ってやはり数秒ぼんやりしてしまう。

 視線をやると、文机の上には書きかけの課題の半紙があった。

 完成させなければいけない。今夜やろう、と思う。

 次に畳んで座布団の上に置いた浴衣が目に入って、また頬が燃えた。

 思った通りになってしまった。

 麓乎を受け入れたい、という自分の気持ちは伝わった。

 今朝の浴衣の水紋は、それを示している。

 膝で立ち上がり、そっと近づいた。手に取る。

 ふと思いついたことに、躊躇ったものの結局金香はおそるおそる浴衣を鼻に近づけた。

 それだけで、ああ、やはり白檀の香りがする。金香の頭をくらりと揺らした。

 昨日しっかりと抱かれてしまった香り。この浴衣を着るたびに思い出してしまいそうだと思う。

 今朝は到底着られずに、ちょっと頭を振って気持ちを切り替えることにして今度こそ立ち上がった。

 箪笥から着物を取り出す。着替えて顔を洗って一日のはじまりだ。

 いつもと同じ、けれど、今日からはまったく違う『日常』がはじまるのだと思う。



「おはよう、金香ちゃん」

 支度を済ませて厨に出ていくと、いつも通り飯盛さんが迎えてくれた。

 「おはようございます」と金香もいつも通り朝の挨拶をしたのだが、飯盛さんは何故か、まじまじと見つめてきた。

 金香はちょっとたじろぐ。また化粧が濃くなっていただろうか。

 あのとき。

 恋心を自覚した翌日。

 濃く化粧をしてしまったのは、おそらく無意識の領域で『源清先生に好かれたい』という気持ちが生まれたからなのだと思う。

 今になって思えば単純なことであったし、おまけに先生は金香がちょっと化粧を濃くしたくらいで簡単に恋をするひとではないというのに。

 それを考えて金香は思った。

 先生はいつから自分を想ってくださっていたのだろう、と。

 内弟子に取ってから?

 弟子の日々を過ごすうちに?

 それとも、まさか、初めてお会いしたときに、とか。

 想像して頬が赤くなりそうになった。

 訊いてみたいけれどそれも随分恥ずかしいことだ。

 そんなことを考えていた金香に飯盛さんは言った。

「なんだか嬉しそうだなぁと思って。良いことでもあったかい?」

 それは的確であった。

 そんなに雰囲気に出ていただろうか。恥ずかしくなってしまう。

 けれど良いことがあったのは本当のこと。

 金香は微笑んだ。はにかむような笑顔になった。

「はい。良いことが」

「そうかい。良かったね。また、なんなのか教えておくれ」

 飯盛さんはこれから朝餉の支度という仕事があるからだろう、深く追求することなくそれで終わらせてくれた。

 金香はほっとする。流石に昨日の今日で、「源清先生とお付き合いすることになりました」などふれまわすわけにはいかないので。

 「はい」と返事をして金香は「今朝のお味噌汁はなんですか」と訊きながら野菜置き場へと向かった。

 飯盛さんも手を動かしながら「大根とわかめ、お麩だよ。昨日、乾物を買い込んだんだ」などと返事をしてくれて朝の支度はなにごともなく、平和に進んでいった。



 一日中落ち着かなかった、と金香は夜の一人の部屋でため息をついた。

 湯を使って気持ちはほどけたものの、なんだか胸がいっぱいだった。

 今朝、朝餉の出来上がったあとには「いただきます」と先生のご挨拶で食事がはじまって、金香は黙々と料理を口に運んだ。

 その間、ちらりと視線を向けたけれど、先生は特に変わりのない様子で食事をされていた。

 でも、この朝餉の前に。

 膳は普段通り金香が運んだ。

 流石に緊張した。昨日の今日なので。

「有難う」

 先生は言ってくれたが、お礼を言う前に金香の目を覗き込んできた。

 昨夜以前なら顔を赤くしたり視線を逸らしたりしていただろうに、今日は何故かそれがなかった。

 穏やかな焦げ茶の瞳と数秒、合ったままになる。それは変わった関係をまざまざと表していた。

 そしてお礼を言い、何事もなかったかのような様子に戻り、金香もそのまま支度をして食事となったのだった。

 そんな今朝の出来事を思い返すと、やはりくすぐったくてならない。

 どうしてだろう、これまでは恥ずかしかったり緊張したり、もしくは不安だったりしたのに。

 きっとそれは先生の、麓乎のくれた『安心』なのだろう。

 そんな気持ちを抱えながら金香は文机に向かった。

 昨日の続きを書くつもりだった。砂時計を逆さにして昨日かかった時間から逆算して、「今日使える時間は何分」と決める。砂時計の半分くらいの量だと計算した。

 話は書きかけではあるがこのあとどういう展開にしてどう結ぼうかは考えていた。なのでそう苦労することも無いと思ったのだが。

 金香の鉛筆はちっとも動かなかった。

 なんだか抵抗があるのだ。自分の考えた話に。

 日をまたいで同じ話を続けて書くことはこれまでにもあった。というか、そのほうがよくあることだったかもしれない。心の中に「こういう話を書こう」と決めているのはいつもと同じなのに。

 はっと気づくと砂はだいぶ減っていた。使える時間はもう無い。

 残り時間では到底、考えた最後まで書ききることはできないだろう。

 だめだ、これは諦めよう。まったく違う話を考えよう。

 新しい一時間で新しい話を書くことを許してもらうように、出す前にお願いしなければ。

 思って金香は半紙を畳んだ。新しい半紙を出す。なにを書こうかまた悩んだ。

 『川』。

 ……川の流れる様子を恋人同士に例えようか。

 そう思ってしまって金香は眉根を寄せてしまう。あまりあからさまに恋の話を書くのも。

 麓乎は、……先生は、ちょっと人をからかって楽しむような子供のような部分がある。そのようにつつかれてしまうかもしれない。

 それはどうにも恥ずかしい。

 悩んで、悩んで。

 結局書いたのは川の流るる様子を見た旅人が川に沿って歩いていき、海の見えるところまでたどりついて感嘆する、という話。

 一応完成させたものの、金香は半紙をじっと見て小さくため息をついた。

 きちんと一時間で書けた。脈絡も整っていると思う。ひとつの話、作品として成立しているとは思う。

 が、ため息になってしまったのは、どうしてか「この話は無難すぎる」と思ってしまったためだった。

 しかし仕方がない。これはこれで課題なので提出せざるを得ないのだ。

 出来はともかく、というか気に入るかはともかく、ひとまず課題も終わったので金香はもう寝ようかと床をのべた。布団に潜りこむ。慣れた自分の香りに包まれて体はほどけていく。

 今日は妙に気を張ってしまって疲れていた。すぐにでも眠れそうだったのに。

 ふと思う。

 先生は今、どうしてらっしゃるかしら。

 もう眠ってしまったかもしれない。

 それともなにか書かれているかもしれない。

 もしくは本でも読まれているかもしれない。

 色々と想像を巡らせて、最後に思った。

 今の私のように、私のことを考えてくださっていればいいのに、と。

 思ったことに頬が熱くなる。

 想いは叶ったのに、また違うことを望むようになってしまった、と思った。

 恋というものは際限がないのだろうか。

 欲しいと思ってしまうことに、きりはないのだろうか。

 それでは恋の行きつく先はどこなのかしら。

 思いながら、金香はうとうとしてきた。

 明日、先生とお話ができればいいな。

 最後に意識で感じたのはそんな望みであった。

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