大きな愛に包まれて
今夜はきっとなにかある。
非常に高いその可能性に金香は夕餉のあとからそわそわしてしまい、早めに湯まで使ってしまった。普段は遠慮もあってあとのほうにとしているのだが、今日ばかりは早い湯をいただいた。
浴衣は……普段ならもう夜着にしてしまうのだが、万一、先生とお逢いするのであれば夜着では無理だ。よって、浴衣……一応、昼間にも着られるもの……を選ぶ。
どれにしようか悩んだのだが、目についたのは薄い水色の水紋が入ったものであった。
青色は心を落ち着けてくれるような気がする。
着てからなにかが引っかかった。
水色?
水紋?
……水?
先生の号は『水』に縁がある。
『源清』というのは清い水の源を連想させる名字だ。
無意識のうちに先生を表すような『水』を選んでいたのだろうか。
気付いてしまって顔が熱くなった。
しかしそこで、むしろこのことに先生が気付いてくださったら、と思った。
花の一輪にも意味を見出す、先生。この柄から『先生のことを受け入れます』という気持ちに、気付いて貰えたら。
とても恥ずかしく、またやはり恐ろしさもあるものの、そう願うのは本心。
それでもこちらから押しかけていく勇気はまだない。先生が来てくださるとは限らないけれど。
落ち着いて、落ち着いて。
課題を片付けましょう。
心臓は落ち着かないものの、昨夜よりはずっとましになっていた金香はそうまで思い、文机に向かった。
今日の題を開いて思わず目を瞬いてしまった。
題は『川』だったのだから。
『水』だ。
この題を出されたのは数日前。今日に当たったのは偶然に決まっている。
だというのに、なんということか。
金香は感嘆してしまった。些細なことではあるが、なんだか良い兆候に思えてしまって。
落ち着いて。
もう一度自分に言い聞かせて、まずは砂時計に手を伸ばして逆さにした。桃色の砂が、さらさらと落ちはじめる。それははじまりの合図だ。
頭の中に川を思い浮かべる。
こぽりと水が湧いて泉となる。そこから流れ、流れて細い川から徐々にほかの川と合わさって、太い川となり、そして最後は海へ。
海を見たことはまだない。しかしきっと綺麗なものなのだろう。
流れを一通り想像して、そこから話になるように連想を繰り返した。
まずは鍵となる単語を書いていって、そこからそれらを繋げて脈絡ある文にしていくのが、金香のやりかたであった。
いくつかの単語が並び、ひとまず文の向かう先は決まる。
既に砂時計の底には砂が積もりつつあった。落ち切ってしまう前には完成させる。
すう、と息をして鉛筆を走らせる。
意外であったが、書けている。
昨日のことばかりが頭に浮かんで到底手につかないと思ったのに。
書きながら金香は意外に思った。その思考すら落ち着いている。
手紙を書いたことで思考が整理され、また一区切りができたのかもしれない。
文を書くことが好きな自分には最適だったのかもしれない、と金香は思い、次の文を考えはじめたのだが。
不意にこんこん、と扉が鳴った。
こればかりはどうしようもなく、心臓が喉から出そうになる。
いらした。
多分、源清先生。
ほかに今、訪ねてくるひとなどいるわけがないではないか。
落ち着いて。
何度目かもわからないが自分に言い聞かせて金香は「はい」と返事をする。
一拍置いて、「私だけども」と声が聞こえてきた。
やはり先生であった。喉から出そうになった心臓がもっと速くなる。
「お邪魔しても、良いかな」
先生の声が続く。
声は硬かった。低音でありながら、普段の声音はふんわりとやわらかいのに。
先生も緊張していらっしゃるのかしら。
それはそうでしょう、想いを伝えてくださったのだから。緊張しないひとなどいない。
金香は思い、そのことから少し、ほんの少し、そう、文机の上にある砂時計に入っている砂一粒程度だが安心してしまった。
「大丈夫です」
返事をして、机の前を立って扉の鍵を開けた。
そろそろと開けると、そこに立っていたのは当たり前のように源清先生である。
先生は背が高いのでいつも見上げる格好になるのだが、そっと顔をあげると先生の表情も硬い。笑みを浮かべているものの、それが常と違うものなのはすぐにわかった。
それでも金香の頬は燃えてしまい、「どうぞ」と中へお招きするときは視線をそらしてしまった。
先生に座布団を勧めて、自分は文机の前に置いている自分の座布団の上に座る。叱られる前の子供のように、ちんまりとしてしまった。
しばらく二人とも無言であった。口火を切ってくださったのは、先生。
「……課題をしていたのかな」
文机の上に半紙と鉛筆が置いてあり、それが明らかに書きかけなのを見たのだろう。先生はそう言った。
「はい。あ、の、続きは明日でも……」
「ああ、勿論かまわない。むしろ邪魔をしてすまないね」
「いえ。……」
返事をしたもののそこで止まってしまい、一秒、二秒、沈黙が落ちる。
しかし今度は先生がすぐそれを破った。
「良かった。少し落ち着いたようで」
本題に入って金香の心臓が、どくんと強く跳ねた。
「はい。……昨日は、大変失礼を」
「いや、謝らないでおくれ。私が急すぎたのだから」
まず謝罪の言葉を述べようとしたが、先生はやはり昨夜と同じことを言ってくださる。本当に優しいひとだ。
「手紙を有難う。読ませていただいたよ。気持ちを書いて届けてくれたこと、とても嬉しく思う」
「……拙文で失礼いたしました」
「そんなことはないよ。むしろ素直な表現が、……と、これは添削ではないのだからやめておこうね。とにかく、とても私の心に響いてくれたとは言おう」
「……ありがとうございます」
また、沈黙。
お互いどう出るかを探っているようだ、と思う。
こちらからなにか言わなければいけないような気もするけれど、待っていて良いような気もする。
このような状況は初めてなので、金香にはわかりやしない。
「『特別に想われるのは怖い』と書いてあったね。そしてそれがわからないとも。答えから言うと、誰かから想われることは恐ろしいことではないよ。そして想い想われることは、もっと幸せなことだ」
先生の言う声は、今度は穏やかだった。
なにを考えられているのか。声からはわからない。
顔を見ればわかるのかもしれないけれど、そんな勇気はなかった。
そして、先生の言われることはわかっているのだけど。
「理屈としてはわかっていると思うのだけど、実際に感じる気持ちはまた別だね」
先生もまったく同じことを言った。
そう、わかっているのだけどわかっていない。
頭で『判(わか)っている』のと、心で『解(わか)っている』のはまったく別。
「それなら私は、実際に起こっている出来事として伝えるまでだ」
実際にとは。
疑問に思ったのは一瞬だった。
「金香」
先生の声が金香を呼んだ。今度の声は、どこか落ち着いて、優しくて。
「こちらへおいで」
言われたことに仰天した。
これ以上近くなど無理だ。
咄嗟に首を振ってしまった金香だったが先生は許してはくれなかった。気配がすっと近くなる。
金香の心臓が喉奥まで跳ねた。心臓を握られてしまったかのような息苦しさで体を固まらせているうちに、ふわりと白檀の香りが金香を包む。
香りだけではなくあたたかな存在に包まれている。
つまり抱きしめられた。
理解した瞬間また凍りついた。
怖い。
一番強く感じた気持ちはやはりそれで。
「……ふ、」
恐怖にぽろぽろと涙が零れ落ちる。体もその気持ちのままに固まっていた。
今日は泣きたくなどなかったのに。
幸せを覚えるところなのに。
また困らせてしまうのに。
しかしこのような状況になっては平静でいられない。どうしても恐怖感は覚えてしまうし、しかもされていることは昨夜以上である。
しかし今度は先生のほうが違ったようだ。かけられた声が平静だったので。今度は戸惑っていない。
「大丈夫だよ。力を抜いてご覧」
しかしそれは金香には難しいことだった。とっさにかぶりを振る。
恐怖感に凍り付いてしまっていて力の抜き方などわからない。
それをすべて知っているかのように、先生の手は落ち着いた様子で金香の背を撫でていく。
「ゆっくり息をして。……そう、私に合わせてご覧」
まるで子供をあやすようだった。
事実そうなのだろう。想う人に抱かれているのに凍り付くしかできない自分を不甲斐なく思うというのに、今の先生の優しさは金香にとって救いだった。
は、と浅く呼吸をして、できる限り深く吸おうとする。
鼻で息を吸い込むと、鼻腔に先生のまとう香の香りが届いて、金香の頭をくらくらと酔わせた。
そこで初めて、恐怖感ではない感覚を味わえたのかもしれない。
先生の香の、良い香り。
息を吸うのも伝わってしまうほどに近く触れ合っている体。
そして背中を優しく撫でられる。
すぅ、はぁ、とまるで初めて陸上で呼吸(いき)をする生き物のように集中している間に、金香の心は呆気ないほどにするするとほどけていった。
あたたかい。
最初にそう感じた。
触れ合った身に伝わる体温。
気持ちいい。
次に感じた。
体を受けとめてくれる大きな存在と、背中を撫でてくれる優しい手が。
そしてその存在が、手が、先生が。……愛しい。
自分の胸の中の感情に気がついた瞬間、胸の中でまたなにかが破裂した。
ただし今回のものはとても熱い。胸が火傷をしてしまいそうなほどの熱を持っていた。
すべてが溶け出し、金香は我を忘れて動いていた。
身を包まれている存在にしがみつく。抱き寄せられたまま凍り付いてしまっていたというのに。
拘束が一気に溶けて、また喉奥まで涙がこみ上げて耐える間もなく零れたけれど、今度のものはまったく意味が違っていた。
「先生、……せん、せい……っ」
苦しい息の下で呼ぶ。
しがみつくなどという無礼を働いてしまったというのに、受けとめてくれる胸も腕も、そして声も落ち着いていた。
「うん」
なにもかもわかっている、という声に受けとめられて、やっと出てくる。
胸の奥にあった、今まで恐怖感に阻まれて出てこられなかった気持ちが、今度こそ声になって。
「お慕いしております……!」
言ってしまえばもうとまらなかった。
小さな声で、しかし何度も繰り返す。
そのすべてに先生は応えてくれた。
「嬉しいよ」
「有難う」
そして、「私もきみを想っているよ」。
そう言われたときには。
そこまでたどり着いたときには。
やっと顔を上げて先生の、いや、今は師ではない、……麓乎のやわらかく細められた瞳を見つめることができていた。
「……すみません」
激情がおさまったものの、今度は自らの振る舞いに恥じいって違う意味で顔が上げられなくなった。
再び麓乎の胸にしがみつき、不躾にも顔を埋めてしまった金香だったが、先程と同じように背を撫でられた。
大きな手で、やわらかく。
小さな声で謝罪したが、返ってきたのは穏やかな声だった。
ちっとも迷惑になど思わない。
そう伝えてくれる、声。
「かまわないよ」
むしろ愉しげですらあった。愉しげ、というのは少し違うだろうか。
ただ、今の、誰かと想いを通じさせることが初めてである金香には、はっきりとそれを表現することはできなかった。
「きみの気持ちを聞かせてくれて、とても嬉しかったよ」
言われた言葉には頬が燃えて、金香はもっと強く麓乎の胸元に顔を押しつけるしかない。
「……恥いります」
「なにを恥ずことがあるんだい。これほど嬉しい言葉はないというのに」
ぼそっとしか言えなかったというのに、金香のその言葉は優しくくるまれて。
そしてすべてがあるべき場所へおさまった。
「今ならこたえてくれるかな。……私と交際してくれるかい」
言われた言葉は同じだったのに。
今、金香に与えてくれる感情はまるで違っていた。
あたたかい。
抱かれている体だけではなく、胸の奥、一番奥が。
まるで春が落ちてきたようにぬくもりを感じる。
もう恐怖など無かった。
金香は心のままに返事をする。
「私などでよろしければ、よろこんで」
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