朝顔の悩み

 翌朝、のろのろと起きて覗いた鏡での顔は酷いものになっていた。

 目が腫れてしまっている。あれだけ泣いたのだ、当たり前のこと。

 こんな顔では到底、先生の前に出られないではないか。

 そこでやっと思った。

 昨夜の出来事を。

 のんびりとお月見をしていたはずなのに、月から落っこちたような事件が起こってしまった。

 お月見をしていた横に、源清先生がいらした。

 手に触れられた。

 手にくちづけをされた。

 最後には、想いを告げられた。

 これらのこと。

 こうなればいい、と望んでいたはずだった。

 先生に恋する気持ちが叶えばいい、と思っていた。

 だというのにそのような幸運に直面してみれば、金香の表に出てきたのは喜びよりも、これまでうすうす感じていた恐怖感であった。まったくどうしてなのかはわからない。

 そして理由がわからないがために、金香はこれからどうしたらいいか途方に暮れてしまった。

 言うべきことはわかる。昨日だって何度も反芻したのだ。

 「嬉しいです」「私もお慕いしております」それだけ。

 本当に、心からそう思っていて伝えたいのに、恐怖心が上回ってしまってどうにもできない。

 起きてからも、なにも変わっていなかった。むしろ事態はより悪くなっているともいえた。

 一晩おいてしまったことで、先生と顔を合わせるのが余計に恐ろしくなっている。

 なにを言われるか、というよりも『先生と向き合う』こと自体が。

 当たり前のように、部屋の外になど出られなかった。朝餉の支度の手伝いに出なくてはいけないのに、それにも出られない。

 いけないのに、厨や屋敷の方々にもご迷惑をかけてしまうのに。

 思うのに、金香ができたのは鏡を閉じて再び布団に潜り込むことだけで。

 まるで具合の悪い子供のようだった。本当に子供なのかもしれない。金香は自分のことをそう思った。

 実際、金香が泣きだしてからの先生の対応は、完全に子供に対するものであった。

 現実に、先生より十才年下であるからという理由ではない。反応が幼子でしかなかったのだ。

 そのように扱わせてしまったことが申し訳ないし、そして恥ずかしくてならなかった。

 ぐるぐると思い悩むうちに時間ばかりが経ち。日はすっかりのぼっていた。

 が、誰も部屋に訪ねてこない。朝起きていかなければ誰かは様子を見に来るとは思ったのだが。それが屋敷で働くひとなのか、もしくは先生なのかはわからないけれど。

 そしてそのために出ていくタイミングも完全に見失った。朝餉の時間すら過ぎている。

 どうしよう。さっさと出ていかなかったために。

 金香は自分を悔やんだが既に遅い。

 今日は寺子屋の仕事は入っていないのでそこは心配ない。けれど屋敷での生活は当たり前のように流れているのだ。そこへ参加ができなくなってしまう。

 でもずっとこうしているわけにもいかない。悶々としているときだった。

 ついにこんこん、と扉が叩かれた。

 金香の心臓が跳ねあがる。

 まさか、先生では。

 先生だったらどうしたらいいのか。

 昨日のこと、謝ればいいのかなんなのか。

 今度は違う意味での恐怖が膨れ上がったが、聞こえてきたのは飯盛さんの声であった。

「金香ちゃん? 起きてるかい?」

 先生ではなかった。

 金香はほっとしてしまい、そしてすぐに先生にも飯盛さんにも申し訳がなくなった。

 返事をしようとしたのに声は出てこなかった。喉がからからになっているのだとそこでやっと気付く。

 昨夜から水分をなにも取っていない。そのせいだろう。

 なのでふらふらと起き上がり鍵を開けた。立っていたのは声のとおり飯盛さんだった。

「起きてこないから心配したよ。具合が悪いかい?」

「いえ、……っ、けほっ……」

 心配そうに問われて、返事をしようとしたが喉がかさついて声が出ない。喉を押さえて咳き込む。

 飯盛さんはそれを見て、「喉が痛いかい? お水を持ってこよう」と言ってくれ、そして水さしに水を汲んできてくれた。

 部屋でそれを飲み、やっと金香はひといきつく。はぁ、と声が零れた。

 今度はなんとか喋れそうだ、と思う。

 水を持ってきてくれて、一度去っていた飯盛さんが今度はお粥を持ってきてくれた。それはまったく、この屋敷にきて一ヵ月ほど経って風邪を引いたときと同じであった。

「風邪かな。夏風邪も流行っているようだしね」

「……。……そうかも、しれません」

 喋れた。

 思いながら言ったが金香の声は酷いものになっていた。

 飯盛さんはやはりあのときと同じ、お母さんのような心配顔をして金香の額に触れてくれる。「熱は無いようだね」と言った。

 それはそうだ。風邪ではないのだから。

 でもそういうことにしておくしかないではないか。

 そして具合が、……体のではなく心のだが……悪いのは本当なのであるし。

「朝の、お支度……伺えなくて、すみま、けほっ……」

 言いかけてまた咳が出た。喉が枯れているのは水分不足だけではなく、随分泣いたからかもしれない。

 思い当たってまた昨夜のことを思い出してしまった。

「ああ、無理をして喋らなくていいよ。喉が痛いんだろう」

 飯盛さんは金香のこれを風邪だと思ったのだろう、お粥を勧めてくれて言った。

「先生がおっしゃっていたよ、昨日具合が悪そうだったからそのせいかもしれない、と」

 出された『先生』という言葉の響きだけで心臓が跳ねた。昨夜のことをよりまざまざと思い出してしまって。

 そして知る。

 先生にお気を使わせてしまった。失礼だったのは自分だったというのに。

 きっと朝餉の準備にも朝餉の席にも出なかったのに誰も訪ねてこなかったのは、先生がお気を使ってそう言ってくださったからだろう。

 先生の優しさや心遣いに甘え切ってしまっていることを再び感じてしまい、またぽろぽろと涙が零れてきた。

 目の前に居た飯盛さんは驚いたろう。「どうしたんだい」と訊いてくれる。

 いえ、とか、なんでもないです、とか言いながら目元を拭ったがどう見てもなんでもなくはないだろう。

「なにか心配事かい?」

 そうも訊かれたが、今はまだひとに相談などをできる気がしなかった。

 言えるはずがないではないか。昨夜の出来事。

 金香の心情は察されたのか、なんなのか。

 飯盛さんは手を伸ばして、金香の頬に触れた。

「落ち着いたらでいいから、話しておくれ。なにかあるなら相談に乗るよ」

 昨日から涙を流しっぱなしの頬に触れ、撫でてくれる。やはりお母さんのようだった。

 違う意味で心が痛み、金香は「ありがとうございます」と言うのがやっとだった。

 飯盛さんは「今日は屋敷の仕事はいいから、寝ておいで」と、そのまま出ていく。

 やはり金香は「ありがとうございます」としか言えなくてお盆に乗せられたお粥を見た。

 それは飯盛さんの優しさである。

 そしてきっと飯盛さんだけではない。屋敷のほかのひとも心配してくれているのだろう。

 一番心配してくださっているのは源清先生に決まっているけれど。

 どうしよう。

 やはり金香は途方に暮れたものの、とりあえず、と手を伸ばした。お粥の椀を手に取る。

 優しさは有難くいただこう、と思った。

 お腹になにか入ってあたたまれば、なにか良い考えも浮かぶかもしれない、と思えたのだ。



 結局その日、金香は部屋で過ごしてしまった。

 「寝ておいで」と言われたものの、体の具合が悪いわけではないので眠たくはない。

 が、外に出る勇気もない。休んで良いと言われたのを良いことに甘えてしまうわけだが、部屋で過ごす。

 ぼんやりしていてもなにも変わらないので文机についたもののなにも書けるわけがないではないか。今まで自分の書いたものをぱらぱらと読み返して、ふう、とためいきをつく。

 自分でも気にいる作、気に入らない作、色々ある。

 そして自分で気に入っても先生には「これはあまり良くない」と言われたり、逆にあまりうまく書けなかったかもしれない、と思っても「ここが良いね」と意外な点を褒められたりするのだった。

 こうしてまた先生のことを考えてしまってためいきしか出てこなかった。

 先生にお逢いしなければならない。

 今日、先生は高等学校へ行かれているはずなので不在なのを知っていた。なので今、真昼間に屋敷にはいらっしゃらない。

 それでも夜は帰ってらっしゃるのだから、そのときこそ必ず。

 とは思うのだが。

 それまでに勇気を出す……というか、心を決めないといけないというのは、やはり怖気づいてしまう事態であった。

 書いたものを見返しているうちに、ふと思った。

 自分が得意なことは文を書くこと。

 言えないのであれば文で書いてみたらどうだろう。

 そしてそれをお渡しして伝えるのだ。

 思いつけばそれは良い考えのような気がした。

 勿論恥ずかしいけれど直接言葉に出すよりはずっとできるような気がする。

 向き合ったらやはり声など出てこないだろう。それなら今、文字にする恥ずかしさに少し耐えて手紙にしてみる。

 少し悩んだものの、とりあえずやってみようと思った。

 文机の前に正座して背筋を伸ばす。なんと書こうか考えた。下書きの半紙を前に。

 考えただけで頭は沸騰してしまったけれどやるしかない。

 まずは昨日のことを謝罪して、次に自分の気持ちをお伝えする。

 それだけのことがとても難しい。

 鉛筆を持つ手は震えた。文字に起こすということは自分の気持ちを視覚化するということなので。

『昨夜は大変失礼いたしました』

 冒頭はあたりさわりがなかった。

『先生のお気持ち、大変嬉しく思います』

 書いてから気付いた。

 『大変』を二度使ってしまった。

 『とても』を表すのにも、同じ表現が並ぶのは理想的でない。

 早速削ることになってしまったこの手紙は前途多難であった。



 悩み、悩み、何度も消して。

 ようやく下書きを書き終わった。

 一時間は経っていただろう。あとは清書するのみ。

 清書は勿論、便せんを使う。

 ここのところ手紙を書く機会はなかったが、気に入りの便せんと封筒は荷物の中に入れて持ってきていた。

 控えめに朝顔の絵が描かれている、和紙の便せん。箔が散らしてあって、角度を変えればきらきらと光る。

 見付けた瞬間、気に入ったものだった。大切な気持ちを伝えるにふさわしいだろう。

 ペンを持ち、間違えないように丁寧に綴っていく。

 冒頭はともかく、そのあとを書くのには手が震えて、余計に気を入れなくてはならなかった。

『わたくしも先生のことを、お慕いしております』

『しかし、わたくしは怖いのです』

『怖いというのは、先生ご本人がでも、男性がでもありません』

『特別に想って頂くことに恐怖感を覚えてしまいました』

『その理由が自分でもわからないのです』

 内容はおおまかにこのようなことだった。かなりぼんやりとした内容になってしまったがすべて自分の素直な気持ちだ。

 何度も考え推敲したものの、これが一番率直だと思った。ここにきて言い繕ったりするほうがコトを悪いほうへ向かわせてしまうだろうし、また失礼でもある。

 ペンのインクをしばらくおいて、そっと触って乾いたことを確認する。

 半分に折って封筒に入れた。糊で封をする。

 あとはこれを先生にお渡しするのみだが直接お渡しするのはやはり不安感がある。

 幸いまだ夕刻には早い。先生はきっとまだご帰宅されていないだろう。だいぶ狡い手段であるが、お部屋の傍にでも置かせていただこうと思って金香はそっと部屋から出た。

 廊下を見渡し、ついでに玄関をちらりと確認して先生の履物がまだそこに無いことを確かめた。

 まるで泥棒かなにかのよう。

 自分のことを情けなく思ったが、手紙にする時点で臆病なのだから仕方がない。やるしかないのだ。

 屋敷のひとに遭遇しないよう願いながら、そろそろと先生の部屋へ向かい。

 勝手に入るなどという無礼は勿論働けないので、扉の隙間にそっと挟んできた。

 そして逃げるように部屋へ帰る。扉を閉めて、詰めていた息を、はぁ、と長く吐き出してしまった。

 やり遂げた。

 直接ではないのでそんなふうに堂々と言って良いのかわからないが、とにかく出来る限りの行動はした。あとはご帰宅された先生に気付いていただくのみ。

 扉を開ければ、挟んである封筒に気付かれるだろう。

 そして封を開けて読まれる。

 想像しただけで頬が燃えた。再び手も震えてくる。

 勿論、昨日先生に触れられたときとは比べ物にならないが。

 が、やらなければきっとなにもはじまらない。

 先生に届きますように、と願う。

 手紙が、と同時に、自分の本当の気持ちが。



 流石に夕餉に出ないわけにはいかないだろう。

 夕餉の手伝いもきちんとした。飯盛さんと煎田さんに「もういいのかい」「無理をしないでおきよ」などと気遣われてしまったが、「大丈夫です。それほど酷くなかったようです」と言っておいた。

 実際に体調はどこも悪くないのだし、化粧をして、泣いたあともだいぶ隠せたと思うので。

 朝と同じように飯盛さんに額に触れられて「確かに熱は無いようだね」と言われたので部屋へ返されることはなかった。

 今日は煮物を煮る。具材は人参や大根といった年中手に入る野菜のほかに、そろそろ出回りはじめた里芋だ。まだまだ暑いが、季節は確かに先へ先へと進んでいる。

 出来る限り炊事に意識を集中させるようにはしたが、心臓の高鳴りはおさまってはくれない。

 なにごともなければ先生はもうとっくにご帰宅されただろう。

 つまり手紙は多分もう読まれている。

 あれを読んで先生がどうされるか。そればかりはわからない。

 また怖いような出来事が起こるかもしれないがこのまま逃げるわけにはいかない。

 なので腹をくくるといったら大袈裟であるが、金香にとってはそのくらいの決意を持っていたのであった。

 分担作業にもすっかり慣れていたために、一時間ほどで夕餉は完成した。

 屋敷には十人近い人数がいるので量もそれなりになるのだが、金香のいないときにも飯盛さんと煎田さんでほぼすべてを賄っていたはずで、それは金香にはできない領域である。

 そして夕餉の時間になったのだが、昨夜以来初めて目にする先生は普段通りに見えた。

 当たり前のように金香の心臓は飛び出しそうになり、視線も合わせられなかったのだけど、先生は訊いてくれた。

 「体調は大丈夫かい」と。

 ばくばくとする心臓を叱咤して返事をする。

「はい。ありがとうございます」

「それは良かった」

 やりとりはそれだけ。

 そのまま食事となった。

 先生と同じお部屋に居るというだけで、もうなにも喉を通らない気がしたが、残しでもしたらまた心配されてしまうだろう。

 心を無にして食事に集中する。

 一応、美味しいということだけはわかった。

 そのくらいには落ち着いている、と自覚してほっとした。昨夜に比べたら、ではあるが。

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