月の綺麗な夜のこと

 八月のその晩は上弦の月だった。ふっくら膨らみつつあって、もうすぐ満月になるだろう。

 縁側に腰かけて綺麗に輝くお月様を見ながら、次の次の満月には、つまり十月になればお月見をしよう、と思う。

 金香が言わずともきっと屋敷の人々は風流だから屋敷をあげてお月見会をするのだろうけど。

 七月も七夕をした。

 屋敷の庭に笹を飾り、願い事を書いて。

 そのときはごく普通に『新人賞に受かりますように』という願いを短冊に書いた。

 源清先生や志樹、そして茅原さんも執筆に関する願いを書いていた。

 屋敷で働く人たちの願いはさまざまであったけれど。

『健康で過ごせますように』

『富くじがあたりますように』

『料理が上達しますように』

 などなど。

 中には『鯛の尾頭付きが食べたい』なんて書いた者もいて、先生が「今度宴会でもしようか」とからかい、皆で笑い合ったものだ。

 あのときは随分楽しかった、と懐かしく思う。ほんの一ヵ月ほど前のことなのに。引っ越してきてもう四ヵ月近くになろうか。

 屋敷の人たちともすっかり親しくなっていた。何気ない会話をし、家事の分担もし、時には相談などもする。

 音葉さんと初めて会話をして、先生から結婚の話を聞いて以来、金香の心情や近辺は落ち着いていた。特に大きな事件も起こらなかったといえる。

 音葉さんとはあれから二度ほど逢った。両方音葉さんが屋敷へ先生の添削を受けにきて逢ったのだが。

 用の済んだあとに、「巴さん、またお話しましょうよ」と彼女のほうから声をかけてくれて、今度は金香の部屋でお茶を飲んだ。

 普通の緑茶にお茶うけはただの買い置きの菓子であったが、それでも女性同士の会話は盛り上がった。また『文学談義』の話もしたし、音葉さんのお母上の開いている会の話を聞くのも興味深かった。

 二度目は屋敷から帰る彼女の途中までお散歩ということになった。ちょうど金香に彼女の家あたりのお店までおつかいにいく、という用事があったためだが。

 このとき金香は思い切って、「音葉さんは、好い人がいらっしゃるのですか?」と訊いた。

 「先生に『ご結婚されている』と伺った」とは言わなかった。なんだかご本人のいないところでこそこそと聞いてしまったのがうしろめたかったのだ。

 金香の質問に、音葉さんはそのまま「ええ。数年前に結婚した方が」と言ってくれた。

 年頃の女子だ、こういう話は好きなのだろう。

 金香も自分自身のことはともかく女友達が話してくれるその話を聞くのは好きであった。

 どんな相手なのか、どのようなところが好きなのかを話してくれて、あまりに盛り上がったので近くの茶屋で、やはり緑茶を飲みながら話にふけってしまった。

 そして当然のように「巴さんは? あれから好い人はできました?」と訊かれたのだが、「いえ、残念ながら」と言うことしかできなかった。

 それが少し寂しかった。

 けれど、同時に安堵もしていた。

 なにも変わっていないことに。

 変化は恐ろしい。それが良いほうにでも、悪いほうにでも。

「そうなの……もしご縁があったら彼のお友達でもご紹介させてね」

 彼女はそう言い、金香は「ありがとうございます」と言ったものの、それはちょっと困るなぁ、と思ったのだった。

 想い人がいるのだ、ほかの男性を紹介されても困ってしまう。それにもともと男性は苦手なのだし。

 そんなわけでお茶を濁してしまった。

 そんな音葉さんとのお茶会。

 彼女が結縁されていると知った瞬間、心を許してしまった自分のことを単純で、そして醜いとは思う。けれど恋という感情においては自然なことであるとも、知識としては知っていた。

 なのでぶつかることなく良い関係に落ちつけたのは良いことであると思っておくことにしている。

 そのほかにも寺子屋に新しい生徒が増えたり、煎田さんの息子さんが高等学校に合格したり。良いことはたくさん起こっていた。

 おかげで今夜の月も綺麗に見えるのかもしれないと思った。

 本日の課題も早く終わったので、明日のために早寝をしようかしら、と思ったのだが、ふと障子の外が明るいことに気付いた。月が大きくなっていっているので、月の光も明るくなっているのだ。

 今夜は夏の夜にしては涼しいし、少しお月見でもするのも良いかもしれない。

 そう思って、自室近くの縁側に出てきて一人でお月見をしていた次第。

 月にはうさぎが住んでいるという童話がある。

 うさぎが餅をついているとか、あるいは蟹だとか女性の顔だとか。月はそのように見える影がある。

 私はうさぎだと思うけれど、と金香は少しずつ夜空の上へのぼっていく月を見ながら思った。

 浪漫があるではないか、遠い月にうさぎがいて餅をついて祭の準備をしているなど。

 うさぎの祭。

 今度、そのような童話的な話を書いてみても楽しいかも。

 小説書きの卵として構想に至ってしまい、頭の中で色々と考えはじめてしまったのだけど。

 そこへ縁側の床を踏む音がした。

 あら、誰か来たのかしら。

 なんの気なしにそちらを見て金香はどきりとしてしまう。こちらへ歩いてくるのは源清先生であったので。寛ぐときの浴衣姿である。

「こんばんは。良い月だね」

「あ、こ、こんばんは! はい、綺麗なのでお月見を」

 慌てて立ち上がろうとした金香であったが先生はそれを制し、あまつさえ「お邪魔してもいいかな」と隣に腰を落ち着けてしまった。

 金香は軽いパニックに陥ってしまう。

 なんだろう、この状況は。

 一人でお月見をしていたはずだったのに師(せんせい)……ではなく、想い人がお隣に来てしまおうなど。誰が予想しただろう。

 もう月どころではなかった。隣の源清先生の存在のほうが大きすぎて。

 いつもどおり、香の良い香りがする。毎日感じているはずなのに、近すぎてくらくらと酔わされてしまいそうだった。

 それだけではない。しっかりと存在感が伝わってくるのだ。

 体温……ではないだろうが、どこかほのあたたかいような空気がある。

「月は好きかい」

 問われてどきりとしてしまったが、金香はなんとか返事をした。

「はい。月にうさぎさんがいるという話を考えていたところでした」

「おや、童話だね。それをもとにして新しい話を作るのは楽しそうだ」

 会話はごく普通であった。まったくいつも通り小説の話。

 金香はほっとしてちらりと先生のほうを見やった。

 しかしそのことでまったく『いつもどおり』などではなかったことを思い知ってしまう。

 先生が見ていたのは月ではなくこちら、金香のほうであり、そしてそのためにしっかり視線が合ってしまったのだから。

 このような至近距離で視線が合うのは久しぶりだった。茶の瞳はやっぱりあたたかい色を帯びていて優しげだったのだけど今となっては金香の胸を騒がせる原因にしかならない。

 優し気な中にもしっかり力を帯びた視線に見つめられて息が止まってしまいそうだ。

 実際、数秒止まっていたのかもしれない。

「金香」

 不意に声をかけられると同時、右手にあたたかな感触が触れる。

 それがなんであるか、なんてわからないはずがないのだが思わずぱっと見てしまった。

 そして知る。縁側に置いていた自分の右手に先生の左手が重ねられていることを。

 認識した途端そこから火がついたようだった。手がかぁっと熱くなる。

 それはすぐに全身に回った。今までも隣にいらっしゃる先生にどきどきしていたというのに、そんなことは些細だったと思わされてしまう。

 心拍が速くなりすぎて息苦しい。きっと顔も赤くなっただろう。

 金香のその反応は良いほうに取られたのかもしれない。先生の左手が動き、はっきりと金香の右手を包み込む。

 あたたかく大きな手に包まれ、しかもそれは想い人のもので。

 幸せだと思えるはずだった。

 嬉しいと思えるはずだった。

 なのに、何故か良い感情は浮かばなかった。

 むしろ、金香の胸に膨れ上がったのは。

 ……恐怖、だった。

「聞いてくれるかい」

 不安が膨れ上がり、心臓が喉までせり上がってくる。

 なにを言われるのか。

 隣に座られて、このように触れられて、わからないはずがない。

 実体験としては知らないものの、知識や女性としての本能が告げている。

 それはとても喜ばしいことにほかならない。ことによってはこれまで生きてきた中で最上級の喜びだろう。

 なのになんだろうこれは。

 心臓が凍り付きそうだ。息も苦しい。

 ちがう、ここは喜びに胸が湧くところなのに。どうして。

 金香が軽い恐慌状態に陥っているうちに、右手がすくい上げられた。

 先生の右手に丁寧に、それはもう硝子細工でも扱うかのように慎重に持ち上げられ、そして手の甲にやわらかなものが触れる。

 手の甲へのくちづけ。敬愛を示す表現。

 師から弟子におこなうものではない。次々に与えられるものに金香はついていくことができなかった。くちづけを落とした金香の右手をやはりそっと両手で包み込み。

「きみのことを師としてではなく、一人の男として想っている。私と交際してはくれないか」

 言われた言葉が最後だった。

 まるで心臓を握りつぶされたかのようになにかが胸の奥で破裂して、金香の体を震わせる。

 歓喜にではない。真逆の感情であった。

 それがどこからくるのかはわからなかった。

 別に取って食われるとでも思ったわけではない。むしろそのような心配を覚えるずっと、ずっと前の段階であった。

 誰かに特別な愛を向けられること。

 嬉しいはずのそのことが、この体と心が壊れてしまいそうなほど恐ろしかった。

「……ぁ……」

 しかし金香の理性はきちんとわかっていた。

 ここは喜びを覚えるところだと。

 女性として最上級のしあわせだと。

 それでも心の恐怖が勝ってしまう。

 くちびるから出たのは言葉にならない震えた、声かも怪しいものであった。

「……金香?」

 体の震えも触れた手を通して伝わったのだろう、視線の先で先生の整った眉根が少しひそめられた。様子がおかしいと思われたのだろう。

 そうだ、こんなこと、おかしい。

 喜んで然るべきところなのにこんな反応。こんな反応をされたら失望されても仕方がない。

 頭に浮かんでしまったそれが、不安感を助長した。

 ふ、と詰まった息が零れて、喉の奥までなにかがせりあがる。

 それは堪えることもできずに目から零れ落ちた。

 だめだ、こんなこと。

 思うのに、とめることなどできなくて。

 顔を覆って隠したいのに先生に右手を包まれてしまっている以上それは叶わず、また振り払うなどという無礼も働けなかった。

 ぱっと顔をそらして空いた左手でやっと口元を覆う。自分が涙しているということを実感してしまい、それが更なる雫となって零れ落ちる。

 明らかに『喜び』からではなく泣き出した金香に、先生は戸惑ったろう。まとう空気が揺らいだのが伝わってくる。

「すまない、無理にとは言わないよ。そういう心でなければ断ってくれてかまわない」

 先生の声はいつもどおり柔らかくて暖かかったのに、今はまったく落ち着いてなどいなかった。

 困らせてしまっている、誤解されてしまっている。

 自分が求愛を厭がっているのだと。

 それは耐え難かったのに。

 誤解されたくなどなかったのに。

 「違います」「私もお慕いしております」と言うべきなのに。

 ただ零れるのは嗚咽だった。

 言わなければいけない言葉。押し出そうとするのに喉が震えて出てこない。掠れる声でやっと絞り出す。 

「ちが、……、……ます、……っ、厭、では、……っ」

 言えたのはそこまでだった。

 駄目なのに。これだけでは伝わらないのに。

 それどころか拒絶にも取られかねない。

 言えない言葉が詰まったようにまた苦しくなり、それは涙になるしかなかった。

 先生にはどう伝わっただろうか。不安のあまりまともな思考など飛んでしまった金香の頭では悪いほうにしか考えられない。

 誤解されたかもしれない。

 想いを告げられたことを迷惑に思っているなどと。

 いや、それどころかがっかりされたかもしれない。

 想いを告げられただけで恐怖してしまうほど弱い存在であることに。言わなければ良かったと思われたかもしれない。

 不安感は呼び水のようだった。口元を押さえた手を次々と濡らしていく。

 ただそれだけしかできないというのに、かけられた言葉は優しかった。

「……すまない、驚かせたね」

 手の片方を離されるのを感じた。

 それが拒絶のように思えて、ぐぅっと喉奥までまた塊がやってきたけれど、それは、ふっと溶けた。

 背中になにかが触れたことで。それは先程離された先生の手だろう。

 その手で子供にするように、宥めるように優しく撫でられる。

「急すぎた私がいけないのだよ。泣かないでおくれ」

 かけられた言葉も優しかった。責めるどころか、自分に非があるなどと言ってくださる言葉。

 ちがうのに、こんな言葉を言わせたいのではないのに。

 もどかしさも加わり、進退窮まった金香の手を取り、立たせてくれて「少しお休み」と手を引いてくれた。

 されるがままになるしかなく、自室まで導かれて「落ち着いた頃にまた来るから」と、金香にとって一番安心できる自室に入れてくれて。

 零した涙で濁った視界に最後に映ったのは、大好きな先生の瞳だった。

 優しい色をしていたけれど、確かにその中には少し困ったような色が混じっていて。

 恐怖やら不安やら悪い妄想やら。ないまぜになって、独りの部屋で金香はその場にうずくまった。

 自分からも想う男性に想いを告げられたというのに、どうしてこんなことになってしまうのか。

 自分が信じられなかった。

 ただ、「嬉しいです」「私もお慕いしております」と言えばいいだけだ。

 なのになにも言えなくなり、あろうことか泣き出してしまうなど。

 こんなこと、子供にも劣るではないか。初めて恋をした少女だって、もっとうまくやってのけるだろう。

 先生だってこのような反応をされて、がっかりしただろう。

 せっかく想いを告げていただいたのに、きっと駄目だ。失望させてしまったに違いない。

 かけられた言葉。自身の心の揺れ。感じた強い不安はまだ尾を引いていた。

 月見を終えたらすぐに寝ようと思っていたので床をのべていたのが幸いだった。

 独りの身が不安でたまらずに、潜り込んだ。

 が、到底落ち着くことなどできない。

 なにが起こったのか。あまりにも激流で、心の容量を完全に超えてしまっていて。

 ただ不安感が胸を覆いつくす。

 枕に顔をうずめてぽろぽろと涙を零すうちに寝入ってしまったらしい。

 先生は「落ち着いた頃にまた来るから」と言ってくださった。

 なのでその言葉通りにきてくださったのだと思う。

 しかし金香はそれを知ることはなかった。

 おまけにそれを「失礼を働いた」と思い、後悔する余裕すらなかったのである。

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