直談判

「ご本、ありがとうございました。とても面白かったです」

 シンプルなお礼の言葉と共に志樹に借りていた本を渡す。志樹は「楽しんでいただけたらなによりだよ」と受け取ってくれた。

 次の晩。課題が休暇中であった金香は昼間のうちに本を読んでいた。

 それは志樹から借りたもの。夕餉のあとそれを返しに行ったのだ。

 志樹の部屋を訪ねると確かに彼はそこに居て金香を迎えてくれた。入口だけでなく部屋に招いてくれるので金香はお言葉に甘える。

「どれが気に入ったかい」

 本は短編集だった。様々な切り口の話が入っていて、どれも面白かった。

「私はこの主人公が野で姉妹に会って歌を聞かせて貰うお話が好きだと思いました」

「ああ、これだね。姉の歌に惹かれて片恋をする話だ」

 ぱらぱらとめくってその話の頁を開いて志樹は言ったのだが、金香はそれを聞いてぎくりとした。

 そのとおり、主人公は姉妹に会ったあと、その姉のほうに淡い想いを抱く。

 しかし主人公は想いを胸に秘めたまま終局となっていた。そのあと彼と姉の女性がどうなったかは書かれていない。

 『歌を通じての交流』を読んでそこを魅力に感じ、その部分はまったく意識していなかったが、言われてみればそのとおりの話。

 無意識のうちに、片恋をする青年に己を重ね合わせていたのだろうか?

 急に恥ずかしくなってしまった。

「僕はこれが好きなんだよ。主人公の少年が初めて鹿狩りに連れていかれる話なのだけどね……」

 しかし志樹は気にした様子もなく、違う頁を開いた。

「それも面白かったですね。なんとなくそうなるとは思っていましたが」

「本当に鹿を撃ってしまうんだからね。驚いたし大胆な展開だと思ったよ」

 いつもどおりに小説の内容について話していたのだが、ふと思いついた。

 片恋の話から連想したのだ。

 志樹に訊いてみようか。音葉さんのことを。

 相手が先生の兄で、弟弟子で、先生とも金香とも距離が近く、また婚約者がいるというある意味安心できる立場の志樹であったから思いついたことだ。

「あの、志樹さん」

 金香の切り出しから、話題が別のところへ移ろうとしていると知ったのだろう。志樹は本から顔をあげた。

 志樹のまなざしは源清先生とはまるで違っている。つり目気味で、どちらかというと鋭さもある眼だ。初めてお会いしたときはちょっと怖く感じたくらい。

 今では穏やかな気質であられることを知っているし、そのまなざしも笑えばとても優しくなるのだということを知っているのでむしろ安心を覚えた。

「昨日、音葉さんにお会いしたのですけど」

 切り出した金香の言葉には頷かれる。

「ああ、音葉さん。きみにとっては姉弟子だね」

「はい。それで」

 金香は続ける。

「たくさんお話をして愉しかったです。でも気になることがありまして」

「なんだい、本人に訊けばよかったのに」

 『気になること』に関しては、ふっと笑われた。確かにその通りなのできまりが悪い。

「……なんだか、悪いような気がしまして」

「僕なら良いということかい」

 もう一度笑われるが今度ははっきりとからかいだった。こういうところは源清先生とちょっと似たところがある、と金香は思っていた。

「いえっ! ただ、私にとって音葉さんより身近というか……」

「それは光栄だね。で、なにかな」

 促された。

 自分から切り出したものの、やはり口に出すには緊張してしまう。

 思わず下を向いてしまい、自分を叱咤した。

 いい加減、前に進まないと駄目。

 志樹はこの件については最適な相手だと金香には思えた。前述のとおり先生と金香、それぞれへの距離感のためだ。

 なので思い切って視線をあげて質問する。

「……音葉さんは、よ、……好い方、でもいらっしゃるのでしょうか」

 『好い方』と口に出すのすら金香は恥じらいを覚えた。ひとのことであってもなんだか妙にくすぐったいのである。

 志樹はその質問に驚いたようだ。細い目がちょっと丸くなる。

「……本人に訊かなかったのかい」

「……はい」

 こういうことだ、それこそ本人に訊くのが自然である。女性同士なのであるし。

 とはいえ金香にとっては同性だからこそ、気軽に訊けない事情がたっぷりあるのだが。

「そうか」

 志樹はそれだけ言い、着ていた浴衣の袖に腕を突っ込んだ。

 考えていたのはほんの数秒のことで、すぐにとんでもないことを言ってくる。

「それなら麓乎に訊くのがいいよ」

 金香は仰天した。

 先生に直接訊けなどと。

 それができたらはじめから苦労していない。

 しかし志樹から言われてしまったら。

「麓乎はきみたち二人の師だからね。麓乎から聞くのが一番間違いがないだろう」

「そ、……そのとおりですけど」

 もにょもにょと口ごもった金香を見る志樹は、どこか愉しそうな口調をしていた。

「訊きづらい?」

「……はい」

「まぁ、でもそのほうが良いと僕は思うから。やってみたら?」

 なんという非情なことを。

 思った金香だったが、そんな金香の事情は志樹には関係のないことであるし、ごくまっとうな正論極まりないことである。

 やるしかないのか。

「今なら麓乎は暇している……とか言ったら言葉が悪いけど、特に急ぎの用事もないんじゃないかな。行ってみてご覧よ」

 おまけに今からなど。

 金香の頭がくらくらしてきた。

 が、そのほうが良いのかもしれない、ともそのとき思った。

 下手にこのまま部屋に帰ったところで『訊く』『訊かない』で余計に悶々としてしまうに決まっていたのだから。それならもういっそ。

「……はい」

「うん。じゃ、いってらっしゃい」

 思い切って言った金香に微笑んで。志樹は自分の部屋から金香を追いやったのであった。



 来てしまった。

 金香は源清先生の私室の前に立ち尽くしていた。

 今度こそ訊くのだ。

 音葉さんのことを。

 勇気を出さないと。このまま悶々としてしまっていては、課題の休暇をいただいた意味などないだろう。

 悶々とした気持ちをなんとかしないことにはまともなものだって書けやしない。

 いや、片恋に悩む気持ちは書けるかもしれないがそのような作品を見せられるはずがない。

 そうであるならばいい加減先に進まなければ。

 ごくりと唾を飲んで金香は扉を軽くノックした。

「はい」

 中から先生のお声がする。

 いらっしゃる。

 それは良いことなのだけど、ああ、きてしまった、とも金香に思わせた。

「金香です。……今、よろしいですか?」

 金香の問いには、なにやら中で気配がした。返事よりすぐに扉が開けられて先生が姿を見せてくださる。

「かまわないよ。どうぞ」

 言ってくださった言葉はやはり優しかった。穏やかな微笑を浮かべている目元も。

 お顔を見て、声を聴いただけで金香の胸は高鳴った。

 この方が好きだ、と思ってしまって、その思考に羞恥を覚える。

「お邪魔いたします」

 どくどくと騒ぐ心臓を叱咤して中へ入る。

 こんなに緊張するなど、別に想いを伝えるわけでもあるまいに。

 それに近いことではあるのだが。

 金香がいつも添削の際に座らせていただく座布団を勧めてくださって、先生も文机の前に腰を下ろす。

「なにか用事かな」

 言われて、思わずごく、と唾を飲んでしまった。急に喉が渇いてきたような気がする。

「……昨日、音葉さんにお会いしてきました」

 金香の言葉に、源清先生はちょっと驚いたような顔をした。確かに「会ってみるのも良いかもしれない」とおっしゃったのは先生であるが、これほど早く実行するとは思われなかったのだろう。

「そうなのか。昨日、珠子さんが訪ねてきたね。そのあとかな」

「はい。喫茶店に連れていっていただいて、それでお話を」

「それは良かったね。愉しかったかい」

「はい! とても」

 それは本当のことなので明るい声になった。一瞬では、あったけれど。

「その報告かい?」

 訊かれて詰まってしまう。

 そんなはずはないではないか。

 このような時間にわざわざ押しかけておいて、愉しかった思い出話をしようなど。

 そんな気軽な仲ではないのだから。

「いえ、……その」

 金香が言い淀んだことをどう思ったのだろう。源清先生は金香の言葉を促すように黙っている。

 ええい! 訊いてしまいなさい!

 もう一度自分を叱咤して。やっと口に出した。

「その、……音葉さんは、ご結婚のお話など……あられるのですか……?」

 だいぶ遠回しになってしまった。

 『恋人がいるのか』だの、もっと踏み込んでしまえば『先生と恋仲なのか』と訊くべきであったのだが、金香にはそれが精一杯だったのだ。

「……どうしてそれを私に?」

 言う言葉は疑問形であったのに、どうしてか先生の声は楽しげだった。その理由は金香にはまったくわからなかったが。

「えっと、その」

 言えやしないではないか。訊く言葉すら遠まわしになってしまったというのに。

 答えられない金香を数秒待ってくれたが、なにも言えずにいると察したのか先生は続けてくれた。

「はっきりしないね。まぁ、私からなら構わないだろう。珠子さんは既にご結婚されているよ。数年前のことだ」

 金香の頭が一旦、ぽぅっとした。

 先生と恋仲ではないのだ。

 既に所帯をお持ちなのだ。

 それに思い至って、かっと金香の胸が熱くなった。

 これは自分にとっては良い展開なのでは。

 先生は淡々とそれを裏付けていく。

「夫である男性は、以前高等学校で教えていた私の生徒だ。そういう都合で、はじめに口利きをしたのは私なのだよ」

 一気に力が抜けてしまって、なにも言えなかった。安堵のために。

「……安心したかい」

 そんな金香にかけられた言葉はやはりからかうような響きを帯びていて。

 金香は一気に現実に引き戻された。

 それはなにに対して。

 既に結縁されていることか。

 先生と恋仲ではないことか。

 両方なのであるが、やはりこのようなことは口に出せないではないか。

「えっ、いえっその、お、お綺麗な方なので、きっとそのようなお話もあるのでは、と」

 完全にしどろもどろであった。

 あからさまに不審だったのであろう。先生はおかしくてたまらない、という様子でくちもとに手をやって、くすくすと笑う。

「そうだね。珠子さんはとても綺麗なうえに聡明な方だから言い寄る男性も多かったと聞くよ。有難いですけど応えられなくて申し訳ない、なんて相談をされたこともあった」

 想い出話をしてくれて、しかしそんな平和な話は少ししか続かなかった。

「そういえば金香はどうなんだい。今まで聞いたことがなかったが、好い人のお一人でも居るのかな」

 どくりと心臓が跳ねて喉元までせり上がってきた。

 音葉さんとまったく同じ質問であった。だというのに頬の燃える度合いは比べ物にならなかった。はっきり顔が赤くなったであろう。

 そして答えも同じことしか返せない。

 まさか言うわけにはいかないだろう。

 「先生をお慕いしております」などとは。

 まだそこまでは。

 「おりません」とだけ、消え入りそうな声で呟いた金香を見る目は優しかったのだろう、と下を向いていても感じられた。

「そうか。それではこれからだね」

 これから、とは。

 それは勿論これから好い人、つまり恋人ができるだろう、ということだろう。

 が、金香が恋人に欲しい人はもう決まってしまっていた。それが叶うかどうかなどはまったくの別問題であるが。

 その当人にそう言われるのは、嬉しいのか悲しいのか。

 その晩はそれでおしまいになった。

 「気分転換もできたようだから、明日から課題を再開してご覧」と言われて金香は部屋を退室した。

 自室に戻ってから思わずへなへなと座り込んでしまった。浴衣の胸をぎゅっと握る。

 良かった。

 それだけが頭の中をぐるぐると回っていた。

 音葉さんは先生と恋仲ではないのだ。本当に、本当に安堵した。

 勇気を出してよかったと思う。そしてそんな自分のことも褒めてあげたくなった。

 しかし次に思い浮かんだことに金香はすぐにそれを否定することになってしまう。

 では先生は別に恋仲の女性はいらっしゃるの。

 音葉さんが違ったからといって、ほかに女性が居るかもしれないという点は解決していないのだ。

 ああ、ひとつ片付けばまたひとつ。

 恋に関する不安は際限がないようだ。金香は初めてそのことを知ってしまう。

 でもこれこそ直接訊くことなど無理だ。どうしたらいいのだろう。

 その晩は目下の不安ごとが解消されて、おまけにそれが金香にとって良いものであった喜びやら、しかし芽生えた新たな心配事やらで、なかなか寝付けなかった。

 でもやはり片恋の不安だけでなく、もうひとつざわつくものがあると胸の奥に感じていたのだけど。

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