姉妹弟子

 『気分転換』として思いついたのは姉弟子の音葉さんのところを訪れることだった。自分でも大胆が過ぎると思ったのだが、逢ってみたいと思った。

 直接訊く勇気など出ない。

 けれどお逢いすればなにかわかるかもしれない。

 万一先生と親しいご関係であるとわかっても、かえってなにも心配することはなくなるのだ。悲しい気持ちになるかもしれないが、不安感や恐怖感はなくなってくれるだろう。

 むしろそのほうがいいかもしれない、などと思ってしまうあたりはやはり金香は恋事について後ろ向きなのであった。前に進むほうが恐ろしいと思ってしまうのだ。

 さて、そのためにまずは音葉さんと約束を取り付けなければいけないのだが、ここで既に金香は困ってしまった。

 一番良いのは源清先生に直接「音葉さんとお会いしたいので、お住まいを教えてください」とお願いすることだ。

 というかほかの手段ではいけないだろう。

 屋敷のほかのひとで知っているひとはいるかもしれない。例えば志樹や、同じ門下生の茅原さんなど。

 しかしそれは多分マナー違反になるのだと思う。彼女に対しても、先生に対しても、そして訊いた相手にも。

 住まいなど大変に個人的なことだ。それを遠まわしに知ろうなど。

 しかし先生に相談するのはとても躊躇らわれた。

 「交流するのも良い」とは言われたが、「気分転換をするといい」がどうして音葉さんに逢うということになるのか不審に思われるかもしれない。

 核心は告げずに「姉弟子としてお話してみたい」とだけ堂々と言ってしまえばよいことなのだが、今は先生に少しでも不審に思われたくないと思ってしまう。万が一でも自分の気持ちが露見してしまったら、と思うのだ。

 そんなわけで丸一日、対策を考え、しかし何回も「やはり先生に直接お聞きしなくては」という結論にしかならず、しかしそれは勇気が出ず。悶々としてしまったのだが、事態は思いがけぬ方向へ動いた。

 なんと音葉さんご本人が訪ねてこられたのである。

 そのとき金香が玄関口で植木に水をやっていたのも幸運だったのだろう。

 「こんにちは、巴さん」と彼女はにっこり笑って近付いてきた。洋風の傘などをさしている。

 今日も洋装で。やはりとても綺麗だった。

 彼女の姿を見とめた瞬間、源清先生に対するのとは違う意味で心臓が飛び出しそうになった。

 あまりに良いタイミングであったために。

 そして彼女に抱いている複雑な感情のために。

「こ、こんにちは!」

 あわあわと挨拶をした金香を気にした様子もなく音葉さんは言った。

「今日も暑いですね。課題を持ってきたのですが、源清先生はいらっしゃいますか?」

「はい! おられます。どうぞ」

「お邪魔します」

 それだけで彼女はつかつかと玄関に入っていく。その後ろ姿を見ながら、金香の心臓はどきどきと高鳴っていた。

 これはなんというチャンスだろう。彼女に直接訊いてしまえばいいのだ。それならなにも失礼になどならない。

 いえ、それより。

 彼女が今、まさにここにいるのである。課題を持ってきたと言っていたので、きっと添削を受けているのだろう。

 そのあとに捕まえてしまえばいいのだ。「このあとお時間宜しいですか?」などと言って。

 断られたところで「では今度お話をしませんか?」と誘えばいいだけ。なにかしら約束を取り付けられるだろう。

 そのような決意をして金香は水やりを終えたあと自室に帰ったのだが、全力で客間の気配を探った。

 お茶でも持っていこうかと思ったが明らかにわざとらしくなってしまうだろう。茶などとっくに下女が出しているだろうし。

 廊下に出れば声が聞こえるかもしれないが、自室では客間の物音まで聞こえてこない。

 さっきから心臓はちっとも落ち着いてくれなかった。

 音葉さんと先生が客間で二人きりだということ。

 もしもなにか、恋人同士がすることでもなさっていたら。

 想像しただけで頬が燃えた。そんなはしたないことは起こるはずが無いというのに。

 むしろそのような想像をしてしまった自分のほうがはしたないではないか。

 そしてもうひとつ、彼女が帰るときに思い切って自室を出て捕まえなければいけないということ。

 彼女に話しかけるのは構わない。けれどその様子を源清先生に見られるのは大変にきまりが悪いことである。

 できれば音葉さんと会うところは見られたくなかった。

 それがどうしてかはやはり音葉さんのことを姉弟子としてではなく気にしているからかということの裏付けになってしまうような気がしたからである。

 一度「気になるのかい」と、からかうように言われている。そのとおりになってしまうのだ。

 しかし事態はやはり金香に良いように転がってくれた。

「それでは失礼いたします」

 聞こえてきた声は音葉さんのものだけであったのだ。客間から出てくる気配も、聞こえてきた廊下を歩く音も。

 事情はわからないが、急ぎの用が入ったからかほかに誰か……志樹や門下生……が訪ねてきて手が離せなくなったからかもしれない。先生はお見送りに立たなかったようだ。

 申し訳ないけれどなんて幸運。

 天にいらっしゃると思っている神様に感謝しつつ金香は思い切って部屋を出る。

 廊下の先、音葉さんが玄関を出ようとするところが見えた。金香は急いで玄関へ向かい草履をつっかけ、門へ向かう彼女を追いかけた。

「音葉さん!」

 呼ぶと音葉さんは振り返ってくれた。驚いたような顔をしている。

「あら、巴さん」

「あの、急にすみません」

 まず謝る。無礼である自覚はあったので。

 しかし彼女は、ふっと笑みを浮かべて「いいえ」と言ってくれた。

 それに少しほっとしたものの、やはり緊張は消えてくれない。それどころか、まっすぐに向かい合ったことで心臓の高鳴りはさらに激しくなっていた。

「なにかご用事?」

 先に言ったのは音葉さんだった。金香は勢い込んで言ってしまう。

「あの! 良かったら少しお時間宜しいでしょうか?」

 彼女は今度、不思議そうな顔をした。

 それはそうだろう。妹弟子とはいえまともに話したこともないのだから。

 それでも不自然ではないはずだ。なにしろ『姉妹弟子』という関係になっているのだ。

「……良かったら、お話してみたいと思いまして」

 ちょっと声の調子を落として言ってみる。金香のお願いは唐突なものであっただろうに音葉さんはやはり笑ってくれた。

「ええ、時間は大丈夫よ。私も巴さんのことは気になっていたの。是非お話しましょう」

「ありがとうございます!」

 金香もつい笑顔になったがちょっと心は曇った。

 『気になっていた』というのはどういう意味であろう。

 もしや音葉さんは源清先生と恋仲か、もしくは彼を想う気持ちがあるなどで……彼女は彼女で、屋敷で先生と一緒に暮らす私が邪魔をしないか気になった、とか。

 そんな想像をしてしまい、金香は勢いよくそれを振り払う。そんなこと失礼が過ぎる。

「ではお茶でもいかがかしら? 美味しいお茶を出すお店があるの」

「はい。ではすぐに支度をしてまいります」

「ええ。ここで待っているわ」

 金香はほっとした。屋敷で話そうなどと言われなかったことに。

 屋敷では問題がある。なにかの拍子に先生のお耳に入ってしまわないとも限らない。

 やはりなにもおかしくはないだろうし問題もないだろうが、出来れば知られたくない。

 そんなあれやこれやと勘ぐってしまったり、もしくは策略をはたらいたりする自分を酷く醜く感じ、自室でがま口やらはんかちやらを取り出して急いで準備を整える間、内心だいぶ落ち込んだのである。



 彼女に連れていかれたのは浪漫の香りがする喫茶店であった。

 茶屋ではない。西洋の建築に近く作られているのだろう。暮らし慣れた建物とは随分雰囲気が違った。

 毎回洋装で訪ねてくる彼女なので、なんとなくこのような店が似合うだろうと想像していたが、そのとおりになったというわけだ。

「素敵なお店ですね」

「お気に入りなのよ」

 町中を歩くときに前を通りかかったことはあるものの、入るのは初めてであった金香は、ついきょろきょろと中を見回してしまった。

 一通り見てから、はっとする。子供ではあるまいし失礼だっただろう。

「す、すみません、このようなお店に入るのは初めてで」

「いいえ。見とれてしまうくらい素敵でしょう? たとえば私はそこの絵画が好きなのよ」

 慌てて謝った金香を助けてくれるように、ふんわりと微笑んで彼女は壁にある花の絵を示した。

 なんという花なのか名前はわからなかった。西洋にだけ咲く花なのかもしれないが、とても美しいことに変わりはなかった。

「紅茶でよろしいかしら?」

「あ、はい! よくわからないので……お任せします」

 一任してしまったが彼女は単に頷き、給仕を呼んでなにごとか注文してくれた。

 きっと彼女はこの店では馴染みなのだろう。給仕も「いつものものですね」と微笑んで去っていった。さて、準備はすべて整った。あとはなんとでも音葉さんとお話ができる。

 しかし実際にこのような状況に置かれればやはり緊張してしまって、どう切り出したものか悩んでしまった金香に、音葉さんのほうが先に口火を切ってくれた。

「今日はお誘いくださってありがとう。良い機会だったわ」

「いえ! あの……ずっと、お話してみたいと思っておりましたので」

 躊躇ったものの、正直に言うことにする。流石に下を向いてしまったが、それでも言った。彼女が微笑んだ気配がする。

「本当に? 嬉しいわ」

 そのようなやりとりのあと、彼女が言ってくれた。

「巴さんはもともと寺子屋の先生だったと伺っております。とても良い先生だと」

 どきりとして金香は慌てて手を振った。

「いえ! 先生などとだいそれたものではなく、ただのお手伝いで」

 源清先生ったら一体どのようなことをご説明されたのかしら。

 私には勿体ない表現のような気がするわ。

 心中で言い、正式な教師ではないと言ったのだが彼女は褒めてくれた。

「それでもお子さんにお勉強を教えていたのでしょう? 誰にでもできることではないわ」

「あ、ありがとうございます……」

 褒められればくすぐったい。子供たちに勉強を教えているというのは事実であったので。

 そのあとは音葉さんのことについて教えてくれた。

 彼女の家は名のある商家だそうだ。西洋からの輸入品を扱っているらしい。

 金香はそれで納得した。

 洋装なのもそれが良く似合っているのも、家が西洋と関わり合いがあるからだと思えばむしろ自然である。

 音葉さんは現在、お父上のお店の店番やお母上のお手伝いなどをして過ごしているそうだ。それは商家に生まれた女子にはよくあることであったが、洋風の家はまた少し違った事情があるのかもしれない。

 お母上は近所の方々を集めて談話会のようなことをされているそうだ。そのお手伝いをしているのなら、内弟子に出る余裕はないうえに執筆にかかりきりになることもできないのだろう。彼女の話から金香はそのように推察した。

 音葉さんの家の話の次は、金香に質問がきた。

「巴さんのご家族は?」

「父がおります。荷運びをしていて、あまり家には居ないのですけど」

 それだけで彼女は『金香に既に母が亡い』と察したのだろう。「そうなのですね」とだけ言った。

 ついでに『家族と縁が薄いので内弟子に入った』ということも察されたのかもしれない。「どうして内弟子に?」とは訊かれなかった。

 賢い女性だ、と金香に思わせるにはじゅうぶんな対応である。

 家族の話はそれだけでおしまいになり、次は書きものの話になった。

 ここはなにも気兼ねすることがない。むしろ物を書くことについて女性と話す機会はこれまでほぼなかったために、金香はつい興奮して話してしまった。

 それは音葉さんも同様だったようで、意外なまでに無邪気にころころと笑い、おまけに今日持ってきた『課題の半紙』まで見せてくれた。

 そして話は好きな雑誌や小説、作家のことへ移っていく。

 あら、これはいわゆる『文学談義』だわ。

 話しながら金香はおかしくなった。

 男性がするようなことを。まるで自分まで時代の最先端まで連れていかれたような気がする。

 運ばれてきたかぐわしい香りの紅茶のためもあり。文学談義もひと段落した頃には、窓の外もだいぶ橙に傾いてきていた。

 ここまで愉しく会話してしまったが金香は、はっとした。肝心なことが聞けていない。

 つまり『先生との仲』だ。

 急に腰が引けてしまう。

 訊けやしない。

 「先生と恋仲なのですか」などと。

 しかしそろそろ解散して帰らなければだろう。

 どうしよう、勇気を振り絞るか、それとも。

 そこで彼女が不意に言った。

「巴さんは、好い人はいらっしゃるの?」

 訊かれて金香の心臓が跳ねあがった。

 好い人。

 そんな人はいないけれど。

 それは本当だけれど。

 まさか「先生のことをお慕いしております」などとは言えない。

 恥ずかしいのも勿論あるが音葉さんが先生と恋仲であるのならば、失礼とお邪魔にしかならないだろう。

「お、おりません」

 本当のことを言うのがやっとだった。おまけに彼女の顔も見られない。

「そうなの……不躾にすみません」

「いえ!」

 本当ならここで訊き返すべきだった。

 「音葉さんはいらっしゃるのですか?」と。

 絶好のタイミングであったのに。

 しかしその質問は金香の口から出てこなかった。喉の奥につっかえてしまったように。

 臆病が先に立ってしまったのだ。

 「源清先生とお付き合いしているの」などと言われてしまったら、と。

 いっそはっきり知ってしまえば諦められるなどと思ったことは吹っ飛んでいた。

 知りたくない、恐ろしい、そしてそんなことは厭。

 そのような思考でいっぱいになってしまい、結局そのことについては訊けずにそのまま音葉さんと喫茶店を出て、別れてしまう。

 帰り際、音葉さんは言ってくれた。

「またお逢いしましょうね。私も時たま源清先生のお屋敷をお訪ねしますし、巴さんから訪ねてきてくださってもかまわないわ」

 それを素直に「ありがとうございます」と受けて、そして、帰っていく彼女の後姿を少しだけ見て金香は自分も帰路についた。

 道すがら、自分の臆病さに嫌気がさしてしまった。

 肝心なことも訊けずに、これではお会いした意味がまるで無……くはないけれど。

 考えかけたところで自分の思考を否定する。

 お互いのことを知れたのも良かったし、文学談義も愉しかったし、意外と良い姉妹弟子になれそうなこともわかった。

 気分転換になったのは確かだったので、とりあえず初めてきちんとお話しできただけでも上出来だと思わないと。

 金香はそう思っておくことにして、ここでやっと屋敷での夕餉の支度の時間が迫っていることに気付いて慌てて小走りで帰ったのだった。

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