息づきはじめた恋心

 その夜、源清先生は約束通り金香の添削をしてくださった。

 最近では「一時間と決めて、私の出した題で小咄を書いてみなさい」という課題を出されている。

 毎日一本だ。先生は毎日見てくださるわけではないので、書いてすぐに見ていただけるわけではないのだが、金香は真面目に一日一本と取り組んでいた。

 今日は二日ぶりの添削であったので、その前日も合わせて三日分の、三本の小咄の提出となった。

 一時間では半紙五枚程度にしかならない。それは金香の腕前が未熟なためだが。

 はじめたばかりの頃「手本を見せよう」と、一度同じやりかたで先生が書いているところを見せていただいたことがある。

 スピードがあまりに違って金香は息を呑んだ。

 門下生に出す『題』は先生の気分で選んでいるらしい。

 が、このときは金香に「なにがいいかい」と訊いてくださった。

 なんでもいいとのことであったので金香は「では、……金魚、で」と言った。

 「わかった」と先生はそのまま呑み、文机に向かい……宙を見つめていたのはほんの一分ほどの間であった。

 すらすらと原稿用紙にペンを走らせる。まったく淀みのない様子で。

 出来上がったそれは、花が落ちて金魚になってしまい池を泳ぐという小咄であったが、しっかりと一本の話になっていたうえに、原稿用紙は九枚にも及んでいた。

 半紙をめくって読みながら金香は感嘆した。

 これは、このまま雑誌の連載の一本にもなってしまうのではないかしら。

 「このように、一日一本やってみなさい」と申しつけられてから、毎日の課題として取り組んでいるのだが……結果はまだまだ、としか毎日思えないのであった。

 一分で構想や構成が浮かぶなどとんでもない。酷いと十分近く思い悩んでしまう。

 挙句、なんとか書き終わっても、大抵五枚程度にしかならない金香の原稿は枚数が少ないだけではなく、あちこち修正を入れていた。

 こちらの表現はもう少し前に、この文は丸々削除、などと。

 なのでかなり読みづらくみっともない見た目であった。

 が、先生はむしろ愉しそうだった。

 「伸びしろがじゅうぶんにありそうじゃないかい」などと言うのはきっとからかいの意味もあっただろうが、本心でもあるだろうと……思いたい。

 毎回「ここの表現は抽象的で詩的だね」と褒めてくださったり、もしくは「ここは良くないね。わかりづらすぎる」と直されたりする。

 一時間を毎日こなすというのは大変であったが、ただ、この課題は大変に愉しいものであった。

 題からなにかを連想し、それを話にまとめようと考えること。

 悩みながらもなんとか文字をつづっていくこと。

 一時間を測るために砂時計を買ってきた。砂の落ちる様子で、「あと何分」と測ることができる。

 桃色の砂がさらさらと落ちるのを見ていると焦りを覚えるのだが、励みにもなるのであった。

 今日も例によって、この課題の半紙を先生は繰っていく。

 毎回そうであるように、一本読んではそれの添削をしていただき、そして次の一本に移る……と言う具合。

 先生曰く「指摘したいところを忘れてしまうから」だそうだ。金香にとってもそのほうが有難かったので、そういう方式になっている。

 今夜一番褒められたのは一番初めに書いたもの、つまり三日前に書いたものであった。

 むしろ昨夜書いたものは「あまり良くない」と言われてしまった。枚数も一番少なく四枚目に差し掛かったところで終わってしまっている。自分の心の乱れを表していたような出来であった。

 それでも三本の添削をしていただき、ひと段落となった。

 夜もすっかり更けている。そろそろ湯浴みをして寝なければいけない時間だ。

 が、先生は「少し休憩しよう」と下女に茶を持たせて金香にも飲むように言ってきた。

 あたたかいお茶は指導に張り詰めていた心をほどかせてくれる。緑茶のかぐわしい香りが鼻腔を満たした。

 先生の今日の『高等学校への訪問』のお話を聞いたりしていたが、金香はふと、思った。

 思いついたそのことに急速にどきどきとしてきたが、今が一番良いタイミングである。遅くなれば遅くなるほど不自然になるであろう。

「あの、お聞きしたいことがあるのですが」

「なにかな?」

 視線をやられて金香はどぎまぎとした。

 口に出すのがちょっと怖い。

 けれど抱えたままなのも心地が良くない。

 思い切って言った。

「昨日来られた音葉さんですが、その、……どういうお方、なのでしょうか」

 訊きたいことはたくさんあった。

 お幾つなのか。

 ご家族は。

 門下生から少し離れていた事情は。

 そして、……先生とのご関係は。

 けれど個人的なことも含むうえに、はっきりとひとつには絞れない。よって、随分抽象的な質問になってしまう。

「気になるのかい」

 言う源清先生は何故か楽しそうだった。

 金香は「気になるのか」と言われて困ってしまう。

 確かに気になるが、それをそのまま言うのはなんだか躊躇われた。

「え、ええと……気になるというか……女性の門下生は、私とあの方だけだと聞いたものですから」

「ああ、そうだね。しかしあまり変わらないのではないかな」

 そう言われても金香はさっぱりわからなかった。

 変わらないとはどのような部分がだろうか。

 年齢がだろうか。

 物書きとしての手腕がだろうか。

 どう聞き返したものかと思っている金香に、先生はひとつずつ挙げて言ってくださる。

「お歳は金香のひとつ上だよ。二十になる」

「去年まで、高等学校にも通っていたね」

「そしてお父上が商売をされていて、なかなか歴があるらしい。よって、娘さんを内弟子には出したくないという方針だったそうだ」

「門下生としては、珠子さんが十六の頃かな。見はじめて四年になる」

 ひとつひとつ。胸に染み入るようだったがそれは妙に痛むような感覚だった。

 特に最後のひとつ。

 弟子入りして四年も経っているという点。

 金香はまだ三ヵ月にも満たないというのに。

 遠かった。

 あまりにも。

「このようなところかな」

「あ、ありがとうございました」

 お礼を言った金香に先生は茶をひとくち飲んだ。そしてある提案をする。

「同じ弟子同士として交流してみるのも良いかもしれないね。ここで暮らしているだけあって、茅原などとは話す機会も多いかもしれないが、芦田(あしだ)など、外の門下生と話す機会はあまり多くないだろう」

「……そうですね。それも良いと思います」

 そういうことがしたかったわけではないのだけど、と思いつつもそういうものも確かに良いかもしれない。長く先生に見ていただいているひとだ、手本にできる点は多いだろう。

 けれどあまり気は進まなかった。

 その理由は今日の帰り道でほんのり思い浮かんでいたのだけど。そのことを頭に浮かべるだけでどうにも顔が熱くなりそうになってしまう。

「金香」

 そのようなところへ声をかけられて、金香はびくりとした。

「はいっ!?」

 声がひっくり返ったためか源清先生が不思議そうに首をかしげる。

 うっかり視線をやってしまって目が合った。焦げ茶の瞳とかち合って『顔が熱くなりそう』ではなく、今度こそはっきり頬が燃えた。

「……どうかしたかい?」

「い、いえ!」

 明らかに様子がおかしかったろう。ばくばくと心臓が煩くなる。

 このような状態で先生の前に居るのが恥ずかしくてならない。

「そう。そろそろ夜も更けたから、部屋に戻るかい。明日も寺子屋へ行くのだろう」

「あ、は、はい! では、これで失礼させていただきます!」

 渡りに船とばかりに金香はそれを受け入れ、自分の湯呑と、源清先生の湯呑も回収しておいとました。丁寧に扉を閉めて、まずは湯呑を洗うために厨へ向かう。

 夜は更けたがまだ寝る時間には早いために明かりのついている部屋が多かった。居間の前の廊下を通りかかる。

 暇のある者が好きに過ごしている居間には何人かがいるようで小さく話す声も聞こえてくる。楽し気な声だった。

 その居間の前はそのまま通過し厨に入って水を出した。

 ふたつの湯呑を洗う。

 一人になってほっとしていた。

 源清先生と過ごせることは楽しいけれど、同時にどうにも緊張してしまうものなので。

 今夜は余計にそうだった。



 昨日とは違う意味で今夜は眠れなかった。

 胸が違う意味で騒いで。

 熱くて妙に締め付けられるような感覚。

 湯浴みをして寝支度を整えて。薄い布団をかけて横になっても眠気は訪れなかった。

 「今夜は夜、添削となったから毎日一時間の課題は良いよ」と言っていただけたので、お言葉に甘えて今日は課題をお休みした。

 普段なら「今日は良いよ」と言われても自主的におこなってしまうのだが。

 お言葉に甘えたのはまともに文が書けるかどうかはだいぶ怪しかったので。

 なにしろ胸と頭の中がごちゃごちゃしすぎていて妙なものを書いてしまいそうだった。

 ぼんやりと天井を見つめる。

 見つめるうちに思い出した。

 夏の少し前。屋敷にきて一ヵ月ほどが経った頃、熱を出した。

 怖い夢を見て、泣きながら目が覚めて。

 この天井を見たことで、やっとあれが夢だったことを自覚したのだ。

 そのときよりずっとこの木の天井にも慣れた。

 そして次に思い出されたことに、金香は思わず薄掛けを頬まで持ち上げてしまった。見る者など誰も居ないというのに。

 悪夢を見て目覚めたあと。

 折よく、だろう。源清先生が部屋に来てくださった。

 お見舞いにガーベラの花をくださって。そして。

 ……髪を撫でて、くださった。

 今となってはそのことが嬉しくて、また余計にくすぐったく思う。

 勿論それはただの『弟子への慈しみ』だったのかもしれない。それでも嬉しかった。

 そのときはわからなかったことに今日、気付いてしまった。

 むしろここまで自覚しなかったことのほうがおかしかったのだ。

 姉弟子の音葉さんが妙に気になってしまったのも、言えやしなかったけれど「先生とのご関係が」気になってしまったということだ。

 彼女という存在を知って、そこから『先生にも恋仲の女性がおられる可能性』を思い知って、そして知った。

 自分の気持ちを。

 ずっと敬愛だと思っていた気持ちはそれだけではなかった。

 自分は源清先生に恋をしている。

 だから恋仲の女性がいることは厭だと思うし気になってしまう。

 噛みしめることで余計に恥ずかしくなり頭まで布団に潜り込みたい気分であった。

 が、この気持ちは何故か金香の想像とは違ったものだった。

 恋というのはとてもあまく幸せなものだと思っていたのだが。

 どうもそれだけではない。なんだか胸の奥がぞわぞわするのだ。

 それは言い表すなら『恐怖感』だった。妙な恐ろしさがある。

 なにが恐ろしいのかはわからなかった。

 恋心についてくるものとしては、不安やら嫉妬やらがあるだろう。

 物書きなのだ。

 実体験としてはなくとも、たくさんの文を読んだことでどういうものかということは知っている。

 けれど恐怖感。そんなものが、恋慕の気持ちに付随してくるとは知らなかったし、思わなかった。

 これはなんなのだろう。

 もしかすると、恋とは別の領域なのだろうか。

 そこだけは実体験として理解していない以上、まったくわからなかった。

 実体験以外にも、女友達と会話してもこのような感情を聞いたことはない。皆、幸せそうに恋人のどこが好きかどうかなどと話してくれたものだ。

 たまには「失恋したの」とさめざめと泣く娘もあったが。しかし自分はまだ失恋などはしていないのだから、それにはあてはまらないだろうし。

 金香はある意味冷静に考え、ころりと横を向いた。

 そこには文机がある。先程添削していただいた半紙が乗っていた。

 暗い中、月明かりでほんのりとしか見えないが先生のお手が触れたそれがあるというだけで胸はあまく締め付けられた。

 が、やはり不安感がそれを上回って満たすのであった。

 ずっとふわふわ不透明だった気持ちに名前がつき、自覚したものの。

 一般的な『それ』とはどこか違う気がする。

 もしかするとこの先どうなるかという点がそう思わせているのかしら。

 思って、今度こそ頭の中が煮えて、金香は頭まで掛け布団に潜り込んでしまう。恋仲の男女がすることを知らないわけではないので。

 大体早い女の子であれば、とっくにすべて済ませて子まで産んでいるだろう。

 が、金香にはまだひとつも経験していない領域であった。

 そもそもこの恋はそこへ至れるかもわからないもの。『自覚した』という段階で、やっと芽が出たようなものなのだ。

 まずは想いを告げ、恋仲にならないことにはそんなところへ進まない。それにはほっとするやら『想いを告げる』ということを想像してまた落ち着いてはいられないやらである。

 想いを告げる?

 そんなこと、無理に決まっている。

 大体、音葉さんとか……そうでなくても、ほかに女性がおられるかもしれないのだから。ご迷惑になるでしょう。

 思って今度は不安感に心がしぼむ。

 先生に恋をしている以上、叶ったら良いと思ってしまうのはある意味当然であったので。感情はあっちに振れ、こっちに揺れ、まったく落ち着かなかった。

 眠るなどとんでもない。

 月が真上にのぼり、部屋の中が月明かりで満たされても眠れやしない。まるで月が一晩で新月から満月へと、一周してしまったような長い夜であった。



 翌朝は到底、先生のお顔を見られなかった。

 厨で朝餉の支度を手伝ったものの「寺子屋でやり忘れたことを思い出したので」と自分は朝餉も取らずにさっさと出てきてしまった。

 道を行きながら情けない気持ちでいっぱいであった。先生への想いを自覚しただけで、お顔を見るのも怖くなるなどと。

 そう、妙に恐ろしかった。

 恋をしたのなら顔を合わせて恥ずかしくなる、という事態はあると思う。というかそれが普通であるのかもしれない。

 しかし恐ろしいというのはどういうことか。

 ただそう感じることは確信していたので逃げるように朝から出てきてしまった次第。

 『寺子屋でやり忘れたこと』など勿論嘘であった。出掛ける前、飯盛さんが「なにも食べないなんて、力が出ないよ」とおにぎりを持たせてくれて、嘘をついてしまったことに心が痛む。

 帰ってからは顔を合わせないわけにはいかなかったので流石に覚悟を決めた。

 幸い夕餉の時間まではお会いすることは無かった。夕餉を運んで先生に「有難う」と言われただけで心臓は飛び出しそうになってしまったが。

 普段から門下生では一番下の立場である金香は積極的に話し出すことは無かったのだが、この日は余計に黙々と食事をしてしまった。

 そして今日は添削の日でもない。部屋に戻って、ふぅ、とためいきをつく。

 まるで避けるようになってしまっていた自覚は、おおいにあった。

 が、あの焦げ茶の優しい瞳で見つめられるのが恐ろしかった。今まではどきどきしたりしたにせよ嬉しいと思えていたのに。

 今でもきっと嬉しいとは思うだろう。しかし不安感や羞恥や恐怖心がそれを上回ってしまうであろうことを金香は想像していた。

 そしてそうなってしまったとしたら、源清先生に不快な思いをさせてしまうかもしれない。自分の勝手な気持ちのためにそのような事態になってしまうのは厭だった。

 それでもずっと逃げ回ることなどできない。なにしろ師なのだから。

 少なくとも三日に一度は添削、指導されている身。

 それから逃げるなどそちらのほうが失礼ではないか。



 翌日は添削に呼ばれてしまったので断れるはずもなく、金香は夕方、先生の自室へ赴いた。

 どうしても目は合わせられなかったのだが。

 とはいえ源清先生がなにか気にした様子はなかった。「いらっしゃい」と迎えてくださり、金香がお渡しした半紙を受け取ってくださり。

 金香はその前にちんまりと正座した。下を向くしかなかったのだが。

 先生が顔を曇らせたのは、金香の提出した半紙をすべて読んでからだった。三日分溜まっていたのに一日ずつ見てくださることなく、すべて読んでしまって、そして言われた。

「どうにも、不調のようだね」

 不出来なのはわかっていた。作品に落ち着かない心が反映されてしまっているのだ。良い作品などできるはずがないではないか。

「体調でも良くないかな」

 しかし先生はこんな不出来な作品を見ても、叱りつけることなどしなかった。

 師によっては「こんなもの」などと怒鳴られても仕方がないものを出してしまった自覚はある。

 ただ、今日は添削をすることなく金香の半紙は先生の文机に置かれてしまった。それが一番の『不評価』なのであったが。

「そのようなことはないのですけど……」

 視線もやれずに金香はそう言うしかない。

 源清先生はちょっと黙った。

 叱られるだろうか。

 違う意味で身が凍ったのだが。

「そうかい。では、単純に停滞期ということかな」

 先生が言ったのはその程度のことであった。

 金香はむしろ拍子抜けした。確かに物書きにとって順調な日ばかりではないだろうけど。

「こういうときはただ机に向かっても、丸めた紙だけが増えてしまうこともあるよ。気分転換をしてみるのも一案だ」

 いえ、先生のせいなのです。

 などとは勿論言えやしない。

 言えないがそれは救いだった。

 気分転換。

 気を紛らわせることをしてみるのも良いかもしれない。

 先生から離れて。

 思ってなんだか寂しくなってしまう。視線も合わせられなくなっているのは自分だというのに。

「課題は少し休みなさい。とりあえず、三日。週が明けたらまた書いて、今度はその日に持っておいで」

 今日はそれだけで帰されてしまった。

 おいとまして金香は、はぁ、とためいきをついてしまう。

 自覚した気持ちに振り回されている。文もまともに書けなくなってしまうくらいに。

 それを先生に知られてしまったことが門下生として一番恥ずべきことであった。

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