不自然な化粧

 翌日は普段通りの時間に目覚めた。

 起き上がり着替え、布団をあげる。顔を洗って化粧をしたら一日のはじまりだ。

 朝餉を作って皆で食して、片付けたら寺子屋へ出勤。

 今日は早めに、お茶の時間くらいには終わる予定だから屋敷で必要なものがあるなら町で買い出しもできる。なにかあるか訊いておこう。

 思いながら厨に入ったのだが、既にお米をといでいた煎田さんにちょっと笑みを浮かべられた。

「おはよう。おや、金香ちゃん、今日はお出かけかい?」

 言われた意味がわからなかった。確かに出掛けるけれど、普段通りの仕事でしかない。

「え? 寺子屋のお仕事くらいですけど」

「そうかい? いつもより綺麗にお化粧をしているから」

 言われて驚いた。そんなつもりはなかった。用事なんて寺子屋の勉強の仕事をするだけだ。

 それなのに化粧が綺麗、つまり濃い?

 どうしてなのか、自分に戸惑った。

「お、おかしいでしょうか」

「いいや、そういうわけじゃないよ。でも逢引でもあるのかって思って」

 逢引。

 ぽっと顔が熱くなる。

 金香はそのようなことをしたことがなかった。交際などもしたことが無いので当然ではあるが。

 女友達は何度も「今日はディトなの」などと楽しそうに話してくれたことがあるし憧れはするのだが、機会も余裕もなかったし、ついでにご縁もなかった。

 なのでなにひとつそういうことはなく、ここまできてしまったわけであり、それが金香に『そういうこと』について鈍くあらせてしまったわけでもある。

「無いです! ええと、今朝はお魚を焼くんですよね」

「ああ。昨日、良い干物が買えたからね」

 ちょっと強く言ってしまった金香だったが煎田さんはさらっと答えた。

 竹の皮に包まれた鯵の干物。魚の生臭い香りがするが、これも焼けば良い香りに変わる。

 意図せずとはいえ、はしたなくも「違う」などと強く言ってしまったことを少し後悔しながら金香は七輪に火を入れようとした。

 寺子屋でもそう思われてしまうのならば一度落として、いつも通りになるように気を付けて化粧しなおしたほうがいいかしら、などと思いながら。



 そしてその通りだった。皆で食事を摂る部屋に朝餉を運び、源清先生の前に膳を置いたときに顔をじっと見られてしまったのだから。

 朝だというのに眠たげな様子もない普段通りの焦げ茶の目で見つめられてはどきどきしてしまう。昨日気にしてしまったこともあり。

「金香、今日はお出かけかい?」

 言われて金香は心底後悔した。

 寺子屋に出かける前ではなく、皆で朝餉を取る前に化粧しなおすべきだった、と。

 源清先生にも奇妙に思われてしまった。

 なにかあったのかと思われてしまったのかもしれない。

 いや、『なにかあったのか』という事態がなんなのであるか、金香のほうが知りたいくらいであったのだが。

「い、いえ、これはちょっと……失敗したようで」

 顔を隠したい気持ちで言った金香だったが、源清先生に言われたことに心臓が喉から飛び出すかと思った。

「そう? いつもより綺麗だと思うけれど」

 厨で感じたときとは比較にならなかった。はっきりと頬が赤くなっただろう。

「そうだよねぇ、金香ちゃんは美人さんだから」

 今度は飯盛さんも言ってくれる。今朝、飯盛さんは朝の野菜売りを捕まえにいっていたので、朝餉のできる直前に厨にやってきていてろくに顔も合わせていなかったのだ。

 褒められるのは嬉しいがあまり話題にされるのも恥ずかしい。

 どうしたものかと思っていたところへ志樹がぼそりと言った。

「麓乎。今日の予定は?」

「……ああ。午前中は高等学校へお邪魔してくる」

 話題は真反対へ変わった。金香はほっとする。

 そして思った、志樹は助け舟を出してくれたのだろうか。

 そうかもしれない。金香が戸惑っていたのは明らかだっただろうから。

 助かった、と思いながら金香は自分の席に着く。

 この家では基本的に皆、集まって食事をとることになっている。

 初めて教えられたときは驚いた。男性が先にいただき、女子は給仕をして、そのあといただくというのが普通だと思っていたので。実際、父親が家に居るときは金香もそうしていた。

 しかし西洋では皆で同時に食べるのだと教えられて、それにのっとっているのだと言われた。この家ではなんでも『新しいこと』を重視している。

 志樹とふたことみこと話して源清先生は再び金香に視線を向けた。

 先程のこともあり金香は妙にどぎまぎして顔を俯けそうになってしまう。失礼になるのでなんとか我慢したが。

「金香、夕方から添削予定だったけれど、夜になってもいいかい?」

 言われたのは予定の変更であった。

 きっとなにかご用事があるのだろう。金香に断る理由はなかった。

 はい、と端的に返事をする。

「昨日、珠子さんから預かった原稿の添削がまだ終わっていなくて、少しかかりそうなんだ」

 しかし言われた『ご用事』に金香の胸はまたざわつく。

 音葉さんは先生に原稿を預けていったのだ。

 それはなにも不自然ではないことなのに。

 門下生ならむしろ当然のことなのに。

 なんだかざわざわして落ち着かない。それでも言った。

「はい、私は大丈夫です」

「うん、有難う。予定を狂わせてすまないね」

「いえ、そのようなことはありません」

 そのまま「いただきます」と先生が言い、食事になった。

 食事は喋らず、静かにするのが通例。皆、黙々と食べることに集中した。

 魚をつつきながら、やはり金香は落ち着かなかった。

 化粧のことだけではなく、音葉さんの存在と持ち込んできた原稿やらそれに先生が手を入れることやらを妙に気にしてしまって。

 それを考えることはあまり心地良いことではなかった。まるでうっかり噛んでしまった魚のわたが苦く感じたかのように。



 結局、指摘された化粧は落としてもう一度やり直した。寺子屋でもからかわれてはかなわない。

 今度は「いつもどおり」「いつもどおり」と意識しておしろいをはたいて、頬紅を入れた。

 『いつもどおり』を意識しないとできないなど、なにかおかしい、と思いながら。

 むしろ『特別な化粧』をするほうを普通は意識するものではないのだろうか? と、最後にくちびるに薄く紅をさしながら金香は首をかしげてしまった。

 今のところ『特別な化粧』をする機会など、金香には友人の祝言に招かれたときなどしかなかったのだが。

 その『いつもどおり』のおかげか、寺子屋では特になにも言われなかった。

 寺子屋での仕事は何事もなく終わり、半日と少しの仕事のあと金香は帰路についた。

 屋敷で「香を買ってきて欲しい」と言われていたので店に寄るつもりであった。初めてお逢いしたとき感じた、源清先生の使っている香だ。

 先生は香が好きなようで、下女がいつも衣服に焚き染めていることを住まってしばらくしてから金香は知った。まるで昔の貴族のお姫様のよう、と思いながらも、うつくしい容姿をしている源清先生には似合いすぎていたのでまるで違和感などなかった。

 それに使う香が少なくなってきていたので買ってきて欲しいというわけだ。普段は雑用をこなす下男が買いに行くことが多いのだけど、やはり身分差がない以上、手の空いている者や、ついでの用事のある者がこなしてかまわない用事である。ゆえに今日は金香がその役をすることになったというわけ。

 こだわりが強いので、同じお店の扱っている同じものでないととの先生のご所望だそうだ。金香もすでに何度か買いに行ったことがあったので店の場所は覚えていたし、店主とも顔なじみになっていた。今日も「源清先生のお香だね」と、すんなり香を箱で出された。

「何箱かい」

「三箱くださいませ」

「あいよ」

 老齢に差し掛かった店主が箱を包んでくれる。銅貨を出して、金香は包みを受け取った。

「毎度」

 店主の声を背に、店を出て帰路につく。

 やわらかな紙に包まれた香の箱。先生のお好きな香り。

 それを今、抱えていることがなんだか嬉しい。

 昨日から感じていたもやもやした気持ちがなくなっていたように感じていたのにそれが復活してしまったのは、町の中心へと差し掛かったそのときだった。

 特に珍しいものを見たわけではない。

 ただ、男女二人が寄り添って歩いていた。明らかに恋仲か夫婦である様子で。

 愉しげな様子だった。

 女性は男性に寄り添い腕を添えていた。

 逢引。

 洋風に言えばディト。

 知らない男女の姿を見ながら金香はぼんやりその言葉を反芻していた。

 源清先生とあの方、音葉さんがあのように並んで歩いていたら、逢引のように見えるかもしれない。

 想像しただけで昨日と昨夜感じた、もやもやした気持ちが再び湧いてきてしまったのだ。

 お歳は訊かなかったが金香と同じか、少し上。恋仲の男性の一人もいておかしくないだろう。

 そしてあの方は、いつからかはわからないが少なくとも金香より先に源清先生に弟子入りしている、姉弟子となる立場。源清先生のことも金香よりよく知っているのだろう。

 それはなんだか寂しく、また悔しいとも思ってしまった。

 腕に抱いた香の包みを思わず、ぎゅっと抱きしめていた。

 心もとなかったので。

 自分のこの気持ちがなんなのか。

 なんとなく思い当たるような気がしてしまった。

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