姉弟子の来訪
夏もすっかり盛りになった。浴衣一枚でももう暑い。
涼を取る道具としてはうちわくらいしかないのでなかなか厳しい季節である。
ただ幸いこの町は平地であるのでそこまで暑くはない地域だ。盆地や海のそばだともっと暑いのだと聞いたことがある。
あちこちを半ば旅をしているようなものである父親に。
そして別の場所に住んでいたことのある、町の人に。
とはいえ、それはただの比較問題であって、暑いものはどうしたって暑いのだけど。山のほうへ行けばここよりもっと涼しいのだし。
それはともかく、この町を出るつもりはない以上この暑さも享受しなければいけないということ。毎年のことで「そういうものだ」とわかっているとはいえ、多少は憂鬱である。
来月はもう丸々ひとつき暑さが続くだろう。立秋を過ぎてしまえば一気に空気は秋のものになるのだが。
それでも涼をとる手段はたくさんあった。
水桶に水を張って足を浸けるだの、冷やしたすいかなどを食べるだの。
町中でも氷売りの商売が盛んになっていた。氷を削り、蜜をかけたものはとても美味しい。そういうものを食べられるのは夏ならではの特権なので、一概に嫌いともいえないのであった。
今日は寺子屋の仕事もなく、また先生からの課題や自主勉強も夜の涼しい時間にやろうと思っていたので、金香は屋敷のことを片付けていた。
洗濯は朝した。
自室の掃除もした。
せっかくなので廊下の雑巾がけまでした。
汗をかく季節なので、いろんなひとが裸足で歩き回る廊下は頻繁に拭いておきたいものだ。
それもひと段落つき。
昼食後に金香は障子の外を見て思いついた。
打ち水をしようか。道行くひとたちも少しは涼しくなるのではないだろうか。
そんなわけで金香は庭へ出て水を汲んだ。金属のばけつに入れた水を柄杓ですくい、屋敷の前へまく。
通りがかるひとに水をかけてしまうといけないと思ったので周りを気にしながら。
屋敷の近所のひとたちにもすっかり慣れたので何人かの人々に会った。
玄関の樹の手入れをしに来たらしいお隣のおじいちゃん。
買い物に行くらしい一間隣の小母さん。
「精が出るね」と声をかけてくれた。
水も一通りまけて、金香は、ふぅと息をついた。
屋敷の前は水ですっかり濡れた。これが蒸発することで地の熱を奪って涼しくなるという仕組みらしい。
科学の領域らしく金香はそちらにはあまり明るくなかったのだが寺子屋の教師が言っていた。
暑い季節は寺子屋でも打ち水をするものだ。
今度暑い日に子供たちとしてみようか、と思う。
寺子屋が涼しくなる以外にも子供たちが「こうすると涼しくなる」と学習して、家でもするようになってくれたらいいと思うのだ。
こうして色々なことを学習していく子供たち。寺子屋はやはり、勉強だけでなく生活の手段を覚えるにも大切な場所である。
明日は寺子屋での仕事が入っていた。
ああ、そちらの準備もしないと。
思いながらばけつを持ち上げようとしたときだった。
道の向こうから女の人がこちらへ歩いてくるのが見えた。
あら、随分ハイカラな方。
金香は思った。
レェスのついたぶらうすに袴を合わせていたので。
おまけに長い黒髪は高い位置でくくられていた。
きりりとした印象の綺麗な女性だ。年齢は金香と同じくらいか少し上に見えた。
その方は「慣れた場所」という様子でつかつかと歩いてきて、あろうことか屋敷の前まできて足を止めた。
近くで見てわかったが履物も下駄や草履ではなく靴である。
あらまぁ時代の最先端だわ。
金香は感心した。
「こんにちは。お邪魔してもよろしいかしら?」
声をかけられる。
きっと源清先生かもしくは屋敷の誰かの知り合いなのだろう。
源清先生は小説家である上に門下生をたくさん抱えている身。知り合いは相当多い。
そのどなたかだろうと思い金香は笑みを浮かべて小さくお辞儀をした。
「はい。源清先生のお知り合いですか?」
何気なく言ったことだったが、返事に金香はちょっと驚いてしまう。
「はい。……あら、貴女が新しい門下生? 私も源清先生の門下生なのです。最近、少し用事でご無沙汰してしまっておりますが」
言われてすぐに思い当たった。
「もしかして、音葉(おとは)さんですか?」
お名前だけはうかがっていた。そのお名前を口に出すと目の前の女性はそのまま頷く。
「ええ。音葉 珠子(おとは たまこ)と申します。貴女は……巴さん?」
「はい。巴 金香と申します」
あちらにも話は通っていたらしい。
「今日は先生とお約束をしていて……いらっしゃいます、よね?」
彼女が言ったとき、金香の後ろからよく知った声がかかった。
「珠子さん、いらっしゃい。お久しぶり」
庭先まで出てきていらしたらしい源清先生だった。
音葉さんはぱっと顔を輝かせて「先生! ご無沙汰しております」と言う。嬉しそうな様子で。
そのとき金香の胸がざわりと騒ぐ。それは金香の意識の外の、女性としての本能だったのだろう。
「さぁ、どうぞ」
「お邪魔いたします」
やりとりをして源清先生は「金香、しばらく指導に入るからね」と言い、彼女を伴って屋敷に入ってしまった。
それを「はい」と見送りながら金香はしばらく立ち尽くしていた。
あの方が。
私以外の女性の門下生。
初めてお顔を見た。
胸が妙にざわざわして落ち着かない。これからいつも添削をしてくださる部屋でなにか会話をしたりするのだろう。
そのことは想像したくない、と何故か思った。
このような感情を覚えたのは初めてのことで混乱を覚える。
源清先生が「金香」と金香の名を、つまり下の名だけで呼んだとき、音葉さんがひとつまたたきをして、ちょっと金香を見やったことにも気付かなかった。
彼女、音葉さんは夕刻前には帰っていった。
「先生、お世話になりました」
何故か自室でそわそわとなにも手につかずに過ごした、数刻。
日が暮れる少し前に外から、廊下からそのような彼女の声と先生とのやりとりが聞こえた。
ああ、お帰りになるのだわ。
廊下をひとの歩く気配がして、玄関のほうでやはり声がした。
金香は音を立てないようにそっと自室の扉を開ける。
細く開けた扉の向こう。先生の背中が見えた。音葉さんを見送っているのだろう。
彼女の姿は見えなかった。もう履物を履いて玄関に立ってしまったのだろう。
「ではね」という先生の言葉を最後に靴音が土を踏む、じゃり、という音が聞こえた。
音葉さんが帰られる。
つまり先生が屋敷の中へ戻ってこられる。
金香は慌てて、しかし音を立てないように気を付けて扉を閉めた。
部屋の中で正座をしながら金香は戸惑っていた。
このような覗き見をするようなことを。
どうしてこんなことをしてしまったのかすらわからなかった。
そしてほっとしてもいた。彼女が帰ったことに。
やはりどうして落ち着けずにいたのか、そして彼女が帰ったときほっとしてしまったのか。
それは一言でいうならあの女性が先生と恋仲なのではないか、と思ってしまったから。
ありえない事態ではないだろう。というかその可能性は高いと、少なくとも金香は思ってしまった。
そして思った。
これまで先生の周りに女性の気配を感じたことは無かったと。
兄である志樹も婚約者がいるというのだ。少し年下とはいえ先生ももう所帯を持ってもおかしくないような年齢だ。恋仲の女性くらいはいらっしゃるのでは。
ここまでまるでその類のことを考えなかったのはどうしてだろう。
金香はそのことにも戸惑った。
もしかすると、自分は先生のことをあまりよく知っていなかったのでは。
いえ、別に先生に恋仲の女性がいらしても。
そこは先生の個人的な事情なのだから私が踏み込んでいい領域では。
しかし考え込みすぎて日が暮れたにもかかわらず厨の手伝いに出るのも忘れていた。
やっと気づいて慌てて厨に駆け込んだときには既に夕餉の支度は整っていて「金香ちゃん、お昼寝でもしていたのかい」と煎田さんにからかわれてしまった。
その夜もなんだか寝つきが悪かった。
夜やろうと決めていた課題は終わらせたしいつも通りの時間に布団に入ったものの、しばらくごろごろとしてしまった。
寝返りを打って障子越しの月のあかりを眺める。
初めてお会いした音葉さんは綺麗な女性だった。
自分とはまるで違うタイプだ、と思う。
洋装を取り入れた新しい服。
まっすぐな長い黒髪。
きりっとしていてそれこそ『時代の先を行く女性』を象徴しているような強さを感じさせる雰囲気があった。
その点も金香の胸をざわつかせた。
先生は『時代の先端』に敏感で『これからは女性の地位をあげていくこと』にも肯定的であったので、もしかして先生はそこを気に入られたのではないかしら。
などと思ってしまい、金香は自分に驚いた。
先生はあの方のことをどう思っておられるのかしら。
ようやく眠気がやってきて、うとうとしながら無意識の範疇で金香はそう思っていた。
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