風邪引き弟子
その日は朝起きたときから違和感があった。
喉が痛い。
布団から起きた金香は喉を押さえた。
昨日は寺子屋に行ったのだ。歌の勉強もした。
子供たちに交じって声をあげて歌った。そのせいかとはじめは思った。
が、そうではないことにすぐに気付いてしまう。
布団をあげて着替える頃にははっきり自覚をした。
頭がなんだかぼんやりする。熱でもあるようだ。
でも金香はどうしたら良いのかわからなかった。
今日は寺子屋の仕事はないが屋敷のことに休暇はない。
「金香ちゃん、顔色が悪いよ」
はじめに指摘をしてきたのは厨房の飯盛さんであった。朝餉の手伝いをすべく、厨に入るなり言われた。
「具合が悪いんじゃないのかい」
言われて認めざるを得なかった。
顔を合わせてすぐに指摘されるほどに体調が良くないようだ。今までの経験上、風邪かなにかなのだと思う。
「そうかもしれません」
肯定した金香に飯盛さんは言った。
「熱があるかもしれない。お部屋で寝ておいで」
「でも……」
金香が言った言葉は、ぴしゃりと叩かれる。
「具合が悪い人を仕事になど駆り出せないよ。休むのも仕事だ」
言われてしまえば言い返すことなどできなかった。金香は「はい」と答えて部屋に戻るしかない。
一度上げた布団をおろして寝着に着替えて横になった。
もう夏、掛け布団も薄掛けになっていたがなんだか寒い。
これは本当に風邪だわ。
はっきり悟り、この時点ですでに「早く治さなければ」と思った金香だった。
体の不調はすぐに眠気となって表れ、金香はうとうとしだした。
少し休めばすぐによくなると思ったのだが、事態はどうやら金香の思っていたよりも重かったらしい。
うとうとして目が覚めたとき、どうやら一時間ほどしか経っていなかったようだが。今度ははっきりと不調が出ていた。
熱が出ている、と自覚してしまう。
頭が熱い気がするのに寒気を感じるのだ。
お薬を飲まないと。お医者にかかるほどではないと思うけれど。
思って、薬のひとつもあるだろうと部屋の外へ出ようとしたのだが、すっかり朝も過ぎた時間に夜着で自室の外へ出るのは躊躇われた。
夜分の手洗いは偶然であるが自室の近くであったので、そう心配もせずに夜着のまま訪れていたが。
いったん着替えて飯盛さんかどなたかに聞いたらいいかしら。
でもそれもおっくうに感じてしまうほどであった。それよりもこのままもう一度横になって眠ってしまいたい。
けれどそれがいけないことであることくらいはわかっている。
眠っていても回復しないことだってあるのだ。
しっかり栄養を取り、薬を飲まなければ回復は遅くなってしまう。
なので自分を叱咤して着替えようとしたのだが。とんとん、とそのとき扉が音を立てた。
「金香ちゃん。起きているかい」
飯盛さんだった。なんというタイミングか。
金香は心底感謝して、「起きております」と返事をした。そして扉を開けるために立ち上がる。
それだけなのに体がふらついて、不甲斐なく思った。
鍵をはずして扉を開けると声のとおりに飯盛さんが居た。
「ああ、起きられて良かった。でもやっぱり具合は良くないみたいだね」
飯盛さんの手には盆があった。ほかほかと湯気を立てているお粥と水差しが乗っている。
金香は驚いた。
お粥など。少なくともここ数年は誰かに出されたことなどなかった。
体調を崩していても無理を押して自分で煮ていたものだ。
「食べられるかい。少しでもおなかに入れておいたほうがいい」
「良いのですか」
「なにを言うのさ。むしろ食べてもらわないと困るよ」
やりとりのあと飯盛さんによって金香は部屋に押し込められた。
ここにきて遠慮するのも無粋だ。優しさに甘えることにする。
金香は有難く梅干しの乗ったお粥の椀を手にした。
だが、匙ですくって口に運んでも喉が痛くて飲み込むのがつらい。もともと食欲もあまりなかったのだ。
でも残すのも飯盛さんの心遣いを無にするようで悪い。
金香は頑張って、ゆっくりではあるが粥を飲み込んでいった。が、どうしてもすべては食べられない。
半分ほどを食べて途方に暮れた金香の顔を見てだろう。「食べきらなくていいんだよ」と飯盛さんは言ってくれた。
そして「風邪だと思うから、この薬を飲んでもう寝てしまいなさい」と、紙に包まれたものを差し出してくれる。
「ありがとうございます」と金香はおとなしくそれを受け取り、水差しの水で粉薬を飲む。漢方薬であろうそれは非常に苦かった。
「これで良くならなければ、明日、お医者を呼ぼう」
粥を食べ、薬を飲んだ金香に寝るように言いつけてから飯盛さんは言った。
そんなこと、休んでいれば大丈夫です。
と言おうと思ったのだが、ここまで体調を崩してしまっていて、そう言うほうが失礼である。金香はその言葉を飲み込んだ。
もう一度「ありがとうございます」とだけ言い、失礼ながら、布団に潜る。
「先生や屋敷の人には言っておいたからね。心置きなく寝なさい」
飯盛さんは言い、布団に潜った金香に手を伸ばした。額に触れる。
そして「ああ、やはり熱い」と言ったあと優しい言葉をくれた。
「疲れが出たんだね。引っ越してきて、知らないうちに緊張していたんだろう」
飯盛さんの優しさは金香の胸にじんわりと染み入った。
風邪をひいてここまでひとに良くして貰ったことなど随分久しぶりだった。
泣きだしそうに顔を歪めた金香を見てだろう。飯盛さんは金香を勇気づけるように笑みを浮かべてくれた。
「大丈夫だよ。また、私や煎田さんが様子を見に来るから」
そう言って、「きちんとお休み」と出ていった。
あたたかなお粥を食べたおかげか、寒気は少し引いていた。
でもそれはきっと、お粥のためだけではない。
優しい心遣いに触れたから。本当にお母さんのよう。
金香はあたたかい気持ちになり、また体調を崩して心細くなっていたところであったので眠りにつく前、一人の自室で少しだけ涙してしまった。
眠っては起き、を繰り返したのだが結局翌朝になっても熱は引かなかった。
金香が思ったよりも事態は良くなかったらしい。
飯盛さんと煎田さんが朝、様子を見にきてくれて少し話し合ったあと、医者を呼ぼうという話になった。金香はただそれに甘えるしかない。
医者がきたのは昼前であった。
胸に聴診器を当てられたり喉を診られたりと、簡単な診察であったが結果は「普通の風邪でしょう」とのことだった。
風邪薬と喉の炎症が酷いということで喉の薬も出される。
喉の薬は小さな飴玉のようなものであったが「噛まずに舐めて摂る」と教えられた。味がつけられているようで苦くはなかったが美味しいものではなかった。
それでも早く治すためにはきちんと薬を飲むしかない。薬など誰でも好きなものではないだろうが仕方がない。昼にまた作ってもらった粥を食べて、薬を飲んで寝た。
ただ眠ったのだが……奇妙な夢に迷い込んでしまったようだ。
夢の中で金香は白い靄のような中に居た。妙に心細くてあたりを見回すのだが誰も居ない。
誰か、居ないの。
思って足を踏み出した。
歩きだしてから気付いたが裸足だ。夏だというのに足はひんやりと冷たかった。
歩いていくうちになにかが見えてきた。
あれは通い慣れた寺子屋。あそこならきっと、誰かが。
見えたのは庭ではしゃぐ子供たち。教師も何人か見える。
ほっとしてそちらに歩みを進めたのだが、誰もこちらを向いてはくれなかった。金香に気付いた様子もない。
どうして?
近付いていっているのに。
そのうち、すぅっと靄が濃くなった。
同時に寺子屋の風景が丸ごと遠くなっていく。すべてが金香から逃げてしまうようだった。
どうして?
待って。
思って手を伸ばしかけたのだが遠くへ、遠くへ行ってしまってやがて見えなくなった。
金香はなにが起こったのかわからずに、呆然とそちらを見るしかない。
ふと右へ視線をやると、次に見えたのは父親だった。
お父様!
思わず呼んでいたが、父親もまた金香に気付いたような様子は見せない。
おまけに金香は気付いた。
父親の隣に女性がいる。金香はすぐに悟った。あれは顔も知らぬ、金香が存在だけを察していた女性だ。
父親に腕を絡め、寄り添い、睦まじい様子を見せていた。
父親は独りではないのだ。
……自分とは違って。
足が止まってしまった金香にかまうことなく、二人もまた、すぅっと遠くなって霞の中へ消えてしまった。
見えたふたつのことに金香は愕然としていたのだが、次に見えたものにぎくりとした。
あれは屋敷。もう良く知っている金香の現在の住まいだ。
源清先生や志樹、働くひとたちの住んでいるところ。
まさかまた消えてしまうのでは。思ったことに金香は震えた。
見たくない。
思ったのに目をそらすことも踵を返して逃げ出すこともできなかった。
見ている先に人が現れた。
屋敷の庭に出ているのは源清先生。ただしこちらに背を向けていた。長い髪が揺れている。
後ろ姿でもすぐにわかるそのひとが見えたことで、金香は怖くなった。
このような場所で目にすることには不安しかない。
だってここまでで親しい人たちは皆、視界から消えてしまったのだ。きっと同じようになってしまう。
恐怖感が胸を満たし、金香は思わず声を出していた。
……源清先生!
自分の声が確かに耳に届いた。
が、先生には届かなかったらしい。
先生は背を向けてなにかをしているようだ。金香に気が付くことなく。
……先生。
金香はもう一度呼んだ。
その声に、視線の先の源清先生の肩がぴくりと揺れる。そして振り返ろうとするような仕草が見えた。気付いてくださったのだろうか。
金香の胸に期待が溢れた。
しかし。
先生のお顔が見える、と思った瞬間、ぶわっとなにかが目の前に散った。たまらず金香は顔を覆う。
細かな雪のようなそれは、満開の桜が強風に煽られて散ったようだった。
視(み)えない。
花びらが覆ってしまって、先生のお姿が。
花びらをのけようと手を振るのに、花びらはちっともやまなくて。
そのうち吹いていた風がやんだように、花びらの散る様子は静かになっていった。
ああ、これでやっと視える。
ほっとした金香だったが。
その先にはなにもなかった。
先生のお姿だけではない。屋敷も庭もなにも見当たらない。
状況がわからずに金香は呆然と立ち尽くした。ただ靄のかかったなにも無い空間だけが視界の先にある。
また独りになってしまった。
そんな気持ちが胸に迫ってきて、ぶるりと体が震えた。
寒い。
裸足の足先から冷気が這い上がってきたようだった。
こんなところに独りきり。
自分の前から誰もかれもが居なくなってしまう。
胸に感じた恐ろしさが膨れ上がって零れそうになったとき。
金香ははっとした。目を開けた先には木の天井が見える。
数秒、なにが起こったのかがわからなかった。
さっきまで視ていたものはなんだろう。
体は凍ったように固まっていた。
天井をただ見つめるうちに金香の意識はだんだん体に戻ってくる。
これは私の部屋の天井。もう随分馴染んだ、起きたときに見えるもの。
起きたとき。
つまり自分は眠っていて。
つまり夢を見ていて。
……すべて夢だったのだ。
自覚してほっとした。凍り付いた体はすぐにはほどけなかったけれど。
まず手を動かそうとしてみる。
指が動いた。
腕を曲げてみる。思った通りに動く。
背も向けられなかった夢の中とは違う。
詰めていたらしい息が、ほう、と零れて、ようやっと体から力が抜けた。布団に体を預ける。
先程のものは熱が見せた悪い夢。
やっと理解したけれど非常に恐ろしかった。
視た夢は示していた。
金香の胸のうちに、自分の傍から誰も居なくなってしまうのではないかという不安があったことを。
そんなこと、起こるはずがないのに。居なくなってしまうなどありえないのに。
けれど夢に視てしまっては落ち着いていられない。
金香は起き上がって、そして気付いた。
体を起こしたことでぽろりと頬に流れたもの。
寝ている間か、夢から目覚めたときか。涙が出ていたらしい。
恐ろしかった。
それを噛みしめてしまい、金香は上半身を起こした姿勢で膝を立て、布団越しに顔を埋めた。
大丈夫、ただの夢。
ただの夢。
熱が出たから心細くなっただけ。
自分に言い聞かせる。それでも不安感はなかなか去らなかった。
起きて屋敷の誰かに会って、独りではないと感じたい。
けれどまだそんな気力や勇気は。
膝を抱えてぼんやりとしていたそのときだ。
こんこん、と扉が叩かれる音がした。金香は無意識のうちにびくりと体を震わせる。
それが『誰かが訪ねてきた』という事実を示していることすらすぐにはわからなかった。
まだ夢の余韻かもしくは熱のせいか、ぼうっとしているようだ。
数秒、動けなかった。そこへ聞こえてきたのは。
「金香。起きているかい」
優しい響きを帯びた心配そうな声だった。
声だけでそれが先生だと金香は理解した。
どうして先生がこちらへ。
思ったがすぐに気付いた。自分を気づかってきてくださったのだ。
思った途端、意識ははっきりとこの場に戻ってきた。どくんと心臓が跳ねる。
先生。
先程、桜の花吹雪の向こうに消えてしまうのを視た。
ただの夢だというのに不安になってしまっていたところへ。
今、扉の前にいらっしゃる。
……お逢いしたかった。
金香が思考の整理をするためになかなか返事ができなかったためか、数秒後にもう一度扉が叩かれた。
「……眠っているのかな」
小さな声だったが確かに聞こえた。
金香はもう一度はっとした。このままでは帰られてしまう。
ばっと顔をあげて、やっと口を開いた。
「お、おき、て……おります……」
出てきた声は掠れていた。寝起きだからという理由以外にも喉が本調子ではないのだ。
「ああ、良かった」
それでも外からは、ほっとしたという声音の先生の声が聞こえた。
「風邪を引いたと聞いて。遅くなってしまったが、お見舞いに来たのだけど」
お見舞い。
その言葉に金香の胸に歓喜が湧いた。
わざわざ私に会いに来てくださった。
ご心配してくださった。
先生の言葉が示している事実が次々に押し寄せてきて、今度は恐怖感にではなく胸が絞られた。
それはなんだか甘さを帯びているようだ、と思ったのだが。
「入っていいかな」
言われて戸惑ってしまう。
お逢いしたいのは確かだった。
が、寝起きで夜着姿である。髪なども乱れているだろうし顔も洗っていない。
おまけに昨日から湯浴みも出来ていないのだ。
お逢いしたいけれどみっともない姿は見せたくない。
悩んだけれど。
「あ、あの……あまり良い格好では……」
おずおずと言ったのだが源清先生の声の調子は変わらなかった。
「気にしないでほしい。私はきみの師だ。まるで他人ではないのだから、出来るならば顔を見せてほしい」
そう言われればもう断れるはずがないではないか。
「ええと……す、少しお待ちいただけますか……」
それは了承されたので金香は覚悟を決めた。
が、完全に寝起きのままでは駄目だ。女性として。
起き上がり、急いで鏡に向き合い髪をとかす。
水を使って整えられないので癖は直らなかったが、元々ふわふわした髪はあまり思い通りにはならない。
顔は洗えないので鏡を覗き込んで汚れが無いかだけ確認した。
このようなみっともない姿はお見せしたくないと思うのだったが今、お逢いしたいのも本当だった。あんな夢を見たところだったので。
鏡を覗いて自分の顔を見て気付く。
目が赤い。そのうえ目元にも痕がついていた。
起きたときに涙が零れたと思ったのだが眠っている間も余計に泣いていたのだろうか。
目元を軽くこすったが消えやしない。これはどうしようもなかった。気付かれてしまっては恥ずかしいと思うのだが。
時間がなかった。
着替えるのをお待たせするのも悪いと思ってしまったので箪笥から薄い羽織を取り出して身を覆う。夜着一枚よりかはましに見えるはずだ。
なんとか最低限の格好をつけて。
すう、と金香は息をひとつした。
大丈夫。
桜の花も散らないし先生も消えやしない。
……大丈夫。
扉に近付いて鍵を開けた。おずおずと開ける。
「すみません……お待たせしました」
視線をあげると、そこには確かに源清先生が居た。金香を見てほっとしたような表情を浮かべてくださった先生が。
「いや、こちらこそ急に押しかけてすまなかったね」
先生の優しい表情、声、言葉……そのすべてが金香に安心をくれた。
が、同時に妙に心臓が高鳴ってしまって仕方がない。
みっともないと思われないかしら。
でもお逢いできて嬉しい。
自分の感じる気持ちがたくさんありすぎて、金香はどう表したら良いかわからなかった。
総合する感情など本来、ひとつしかないのであるが。
布団をのべたままで恐縮ではあったのだが部屋に入っていただく。
そこで気付いた。源清先生がなにかを手にしていることに。それは数本まとめられた花だった。
橙と黄色の華やかな花。
ガーベラ、とかいっただろうか。西洋からきた花だ。
座布団に座り、先生はそれを金香に差し出した。
「つまらないものだけど、病床の慰みにでもしておくれ」
「いえ! とても、……綺麗です。よろしいのですか」
とっさに言ってしまったが源清先生は笑った。ちょっと困ったような笑みだった。
「きみのために持ってきたのだよ」
「あ、……りがとうございます」
遠慮しすぎたようだ。申し訳なくなりながらそれでも金香は花束を受け取った。
手にすると良い香りがほのかにする。
西洋の花。このあたりでは咲いていない。
どこで手に入れてくださったのだろうか。
それを訊くのは無粋なので、花束を見つめるしかなかったが。
「具合はいかがかな」
「もう、だいぶ良いです」
「そうか。でも声が枯れているね」
病状についていくつか訊かれて、そして先生は心配そうな声で言った。
「目元が腫れてしまっているようだけど」
言われてどきりとした。
泣いたことに気付かれてしまったようだ。
風邪を引いただけではなかなか目元まで腫れないのだから。
風邪で寝込んだだけで涙してしまうなど。子供ではあるまいし。
情けなさと羞恥に顔が赤くなったかもしれない。
「少し、嫌な夢を見たのです」
俯いて言った金香にかけられた声はどこか消沈していた。
「そうか……知らない間に無理を強いていたのかもしれないね。すまない」
「そんなことはないです!」
先生のせいだと思われてしまった。自分の管理不十分が原因であったのにそのように思われてしまうのは申し訳ないが過ぎる。
金香はぱっと顔をあげて言っていた。
そうしたことで先生と目が合う。
どくんと心臓が高鳴り、しかし金香は目が離せなかった。
先程見られなかったお顔。今はきちんと見ることができる。
まっすぐに、こんなに近くで。
どくどくと血を流す心臓を抱えながらも目が離せない。
そのうちどこか痛くなってきた。胸ではなく、心が。
先生はどこかきょとんとしたような顔をしていたが、自分を見つめる金香から目をそらすことは無かった。そして目元がふっと緩む。
「快方に向かっているようで、良かった」
言われて金香は気付いた。不躾にもずっと見つめてしまったことに。
今度は違う羞恥が襲ってきてやっと視線を外す。
謝ろうかと思ったが言われた言葉に返す言葉は違うだろう。
「……ありがとうございます」
妙にくすぐったかった。
しっかり見つめた先の、焦げ茶の瞳がくださったのは安心だけでなく、ほかにもあるような気がする。その先のことに、金香のいったんは少し落ち着いていた心臓は跳ね上がった。
「屋敷のことも、寺子屋のことも、文のことも考えなくていいから、ゆっくりおやすみ」
言われた言葉は単純に金香を気遣うものであったが、先生はちょっと身を乗り出して、手を伸ばして金香の髪にそっと触れたのだから。
それほど体が近付いたわけではない。
が、これまでで一番近い触れ合いであった。
撫でるというにはあまりに軽いもので、髪に触れ、軽く滑らせるだけであった。
それだけだというのに金香は驚いてしまった。目が丸くなっただろう。
触れられた。
このように触れられたことなどなかったので。
しかもお逢いしたいと思っていた先生に。
元々やりとりしたあれやこれやのために顔は赤かっただろうに、もっと熱くなってくるのを感じた。
そんな金香を見たのに先生はただ微笑み腰をあげた。
「長居するのも悪いね。これでおいとましよう」
「あ、……はい」
一瞬だったが、夢を見たのでないか。
金香がそう思ってしまうほどに源清先生の動きはスムーズであった。
「あ、ありがとうございました」
「ゆっくりお休み」
そんなやりとりだけで先生は帰ってしまった。
金香はのろのろと部屋の中へ戻り羽織を脱いだ。
夏の折に着たので少し暑かった。が、暑いのは羽織のためではないような気がする。
どこか夢心地で金香は布団に入る。
なんだか急速にくすぐったくなってきて、鼻の先まで掛け布団にうずめてしまった。
頭を、撫でられた?
きっと夢を見て泣くなど子供っぽいと思われたのだろう。先生は私と違って大人であられるから。
そう思っておくことにしたのだが、しかしその事実は胸をくすぐって仕方がなく、なかなか金香は寝付けなかった。
ガーベラの花はしばらくの間金香の部屋を彩ってくれた。
花瓶のガーベラは生き生きとしていて、布団の中でそれを見るたびに金香は幸せを覚えた。
そして本当にただの風邪であったようで、先生がお見舞いに来てくださった次の日には床をあげられた。
「しばらく無理はしないように」と言われて寺子屋の仕事はもう数日休みにさせていただくことにしたが。
仕事内容はともかく屋敷から寺子屋までは少し距離がある。単純に歩いていく距離や時間だけでなく暑い折で、外を歩くだけでも体力を使うということもあり。
自宅に居た頃であれば寺子屋が近いこともあり「もう治ったから大丈夫」と仕事に行ってしまっていただろうが心配してくれる人がたくさんいるのだ。金香はおとなしくお言葉に甘えておいた。
『おとなしくしている』間は、部屋で勉強に宛てた。
三日も寝込んでしまったのだ。源清先生からの課題も終わっていない。
先生は期限を延ばしてくださっていたがそういうわけにもいかないだろう。
新人賞の提出期限までもう一ヵ月もなくなっていた。出来る限りクオリティをあげて、先生に見ていただいて……今、できる最上級のものを提出しなければ。
なにしろ今は『源清流門下生』という肩書を有難くも頂戴してしまっているのだ。源清先生に恥をかかせるような結果に終わらせるわけにはいかない。
課題は一日もかからずに終わったが、そこからは自主勉強に移った。
体を動かすのは避けておいたほうが良いが、頭を動かすのにもう支障はなかったので。
勉強にいそしんでいる間も文机に置いてあるガーベラがなんだか励ましてくれているような気がした。金香の体調とは逆に、切り花であるガーベラはどうしても日ごとに元気はなくなっていくのだが、まだその美しさは保っていた。
ガーベラの花言葉。
いただいて少ししてから金香はそれが気になるようになっていた。
花にはそれぞれ『花言葉』というものがある。
たとえば桜なら代表的なものは『精神美』。
桜は今の金香には、視てしまった怖い夢を連想させるのであまり思い出したくはないのだったが。桜の季節には遠いので見て思い出す機会は少ないだろうが。
それはともかくガーベラは比較的最近国に入ってきた西洋の花なので、この国ではあまり流通していない。花自体も、そして花言葉も。
でも本などをいくつか見れば載っているかもしれない。
気になっていたそのことをやっと調べられたのは、そこからさらに三日ほどが過ぎ、寺子屋への仕事を再開できたときだった。
先生に屋敷の資料をお借りしていいか訊くのはなんとなく気が引けたので。ご本人にいただいている以上。
寺子屋には教材のほかにも本がたくさんある。このあたりでは、随一ではないだろうか。
調べ物をするのにもうってつけであり、外から「こういうことを知りたいので」と本を借りにくる人もいるのであった。
資料室で見つけた本にガーベラの花言葉はきちんと載っていた。
橙色は『我慢強さ』。
黄色は『やさしさ』。
それぞれ指すのだという。
ほかにも幾つか載っていたが『これらの言葉のために、西洋では見舞いとしてよく贈られる』とも書いてあったので、多分この解釈なのだと思う。
そしてそれは先生が『おそらく花言葉を理解して、花を選んでくださった』ということを示していた。
花言葉を知ってそれに沿ったものを贈るなどと、なんと浪漫に溢れたことか。
ご自身が花のようなうつくしさを持っている、源清先生らしい。
そして花言葉に沿った花を贈る、ときと場合。
それは大概、『求愛』なのであるが。
思って金香の頬はなんだか熱くなってしまった。
単純なお見舞いであってそういうわけではない、と思いはするのだが、年頃の女子として連想してしまったのだ。
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