新生活のはじまり
朝から引っ越しの準備をしたので夕餉までにはまだ時間があった。
まずはご挨拶と屋敷の人々を紹介される。下女や下男は名前のほかに役割を聞いた。
雑用全般、食事の支度、屋敷の掃除、庭の手入れ。色々と兼ねている者がほとんどであった。
下女と下男も、住み込みか通いかがあるそうだ。更に全員が全員屋敷の仕事を常にしているわけではなく、毎日屋敷に居るわけではない者も多いので、一堂に会することは無いのだと。
とりあえず本日勤めていた方にのみ、ご挨拶をする。
「お食事を作ってくださるのは主に、飯盛(いいもり)さんと、煎田(せんだ)さん。なにか食べたいものがあったら言うといい」
「よろしくね」
紹介された飯盛さんは恰幅の良い女性、煎田さんは背の高い女性だった。二人とも中年の優しそうな方であったので金香はほっとする。
『下女』や『下男』と名前がついているとはいえ特に身分の差があるわけではないのだ。あくまでも、『仕事』としての役割でしかない。よって過度にへりくだる様子を見せる者は居なかった。
「そしてこちらは、主に屋敷の整備担当の……」
そのあとは数名の男性を紹介された。
男性も同じ家に住んでいるというのには少々不安を覚えたのだけど、ほかに女性も暮らしているのだ。大丈夫だろう、と金香は自分に言い聞かせた。
最後に紹介されたのは、夕餉の直前に帰ってきた例の『高井』であった。
「遅かったね」
「少々手間取ったんだよ」
先生と過ごしていた客間に彼はつかつかと入ってきて畳に座った。
「さて、ようやくきちんと紹介できる」
前置きをし、先生は彼を示した。
「こちらは高井 志樹(たかい しき)。私の兄だ。今年三十一になる」
「その節はどうも」
兄? お兄様?
まさかご身内だとは思わなかった。
驚きつつも、ぺこりとお辞儀をされるので金香もお辞儀を返しておいた。
しかし確かに髪の色はまったく同じだ。顔立ちはあまり似ていらっしゃらないが。
三十一ということは、源清先生の二つ上ということだ。源清先生は今年二十九になられたと伺っていたので。
「私の名、『麓乎』は本名だが姓は号だと言ってあったね。本来の名字は『高井』だ」
そういえばお名前についてはちらりと伺っていた、と金香は思い出す。
「ちなみに志樹は弟弟子でもある」
ちょっとおかしそうに源清先生は言った。
金香は一瞬、混乱する。
兄なのに弟弟子とは。
「同じ物書きで血縁は兄だが、春陰流に入門したのは私のほうが先だからね」
それで金香は納得した。
源清先生の師、春陰氏の弟子。
師弟関係の上下は単純に年齢だけではなく弟子入りした時期が関係してくる。それを考慮するとつまり、金香は源清流門下生としてはほかに年下の者がいたとしても、立場的には一番の年下となるわけである。
「おまけに、師から屋敷を継いだのは私なので居候ということになるね」
源清先生はくすくすと笑い、高井は先生を「麓乎。口が悪い」と、じろりと睨んだ。
「はぁ。僕は来年にはここを出ていくつもりだよ。所帯を持つ予定なんだ」
「そうなんですね。おめでとうございます」
所帯を持つということは、結縁の約束をしている女性がいるということだ。金香はちょっと驚いたが祝いの言葉を口に出した。
「先方の事情で先送りになっているが来年には祝言をあげる予定になっているんだよ」
源清先生が捕捉してくれた。
色々事情はあるのだろう。そこまでは立ち入れる領域ではなかったし、また、質問する気もなかった。
「がっかりしたかな。既に婚約者がいて」
そう言う源清先生は先程高井をからかったときのようにやはり楽しそうであった。
意外と悪戯っぽいところもあられる、と金香はなんだか心がほころんだのであったが、からかわれた内容については不本意だったのであわあわとすることになる。
「い、いえ! そのようなことは」
このやりとりには高井が口を挟んでくれた。
「麓乎、からかったら可哀想だよ」
今は兄らしく諫めたあとにもう一度金香に向き直った。
「それはともかく……改めてよろしく。従兄妹弟子ともいえる関係になるのかな。名前で呼んでもいいかい」
ちょっと驚いたもののそれもそうだわ、と金香は思った。
血の繋がりこそないものの門下の繋がりができたのである。これまでのように「巴さん」では少々他人行儀ともいえる。
「は、はい。よろしければ、そのように」
了を返した金香に、そこで初めて高井……志樹は微笑んだ。
「では、よろしく、金香」
名前で呼ばれてどぎまぎしてしまう。他人の男の人に呼び捨てにされることなど初めてであったので。
「僕のことも気軽に呼んでくれ」
「は、はい。では、……志樹さん」
そのようなやり取りをしている間、黙っていた源清先生が不意に言った。
「私は仲間外れかい」
そうだ、志樹よりも近しい存在になるであろう源清先生。
しかし源清先生は志樹と違って『師匠』である。もう少し固い関係だ。
なので名字でもまるで違和感が無いと思いはしたのだが金香は妙な感覚を覚えた。
言い方が子供のようだったので。
そう感じたというのに金香が思ったのは「こういうことを気にされるのかしら」くらいのことであった。
「麓乎。きみは僕と違って彼女の師だろう。きちんと『先生』と呼んで貰わねば」
「そうだけどね、なんだか寂しいじゃないか」
志樹はもう一度諫めるようなことを言ったが、源清先生の返事はやはり子供のようであった。このようなやりとりはやはり志樹のほうが兄なのだと思わされる。
「まぁいい。今まで通りで……。でもきみのことは、私も名前のほうが良いな」
「はい! お好きなように」
そう所望されれば受けるまで。金香は簡単にそれを受け入れた。
しかし先程志樹に言われたことよりなんだか嬉しく感じてしまった。どうしてなのかこの期に及んでも自覚はしていなかったのだけど。
「では、金香、と名前で呼ばせて貰おう」
「は、……はい」
呼ばれてどくんと心臓が跳ねてしまった。
源清先生の低く、しかしやわらかな声が自分の名を呼ぶ。下の名を。
つまり寺子屋でやり取りしていたときよりも親しくなれたということだ。
しかも先生の「金香」と呼ぶ声音はどこか嬉しそうにも聞こえた。
幾つもの伝わってきたことに金香はくすぐったいような、気恥ずかしいような思いを覚えてしまう。
なんだろう、これは。胸が騒ぐし顔も熱い。
名前で呼ばれることがこれほど嬉しいとは思わなかった。
そのやりとりを志樹はなにも言わずに見つめていた。
数日間、「荷の片づけと部屋の構築」そして「屋敷に慣れるように」とお気遣いを貰い、金香は屋敷で過ごした。
荷をほどいて与えられた自室の箪笥や棚などに収めていく。
和服が多かったが洋装も何着かは持っていた。あまり着る機会はないのだが。
しかし源清先生や志樹は時折洋装……というか和洋折衷のような衣服を着ていた。
洋装はそれなりに高価であるために気軽に買うことはできないのであるが。
庶民の多い近くの町の者もまだまだ着物が主流。
金香の持っている洋装もぼたんのついたぶらうすを数枚、上着が一枚。
下の着衣としては、女性の洋装としてすかーとというものがあることは知っていたが、脚をあらわにするのは躊躇われた。
それに似たものであれば袴のほうが楽であり安心なのである。ぶらうすに関しては確かに便利なものであった。着物の下に着るのだが動きやすい。
「これからは洋装が主流になる」とおっしゃったのは源清先生である。
彼は「女性の社会進出」などの発言に代表されているように、考え方が時代の先端を取っているような人であった。
それはそうかもしれない。小説というものは常に新しさが求められる。
たとえ歴史小説などで過去の出来事を描くのだとしても文体、漢字……表現を時代に合わせることは必要になってくるのだから。
なので金香に対しても「指導に関しては、ほかの門下生と同じように扱うから」と言われていた。それは金香にとってはむしろ誇らしいことであったので「はい、お願いいたします」と即答した。
本当の指導模様は厳しいのだろうか。
今までは外の者だから優しく褒めるようなことを言ってくれていたのかもしれない。
少々心配になったのだが次の週からはじまった本格的な門下生として受ける指導。源清先生が声を荒げたり乱暴な言葉遣いをしたり……不条理な要求をしてくることなどなかった。
しかし漢字や言い回しなど基本的な部分で同じ間違いをすればやんわりとだが諫められる。
必然的に金香は申し付けられる課題以外にも自主的に勉強をするようになった。夜は大抵部屋にこもり、先生や志樹にお借りした市販の小説の写しをするところからはじめた。
その学習方法からは読んでいるだけではわからなかったことが見えてくる。
漢字の使い分け、文体の硬さ、やわらかさ……進めていくうちにいかに自分が自己流で稚拙な文章を書いていたかを思い知らされて金香は数日落ち込んでいた。
が、持ち前の前向きさを発揮してすぐに思い切ることができた。
自分の未熟さを自覚したということはそれを改善するように精進できるようになったということ。
ここからはじめればいい。
源清先生も「まだまだここからだよ」と言ってくださった。
また、内弟子としての仕事もはじめた。
家のこと、掃除や煮炊きなどをするのは下男や下女であったので特に屋敷全体の家事をする必要はなかった。
が、人様の世話になりっきりになれるような身分ではない。自分のことは自分で片付けるようにした。
自分の衣服は自分で洗濯する。
自室は自分で綺麗に整える。
つまりこのあたりは自宅に住んでいたときとあまり変わりなかったといえる。
食事だけは自分で作れば二度手間になってしまうのでお任せしていたが。
しかし寺子屋の仕事が早く終わった日などは厨(くりや)の手伝いをすることが多かった。
はじめは野菜の洗いや皮むきなどの簡単なところからはじめたが、すぐに馴染んだ厨房担当の飯盛さんや煎田さんは「金香ちゃんはお料理も上手ね」と褒めてくれた。そしてたまには食事のうちの一品などを任せられるようにもなった。
なんだかお母さんができたようね。
そう思えて金香はなんだか嬉しかった。
屋敷での出来事、日常生活から文に関する指導にも少しずつ慣れて、おおむね順調に過ぎていった。
どれも想像以上に愉しいことだった。
大勢の人が同じ家屋の中に暮らすのは自分勝手は通らないが、そのぶん協力し合えたりもできる。
なので金香は愉しい日々に油断していたのかもしれない。
異変が起きたのはひとつきと少しが経った日のことであった。
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