内弟子入り
相談する相手は少なかった。父親と寺子屋の校長くらいのものである。
そのくらいしか面倒を見てくれる人がいないことを少し寂しく思うのだけど。
父親は普段と同じように、素っ気なかった。「いいんじゃないか」とポン、と吸っていたキセルから灰を落としながら言った。
久しぶりに帰宅していた父親に夕食のあとのタイミングで話を切り出した。
「小説家の大先生に、内弟子にと望まれたのです」と。
その答えが非常にあっさりとした肯定である。
こうなるとはなんとなく予想はしていたものの直面してみれば物悲しくなった。
父親にとって自分はその程度に軽いのか、と思ってしまったせいで。そんなこと今まで散々思い知っていたというのに。
再びキセルをふかしながら父親はなんでもないように言った。
「それに、あわよくば嫁に貰っていただけるかもしれないだろう」
嫁!?
そこで初めて金香は知った。
異性と同じ家に暮らすのだ。そういう、嫁入りに繋がるような恋仲になる可能性はあるだろう。
しかしすぐにその可能性を否定してしまう。
「い、いえ! 源清先生はそのようなおつもりなどございません。ほかにも内弟子の方はいらっしゃるのです」
言いながらも顔が熱かった。咄嗟に「内弟子がほかにいる」などという、憶測に過ぎないことを言ってしまったくらいに。
嫁なんて自分には勿体なさ過ぎる。
これは金香の『男性に対する、気の引けた気持ち』と『自己評価の低さ』からきていた。どちらもどのような状況においてもあまり良い方向に作用しないものである。
慌てて言った金香を珍しく正面からじっと父親は見た。
「まぁ、いい。俺はかまわん。好きにしろ」
それだけ言って「明日は早くから仕事が入っているから寝る」などと部屋に引き上げてしまった。
部屋の中心にある炉端……もうほのかに暑さすら感じることもある季節なので、勿論、火など入っていない。そのかたわらで金香はぽつねんとした。
許可があっさり下りたことは有難かったのだけど。
父親の「あわよくば」などというセリフから初めて知った。
嫁。
恋仲。
頭の中にそれがぐるぐると巡る。
が、金香はここまで実状と人からの解釈に直面しても実感がわかずにいた。
源清先生はそのようなおつもりなどないだろう、と。
それは先生が非常に中性的で『男性である』という金香にとっての抵抗感がかなり薄かったためもあるだろう。そもそもそうでなければいくら才のある大小説家の先生であろうとも『男性師匠の内弟子になる』という検討を金香本人がすることは無かったであろうが。
「そうか。嬉しいよ、歓迎しよう」
思い悩んだものの、結局金香は源清先生のお誘い通りに内弟子のお話を受けた。
「未熟者ですが、よろしくお願いいたします」と言った金香に、先生は嬉しそうに相好を崩した。
初めて源清先生のお宅を訪ねてから一週間が経っていた。やはり木曜日。
しかしほかに指導を受けにきているらしき者は見当たらなかった。
今日も偶然いらっしゃらないのかしら。
それとも男性の門下生さんで、夜にお酒などをご一緒しながらなのかもしれないわ。
金香はそのように考えておいた。
「内弟子にしていただこう」と決意したのには、ふたつ理由があった。
ひとつはこのまま寺子屋の仕事をしていても先が無いこと。
源清先生の指導を受けて、もしも源清先生が『巴さんにはある』と言ってくださった才が開花して、雑誌などに文を載せられるようになれば、それでご飯が食べられるようになるかもしれない。
もうひとつはやはり家のことだ。このまま放任主義の父親と暮らしていてもなにも変わらないだろう。
それどころか父親の負担になるばかりである。
自分ももうすぐ二十にもなるのだ。父親、それもなんの身分もない庶民の父親に養われるにも限界がある。
自分で生計を立てねばならないのだ。内弟子のお誘いは、そのお手伝いをしてあげよう、と言われたも同然であったので。
『嫁』に関しては……あまり考えないようにしていた。あまり気乗りがしなかったために。
確かに源清先生のことは好ましく思っている。しかし金香の中ではその感情は、まだ『憧れ』としか認識されていなかった。
女友達にでも話せば、ちゅんちゅんとさえずる雀のようなおしゃべりなお年頃。「そのひとのことが好きなんでしょう」とでも言われて自覚することもあったかもしれない。
が、生憎近しい女友達にしばらく会う機会がなかった。
皆、それぞれ忙しく、会いに行く時間を取ってもらえなかったのだ。
嫁入りしてから間もなくあちらこちらへの挨拶に追われている娘(こ)。
子を成したり産んだりして、ひとと会う余裕などない娘すら何人かいた。
それらの友達たちと比べてしまって、「自分にもそのような幸せが訪れたら良いのになぁ」と思ったことは年頃の娘として勿論ある。
が、だからといって積極的にならなかったのは……やはり男性が苦手だからにほかならなかったのだ。
なので父親に言われた『嫁』に関しても、期待はしなかった。
……少なくとも、積極的には……というわけである。
「では、源清流門下生についてお話しようか」などと、その日は詳しいお話となった。
源清流門下生は何名か居て、一人、唯一の女子である門下生は事情があって少々休暇の状態になっているのだと源清先生は言った。
女の子の門下生もいらっしゃるのね。
金香は思ってちくりと胸が痛むのを感じた。
門下生も通いの者が多いらしい。高等学校へ通っていたり、家が近いために内弟子に入るまでも無いという理由だと言っていた。
木曜日は弟子の添削に使うことが多い、と言っていた源清先生であるが、それは高等学校へ出向いたりすることもある、という理由もあったそうだ。そしてそれは大抵午前中なのだと。
午後はこの自宅へやってくる門下生の添削をしたりして過ごすのだと言われた。
「校長先生にもお礼を申し上げないとね」
内弟子のお話をお受けして、細々とした色々が済み、あとは引っ越しばかりとなった頃会いに源清先生は言った。
金香は寺子屋の仕事を完全に辞めることは無かったのだ。毎日のように通っていた今までとは違い、週に三日ほど通うことになっていた。
寺子屋を卒業したときから、今まで長いことお世話になっていたのだ。散々お世話になっておいてすっぱり辞めてしまうのも躊躇われたし、それに内弟子になったとはいえ、常に文を書いていられる身分でもない。
『仕事』として出掛けることも良いと思ったし、今までよりさらに減りはするものの、お賃金もいただける。内弟子として食事などは供されると聞いたが、寺子屋からのお金で自分の身の回りのものくらいは揃えられるであろう。
金香の「内弟子に入ることになりましたので……」という相談に校長は少し渋った。
勉強を教える者が減ればそれだけ子供たちへの指導の質は落ちることになる。そのくらいに頼られていたことは嬉しいのだけど。そこを交渉してくださったのは源清先生であった。
「内弟子とはいえ、常に拘束しているわけではないのです」
「門下生たちも、高等学校へ通ったり家の仕事を手伝ったりして、いくつかやることを掛け持ちしております」
「巴さんも、そのようにしていただければいかがでしょうか」
など。
自分のためにわざわざ出向いて校長と交渉してくださったことが、金香は嬉しかった。それだけ自分を弟子にと望んでくれているのだと感じられたので。
結局、毎日のように通っていたところを週に三日程度まで減らしてもらうことで、交渉は成立した。
寺子屋への通勤はそれほど大変ではない。
金香の暮らしていた家と、源清先生のお宅のある場所に挟まれている『町』のはずれにあるのだ。源清先生のお宅から家へ毎日帰ることを考えればずっと近かった。
内弟子に入ることも、寺子屋の仕事をどうするかについても、そして家についても(これは父親に「好きにしろ」と言われた時点で九割方話がついていたのであるが)かたがついた。あとは引っ越しばかり。
物心ついてから大規模な引っ越しなど初めてであった。
「弟子たちにも手伝わせよう」などと言われて、恐縮しつつも金香はお言葉に甘えた。
引っ越しのために荷物もまとめた。
出来る限り荷は減らそうと身の回りのものも少し整理した。服や小物はどうしてもある程度の量になってしまったが。
これからの生活は愉しいかしら。
好きな文を書いて暮らせるなんて、愉しいに決まっている。
着物を丁寧に畳みながら、金香はこれからの生活に想いを馳せた。
このようなこと、まったくあとから考えれば、馬鹿のように無邪気すぎることだった。
引っ越しの日は晴天だった。暑さも目の前まできていて、一重の着物がそろそろ暑くなる頃。浴衣を出す日も近そうであった。
荷は勿論父親が運んでくれた。それが商売だ。手慣れた様子で借りている馬にさっさと積んで、そして先生の家まで。
先生は「弟子にも手伝わせよう」と言ってくださったが、そのお手伝いは荷下ろしと先生の居宅に入れてもらうくらいであった。
父親と別れたのは、荷を全部入れ終わって先生の家を出るときだ。父親は先生に対して、非常に慇懃であった。
座敷に招いて茶を出してくださったご挨拶の場。先生は「大切にお預かりいたします」と手をついてくださったし父親も同様だった。「つまらぬ娘ですが、お願いいたします」と。
「好きにしろ」などと金香に素っ気なく言ってきたのが嘘のように。
先生は「よろしければ今夜、酒でもいかがですか」とお誘いくださったのだが、父親はそれを丁寧に辞退した。
「申し訳ございません。明日、早くから遠出の仕事なのです」
それは本当のことだと知っていた。明日から一週間ほど、海の街まで行くのだと聞いていた。
こうしてお仕事の予定を聞くのも今日まで。
胸の中に寂しさが溢れた。放任主義とはいえここまで自分を育ててくれて食べさせてくれたのだ。大切にしてくれなかったとは到底言えない。
新しい住まい、先生の居宅の前で父親と別れるときには涙まで浮かんだ。
「せっかくご指導を受けるのだ。精一杯やるのだぞ」
「はい」と答えるのが精一杯だった金香の頭を、ぽん、と叩き、父親は背を向けて帰っていった。
見守りながら金香の頬に涙が伝う。
寂しかった。
普段からなかば一人暮らしをしているようなものだと思っていたが、それは本当は違ったのだ。
家に居ないことも多くとも、確かに帰ってきてくれる身内がいる。そう感じられていたことは確かな安心だった。
そのひとと離れて知らないひとたちの間で暮らす。急に不安感が込み上げた。
父親の背中も、なんだか寂しげに見えた。がっしりとした背中なのに妙に縮こまったように見えてしまう。
お父様、私がいなくてご飯は大丈夫かしら。
などと思ったが生活上は特にできないことなどないのだ。ちょっと不便になるくらい。
それでも金香がいなくなればそれなりにがらんとしてしまうだろう。もしも新しい奥さんを迎えるとしても、父親にとっても大きな変化に違いない。
そしてなにより、金香を手放すことを寂しいと想ってくれているようなのが、なんだか嬉しかった。ちゃんと大切にされていたのだ、と思えたので。
「巴さん」
うしろから声がかかった。源清先生だ。
振り返ろうとしてはっとした。親と別れて涙しようなど子供ではないのだから。
気恥ずかしくなったのだが、先生の言葉は優しかった。
「お父様と離れて不安だと思うけれど、私で良かったら言っておくれ」
「ありがとうございます」
袖で涙を拭ってやっと振り返って金香は笑った。
無理をしたわけではない。新しい生活。それが楽しみであるのも事実であったのだから。
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