先生のご自宅へ

 木曜日。

 金香は朝からそわそわしていた。

 寺子屋の仕事は休みを取った。校長におそるおそる打診したのだが意外とすんなり通ってしまったのだ。

 理由を馬鹿正直なまでに告げてしまったので「源清先生に添削など良いことではないですか。いってらっしゃい」と。

 朝から湯あみをし、まだ新しい着物を取り出した。

 選んだのは黄色がかった淡い色の生地に藤の花が入った着物だった。

 金香は季節を示す着物が好きだった。そして季節を彩る着物は少し先取りして身に着けるのが鉄則である。選んだ一重の着物を丁寧に着ていく。

 名刺にあった源清先生のお住まいの住所は少し遠いようだった。

 徒歩(かち)で行く予定であったので一時間近くは歩くだろう。

 着物では足さばきが悪いので袴を選んだ。着物で歩くこともできるが万一着崩れてしまっていては恥ずかしい、と思ったので。

 準備もできて、書き上げた小説を風呂敷に包んで、これだけはかっちりとしている鞄に入れた。

 洋風の鞄、珍しく父が買ってくれたものだった。

 ふらっと仕事に出かけてしまう放任主義のくせに突然ひょいと寄越してきたのだ。「人様に勉強を教えるのだから、鞄くらい教師らしいものを持て」などと言って。

 どこぞの大きな街で買ってきてくれたのだろう。そのくらいには大切にされているのだけど……。

 それはともかく教材として未熟だった文は、一応小説といえる体裁まで昇華していた。

 ただ金香にとって『小説』としてきちんと文を書くのは初めてである。なのでこれがどの程度の出来なのかがまったくわからなかった。

 一応読めるものであると思うが、未熟も過ぎるものを見ていただくのは恥ずかしいのだけど。

 でもせっかくお声をかけていただいたのだ。見ていただいて、できることならまた小説を書いてみたいと思っていた。それほど金香にとって文を書くことは愉しかったのである。

 支度もできた。

 出来る限りお邪魔にならない時間を選ぶつもりであった金香は、昼時の少しあとにお訪ねするつもりでいた。食事の心配をさせてしまっては申し訳が無いので。

 よって早めの昼食を家でとり、家を出た。例によって父親は不在だったのできちんと鍵をかけて。

「おや、金香ちゃん。おめかしね」

 家を出て門を出たあとにお隣の小母(おば)さんに声をかけられた。ちょうどあちらも出掛けるところだったのであろう。買い物かごを手にしている。

「はい。所用で」

 端的に答えた金香に小母さんが言ったこと。

「好い人と逢うのかい?」

 言われたことに思わず金香の顔が熱くなる。好(よ)い人。つまり恋人。

「ち、違います!」

 そうだ、誤解されてしまっても仕方がないだろう。年頃の娘がしっかりと着飾って出かけるとなれば。嫌だわ、そんなのじゃないのに。

 この期に及んでも金香はそう思っていた。

 目上の方にお会いする、しかもご自宅にお邪魔するのですから普通。

 そう自分に言い聞かせている時点で源清先生を特別視していることは確かなことであったのに。

 慌てて言った金香を小母さんはどう思っただろう。色恋沙汰の話が好きなのは女性として幾つになっても同じだと思う。小母さんは楽しそうだった。金香はもうひとつ言い繕うことになる。

「そんなんじゃありませんから!」

「そう? でも、好い人ができたら教えておくれよ?」

 それでもお隣の小母さんはそれだけで話題を落ち着かせてくれた。

「そ、そんな方……」

「金香ちゃんは美人さんだからね。すぐに好い人もできるさ」

「あ、……りがとう、ございます。では失礼いたします」

「ああ、またね」

 短い会話をして小母さんと別れて金香は一歩踏み出した。

 好い人なんて。そんなものではないというのに。

 尊敬する方にお会いするのだからしっかりとした格好をして当然。

 再度自分に言い聞かせる。

 声をかけてきた小母さんの指摘のほうがよほど的確だったのだが。



 道のりは平和だった。お天気にも恵まれた五月、むしろほのかに暑さすら感じる陽気であった。

 真昼間の今は良いが帰り道は夕方になるであろうことは予想していたのでこれ以上薄着をすることは考えなかった。寒暖差が激しい折だ。風邪などひいては困ってしまう。

 途中まで道に迷うことはなかった。源清先生のお宅は、普段買い物をする小さな町を挟んで反対側にあるようだったので。

 町で買い物をするのでそのあたりまでは通い慣れている。そこから先が少々心配ではあったが。

 しかしきちんと地図を持ってきていた。源清先生のご住所にしるしをつけて。

 普段過ごしている場所からたった一時間なのだ。そう極端に迷うこともないだろう、と思っていた。

が、それが楽観であったことは、普段訪れる町を抜けてしばらく歩いたときに思い知らされた。

 町の向こうはだいぶごちゃごちゃしていたのである。居住区ではあるのだろう。民家がたくさん並んでいた。

 それゆえにか。家が密集していてかなり道が細い。

 地図を見てもあちらかこちらか、と金香の足取りは鈍ってしまった。

 なんとなくはわかる。方向音痴というわけではないのだ。

 それでも歩みは極度に遅くなった。

 いけない、これでは遅くなって夕餉には早すぎるだろうが、お茶をするような時間になってしまう。お気を使わせてしまうだろう。

 しかし焦ったところで道がわかるわけではない。

 それでもなんとか近くであろうところまでたどり着いたが、そこで金香は途方に暮れてしまう。

 目印にしていた大きめの商家が無いのだ。

 地図が古かったのか。潰れてしまったのか。

 あちらにお寺があるはずだから、いったんそちらに行って仕切りなおしてみようか。

 金香が方針を変えてみようとしたときだった。不意に声をかけられた。

「道に迷っておられるのですか」

 声は涼やかだった。

 男の人の声だ。しかも若い。

 金香は少しびくりとしてしまう。

 男性は苦手なので。

 それでも振り向いた。

 そこにはすらりとした男性が立っていた。風呂敷包みを腕に抱えている。

 源清先生と同じほどの年頃に見えた。すなわち成人して男として久しい良い年頃のようだ。

 茶色い短い髪。ちょっと釣り気味の眼。

 源清先生とは真逆のタイプ、一目で男性とわかる精悍な姿をしていた。

 そのために金香はちょっと臆してしまった。

「は、はい。……その……」

 なんと説明したものか。

 小説家の先生のご自宅を訪ねてきたと言って良いものか。

 躊躇った金香を見ていた男性だがふと、なにごとかに気付いたという顔になった。

「ひょっとして、ろく……あ、いや、源清を訪ねてきた方ですか」

 金香は驚いてしまう。

 唐突に源清先生の名を出されたので。

 もしかして知人なのだろうか。

 しかしもしそうであれば救いの手にほかならなかった。金香はおずおずと頷く。

「は、はい……小説家の、源清先生のお宅を……」

 男性は金香の返事で納得したようだ。小さく頷いた。口調も砕ける。

「ああ、少しわかりづらいところにあるんだよ。裏道もいいところだからね」

 お知り合いですか、と尋ねるつもりだった。

 が、金香の喉からその言葉は出なかった。

 よく知らぬ男性を前にするとこのようになってしまうのである。

「客人に若い娘さんが訪ねてこられるのだと聞いているよ。桃の髪をした美しい人だと」

 言われて金香はどきりとしてしまう。

 桃の髪は実際にそのような色をしている髪なので言われて当然だろう。

 が、『美しい人』。それは源清先生のご評価なのだ。

 胸がかっと熱くなってばくばくと心臓が速くなる。

 金香の様子を見て男性は小首をかしげた。

「僕は源清と共に暮らしている高井(たかい)という者だ。ちょうど帰るところだったのだ。一緒に行こう」

 知らぬ男性と共に歩くことには少々臆したのであるが、その言葉は救いだった。

 まさか源清先生のご知人にお会いできるとは。渡りに船であった。

「は、はい! 有難うございます!」

 やっとはっきりとした声が出た。男性、高井はそんな金香に目を細めてくれた。

「いや、おやすい御用だよ。ついでだから」

 ああ、なんだ。怖い人ではないのだ。

 その笑みは金香を安心させてくれた。

 それでも近くは歩けなかったので、少し間を開けて、彼……高井に金香はついていったのであった。



「ただいま」

 確かに言葉どおり、源清先生のお宅は裏道も裏道であった。

 しかし門構えは大変立派だった。だいぶ大きなお宅である。表の道にあったらすぐにわかっただろうほどのお宅だ。

 高井は悠々と門をくぐり玄関へ向かう。

 金香は門の前でやはり少し臆したものの高井がちらりと振り返ってくれたので、慌ててぺこりとひとつお辞儀をして門をくぐった。

「お邪魔いたします」

「麓乎! 客人だよ」

 からりと玄関の引き戸を開けて高井は声をあげた。

 麓乎?

 源清先生の下のお名前だ。呼び捨てであるうえに敬語も使っていない。

 そういえば先程も源清先生の下のお名前を言いかけたようだった。

 どういう関係の方なのだろう。

 金香は不思議に思った。

 しかしその疑問も、ゆっくりと奥から出てきたひとを見て吹っ飛んでしまう。

「ああ、巴さん。いらっしゃい」

 源清先生。相変わらずうつくしい姿であったが本日は着流しの着物姿だった。

 自宅でのくつろいでいるお姿を見たことで金香の心臓が急速にばくばくと騒ぎ出した。

「迷っておられたんだよ。まったく、きみの地図がわかりづらかったんじゃないかい」

 呆れたように高井が言って源清先生は少々きまりが悪い、という様子で髪に触れた。

「そうだね……詳細な地図を渡しておけばよかった。すまない」

「地図も渡していなかったの!? まさか住所だけ!? 全く不親切にもほどがあるよ……」

 高井はぶつぶつと呆れた台詞を口に出していたが、金香のほうを振り返って言った。

「悪かったね、こんなやつで。でも、まぁ、いらっしゃい。ゆるりと過ごしてくれ」

「あ、い、いえ……」

 やはりしどろもどろになってしまった金香にはかまわず、高井はさっさと中へ行ってしまった。

 金香は玄関先でもじもじとしてしまう。

 すぐに源清先生が促してくださった。

「わかりづらくてすまなかった。しかし志樹(しき)、あ、先程の者だね。に、ちょうど会えてよかったよ。さ、あがっておくれ」

「おっ、お邪魔しますっ」

 声はひっくり返った。

 金香の緊張した面持ちがおかしかったのか、源清先生はやはり、ゆったりと微笑んでくれたのだった



 通された部屋も門構えと同じように立派だった。下男や下女まで居るらしい。門下生などがいるのかはわからないが。

 この部屋は客間のようだ。

 畳敷きの部屋、畳は変えたばかりのようで青い匂いがする。きたる夏を思わせる香りだ。

 客間ではあるようだが、文机がちゃんと、しかも幾つかある。

 このお部屋で客人やお弟子さんなどの添削をしたり、もしくはご友人と文学談義をされたりするのかしら。

 極力きょろきょろしないよう注意しながらも、どうしても周りの様子を気にしてしまって、金香は思った。

 下女らしき中年の女性が、茶を出してくれた。きっと名のある焼き物であろう美しい模様の湯呑に緑茶。お茶うけに美しい干菓子まで。

 恐縮してしまったのだが「少々遠かっただろう」と言われてやっと喉の渇きに気付いた。

 まだ夏前なので喉がからから、というわけではないのだが、そう言われれば目の前のお茶はとても魅力的だった。

 躊躇ったが「いただきます」と手を付ける。かぐわしい茶葉の香りが鼻腔をくすぐった。なんて良い香り。

 源清先生の周りは良い香りで溢れているような気がした。彼自身が香のような香りを身にまとっていることもあり。

 綺麗好きなのだろう。この家も随分掃除が行き届いているようだ。

 お茶を半分ほどいただいて、ほう、と自然と声が零れてしまった。

 ひといきつけた、という気がする。緊張も少し、ほんの少しだけだがほどけてくれたようだ。

「今日は遠くまで有難う」

 源清先生が本題に入る。

 少し離れた距離だが同じ部屋にいることを意識してしまって、今度は違う意味で緊張を覚えてしまった金香であった。

「いえ! それほど遠くはありませんでしたし」

「そうかい? 寺子屋の近くにお住まいだと伺ったから、徒歩では少し遠いかと思って申し訳なかったのだけど……」

「いえ! 歩くのには慣れておりますので!」

 源清先生だって寺子屋にいらしてくださるときは徒歩であろうに。

 気づかってくださったのが嬉しかった。つい余計なことまで言ってしまう。

「子供たちと運動の時間もありますし、慣れております!」

「巴さんは、色々なことが得意なのだね」

くす、と笑われてちょっと顔が熱くなった。お転婆だと思われただろうか。

「文を書くのもそのひとつなのだろうね。拝見しても良いかな」

 言われて金香は、はっとして鞄を引き寄せた。

 大切に風呂敷に包んできていた半紙を出し、おずおずと差し出す。

 そのとき源清先生の伸ばした手に目が引き寄せられてしまった。

 白くて細い指なのに、節々はしっかりしていて確かに『男の人』の手であった。

 金香にとって身近な男性、父親の手はもっとはっきりとごついのであるがそれは荷運びをしているためであろう。

 鉛筆やペン、筆を持つのが仕事である源清先生の手は随分綺麗である。

 その美しい中からも確かに男性らしさを感じるのが不思議であった。

 女性的な部分と男性的な部分。両方を兼ね備えているひとなのだ。

 美しい指に視線を遣ってしまったことを少々恥じながら金香は「お願いいたします」と言う。源清先生はそれを受け取ってくれた。

「少し待っていておくれ」

 金香の差し出した半紙が十枚以上あったからだろう、読むのに時間が欲しいという意味らしきことを言われた。

 ご自分の文机なのだろう、使い込まれているそれに半紙を置き、めくっていく。

 金香は「はい」と言ったきり静かにしていた。

 目の前で自分の書いたものを読まれるのはやはりくすぐったい。が、源清先生の視線が自分の書いたもの……つまり自分の一部をまじまじと見てくださっていることに幸せを覚えてしまうのだった。

 待つ間、下女がお茶のおかわりを持ってきてくれた。

 それはきっと金香が喉を渇かせてここへきたことを察されたからだろう。

 言いつけられていたのか下女本人の気遣いなのかはわからない。それでも有難かったのでお茶をいただく。やはりかぐわしい香りがした。

 十分ほどが経っただろうか。源清先生がやっと半紙から顔をあげて金香を見た。

 その表情に金香はどきりとしてしまう。先生の浮かべていた表情が嬉しそうであったので。

「随分愉しい話に出来上がったね。つい読みふけってしまったよ」

 楽しんでいただけた!? 金香は心臓をひとつ高鳴らせるほどに驚いた。

「先日拝見したものは断片であったのに、随分はっきりと小説になっている。あれから組み立てなおすだけでなく、そのあとのことまで書かれていて驚いたよ」

 源清先生のお言葉は以前に言ったように『お世辞ではない』のだろう。それがはっきりわかるほど彼は愉しそうであった。そのような様子を見せられてはだいぶくすぐったい。

「こ、光栄です……」

「教材のものは、半紙二枚であったろう。それがここまで膨らむとはね」

 源清先生は感嘆したという調子で言ってくださり、そのあとは添削となったのだが。

「こちらへおいで。そこからでは見えないだろう」

 招かれてもうひとつ金香の心臓が跳ねた。

 当たり前だ、離れていては添削の様子を拝見することができない。が、これ以上近付こうなどと。

 それは『苦手としている男性へ近づくことの不安』と『尊敬する方へ近づくことの緊張』と、『未だ自覚されていない彼への想い』などがごちゃごちゃに交じり合ったものであるが、ひとことでいうなら、非常にどきどきしてしまうものであった。だが仕方がないだろう。

「し、失礼……します……」

 勇気を出して金香はそろそろと膝を進めた。おそるおそると、なんとか文机の上の半紙が見えるところまで近付く。

 少し悩んだ。しかしこれ以上は緊張と恐れ多さで無理だった。

 源清先生ももう少し近くへ来てほしかったのだろう。そのほうがよく見えるのだから。

 きっとそのような思いであろう視線で金香をちらりと見たが、金香が年頃の女性であることは良く知っているのだ。無理強いすることはなかった。

 これ以上招かれなかったことに、ほっとする。

「では、はじめるよ。まず……全体的な統合性だけど……」

 赤い鉛筆を手に半紙が繰られる。

 出来る限り身を引いているとはいえ、手を伸ばせば触れてしまえそうな距離だ。先生の香の香りをはっきりと感じてしまって金香の頭がくらりと揺れる。

 良い香りなのに白檀は男性的な香りである。寺社などでも良く使われているような。

 身内以外の男性とこれほど近付いたことは無いといっていい。こんな香りを感じられるほどに。

 というか、男性でこれほど良い香りをさせているひとを金香は知らなかった。

 先程、寺社でと例えた通り、神社仏閣で働くお坊さんや神主さんはそのような香りがするのだろうなと感じたことはあるのだが、それはきっと建物の香りが移ったものなのだろう。

 目の前の源清先生の香りはそういうたぐいのものではない。きっと着物に焚き染めるか、なにかしているのだろう。

 女性でもこれほど良い香りをさせているひとはあまりいない。

 匂い袋などを持っている女性は多いのだがそれは若い女子が多かった。

 町中で働くそれなりに歳を重ねた女性はその商売の香りをまとっている。魚の生っぽい香りであったり野菜の土っぽい香りであったり。それはそれで仕事に懸命な証であるので素晴らしいことなのだけど。

 その点では女性よりも女性らしい部分もあるのに間違いなく男性だ。金香は時折混乱しそうになるのだった。

 赤い鉛筆が行ったり来たりして次は文字の添削になった。

「巴さんは寺子屋を出たあとはそのまま先生に?」

 尋ねられるので金香はそのまま頷いた。

「そうなのか……数字などのほかの科目は存知ないけれど、少なくとも文を書くことに関しては高等学校へ進んでも成績を上げただろうにね」

「勿体ないお言葉です」

 先生は「高等学校へ進めばよかったのに」とは言わなかった。

 それもそうだろう。「高等学校へ進むのはほとんどが男性」「その中でもほんの一握り」なのだから。

 庶民の、しかも女子である金香が上の学校へ進むことなど大変な困難であるし、金香本人も最初から望んではいなかった。

 もっと上級の勉強ができるというところは魅力的であったけれど、自分には縁が無いとよくわかっていたので。

 そして金香だけではなく「世情がそういうものである」と理解している、むしろ、まだまだ若い金香よりもずっとよく理解しているであろう源清先生が「高等学校へ進めばよかった」などと言うはずがないのである。

 しかしそのお言葉だけで金香にはじゅうぶんだった。自分の才の一部でも認めていただけたなどと。

「しかし、上の学校だけがすべてではないからね」

 ひと段落した様子でペンを置き、源清先生は不意に金香のほうを見た。

 視線が合って、金香はまたどきりとしてしまう。それはもう寺子屋の教室ではじめて視線が合ったときよりも強く。

 なにしろ距離が近い。そのうえ先生は優しい中にも真剣な眼をしていたので。

「これを新人賞に出してみる気はないかい? 折よく七月が締切の募集があるのだよ」

 新人賞。

 なにを言われたのかわからず一瞬金香は胸の高鳴りも忘れた。

 それは勿論小説のだろう。この状況なのだから。

 しかしそんなものに縁があるとはやはり思えなかった。

「えっ、そ、そんな! そのような素晴らしい場に出せるほどのものでは」

 はっとして金香は慌てて手を振っていた。失礼かもしれないということも思いつかない。

 金香の反応は半ば予想されていたのだろう。源清先生はやんわりとそれを否定する。

「雑誌などへの掲載は、流石に無理かもしれないけれど。この出来ならば、選評くらいはつくのではないのかな」

 賞を取ったら雑誌や同人誌に掲載されることもありうるだろう。しかし自分のものがそのような立派な場にふさわしいなどとはやはり思えず、評価が過ぎると思ってしまった。

「あの二枚の半紙から、ここまで仕上げてきた巴さんだ。もう少し時間と添削を重ねれば、そのくらいになると思うよ」

 更に言い募られる。むしろ先生のほうが乗り気な様子であった。

 そこまで評価されるのは嬉しいのだけど、自分には荷が過ぎると思ってしまう。

 しかし、せっかくの先生のお言葉だ、お断りするのも失礼になる。

「ええと……その……」

 金香はそこで言い淀んでしまったのだがその次に言われたことは、さらに衝撃的だった。

「そこで提案なのだけど、添削のたびにこの遠くまできてもらうのは少々大変だと思う」

 確かにここまでくるのが大変でなかったとは言えない。いくら徒歩に慣れていて体力的にも問題のない身であるとしても、一時間近く歩いたのであるし、迷ったせいもあって少しは疲れていた。

「かといって、私が寺子屋へちょくちょく行けるほどの時間もあまり取れなくてね」

 それもそうだろう。しばらく源清先生がいらっしゃらなかったのもそういうことのはず。

 ふたつの点を挙げられたのだが。そこから導き出された次の言葉は意外が過ぎた。

「どうだろう、内弟子としてこちらへ住まうのは」

 内弟子とは。

 金香の思考はしばらく停止した。

 内弟子。つまり門下生となり、この家に同居するという意味だ。

 思い至った瞬間、頭の中が、かっと熱くなった。

 同じ家に!?

 『内弟子』という立場に取ってもらえることよりも金香にとっては重大事項であった。

 そのあとやっと内弟子、つまり門下生に誘っていただけたことに胸が熱くなる。嬉しいという単純な感情が胸に沸き上がる。

 しかしすぐに「はい」などとは言えなかった。

 『門下生』というのは男性がなる立場であろう。女性の自分がそのように扱っていただけるなど。

「そんなっ、勿体なさ過ぎます!」

 あわわ、と言い出しそうな声をやっと抑えて言ったのだが、源清先生の言葉は落ち着いていた。金香が動揺するのはわかっておられたのだろう。

「どうしてだい。きみの才を、私は伸ばしてみたいのだよ」

「で、ですが……それは男性のするもので……」

 この世情としては通常の考え方を口に出したのだが、源清先生によって、ばっさりと切り捨てられた。

「それは古い考えではないかな。ここしばらく、女性の立場もあがっているではないか。私もそれには賛成だね。良い人材は、どんどん評価されるべきであると思うよ」

 源清先生の思考は随分最先端なようであった。おまけに金香の葛藤を払うようなことまで言ってくださる。

「気になるのなら、出す名前を『男性ともとれる名前』にしておけばいい。そしていつか女性作家も、今より自然に受け入れられるようになったら公表すれば良いのだから」

 確かに。中性的な名前にしておけば読む側に勝手に『このひとは男性なのだろう』と思わせることができるだろう。

 そして、『物書き』としての本名ではない名前を付けることはよくあることなのだから嘘をつくわけでもない。

 万一、新人賞とやらでそれなりに評価されてもすぐに本人の素性を明かすわけでもないのだから。どんな名前にするかなどはすぐに思いつきはしなかったが金香にとっては魅力的すぎる提案であった。

 文が書ける。

 うまくいけばそれで立身できるかもしれない。

 そのうえ憧れの先生が『門下生に』おまけにそれ以上の『内弟子に』などと持ち掛けてくださった。

 これ以上の幸福があるだろうか。

 しかしすぐには即答できない。

 当たり前だ。金香の人生においてこれほど重大な決断を迫られたことは無いのだから。

「その、……少し、考えさせていただいても良いでしょうか」

 おずおずと言った金香の返事に満足したのだろう。源清先生は微笑んだ。

 勿論、二つ返事で返されるなどとは思っておられなかったはずだ。

「勿論だよ。ご家族とも、よく話し合って」

「……はい」

 『家族』という言葉に少し言葉が濁ってしまった。

 家族といっても親戚と疎遠である以上、父親しかいない。そして放任主義の父親が「駄目だ」などと言う気はしなかった。

 それどころか堂々と『内縁関係の女性』を家に連れ込めることを喜ぶかもしれない、などとすら思ってしまう。

 思ってしまって金香は内心ため息をついた。

 大切な、たった一人の肉親である父を、そのようなふうに思ってしまうことに。もっと大切に思いたいのに。それは父親の振る舞いのせいもあるので仕方がないともいえるのだが、

 しかしそれは父親にとっても良いことなのかもしれない。

 内縁とはいえ妻に似た立場だ。きちんと好いているのだ……と思いたい。

 そのような女性と暮らせるならばある意味、自分というお荷物の娘っこが家に居るより良いのではないだろうか?

 この件に関してはどうしてもマイナス思考になりがちな金香はそのような思考を巡らせ、ちょっと俯いてしまった。

 金香の様子を源清先生は「気が進まない」と思ってしまったのかもしれない。さらりと長めの横の髪を揺らして首をかしげ、フォローしてくださる。

「無理になど言わないよ。年頃の娘さんだ。親御さんとて手放すのは心配であろうから」

「……はい」

 流石に今、このような複雑かつ、少々情けない事情は口にできない。俯いたまま言った金香に源清先生は妙に猫なで声ともいえる優しい言葉をかけてくださる。

「この家と部屋にはいくらか空きがあるんだ。だからその点については心配いらないよ」

 確かに立派な家の割にはひとの気配は多くなかった。

 先程の高井、お茶を持ってきてくれた下女、そして庭で手入れをしている下男らしき者。

 見かけた人物はその程度であった。

「この家屋は私の師に譲り受けたのだ。師が住んでいた時代は私含め、たくさんの門下生を抱えていてね、そのためにまだひとの住む余地があるんだよ」

 なるほど、と金香は思った。そう言われば納得できる。

「私の師というのは、春陰(しゅんいん)という号を持っている者だ。雑誌などで見たことがあるかな」

 金香は仰天した。

 春陰……フルネームは『春陰 愁(しゅんいん うれい)』といえば今や、雑誌に何本も連載を抱えている、源清先生以上の大先生ではないか。小説家の師弟関係には詳しくないために初めて聞いた。

「は、はい! ございます! というか、ご連載を毎号拝読しておりまして……」

 金香にとって自由になるお金は少ないので、寺子屋の教員室で取っている定期購読の雑誌でではあったが。自分でお金を出しているわけではないのが申し訳なく思うのだが、「読んでいる」と言えたことは誇らしく思う。

「おや、それは嬉しい。師に伝えておこう」

「えっ、い、いいです!」

「ふふ、読者が増えたと言うだけだよ」

 慌てて言った金香に源清先生は心底おかしそうに言った。

 あ、このお顔は初めて見る、と金香は思ってしまう。

 ちょっとからかいを含んだ表情だ。妙に悪戯っぽく、また、……かわいらしい、などと思ってしまった。

 今日ご自宅にお邪魔してからはなんだか素の表情をいくつも拝見している気がする。それはとても新鮮で、またとても嬉しかった。

「さて、では本日はひと段落かな。次の添削はいつにしようか。私から赴いてもかまわないのだけど」

 言われて夢のような時間の終わりを知る。

 愉しい時間は早いものだ。あっという間にときが過ぎてしまった。窓の外の様子ももう夕方に近い。

 もしかして徒歩で帰る私を気づかってくださったのかしら。

 金香はちょっとくすぐったくなった。確かにこれ以上遅くなれば夏の手前とはいえ、家に帰り着く頃には日が暮れてしまうだろう。

「いえ! お邪魔でなければわたくしからお訪ねさせていただきます!」

 金香は言った。

 源清先生がいらっしゃるのなら寺子屋だろう。

 先程ご自分でおっしゃっていた。訪ねるのも時間のご都合的にあまり余裕が無いと。

 それを聞いてしまってはそうしていただくのは気が引ける。金香のほうは比較的自由に動けるのだし。

「そうかい? そうしていただけると有難いけれど、手間をかけてすまないね」

 そのあと次の日程も決まり、金香は源清先生に導かれて玄関へ向かった。源清先生自らお見送りをしてくださり、最後に念を押された。

「先程のこと、考えておいておくれ。出来れば次回返事を聞かせてもらえると嬉しいよ」

 そのくらいに自分のことを内弟子にと望んでくれているのか。

 金香の胸が熱くなる。尊敬する先生にこのようなこと、身に余る光栄だ。

 「それでは失礼いたします」と帰路についたのだが、なんだか足取りがふわふわしている気がした。

 内弟子、ですって。

 まさかこんな展開になるとは思わなかった。

 「自分を」と指名してくださったことが嬉しかった。

 自分の才を認めてくださったことが嬉しかった。

 なにより尊敬する方のおそばで暮らせるなどこのうえない幸運ではないか。

 でも同じお宅で生活するなんて毎日緊張で死んでしまいそう。

 思って頬が熱くなるのを感じた。

 男女の仲に極端に鈍い金香は『異性の内弟子になる』ということがどういう存在になるものなのかを、まったく知らないままに。

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