小説への昇華
しかしそこから週末を経て、週が明けても源清先生がいらっしゃることはなかった。
月曜日からそわそわしていたのだがなにも起こらなかった。金香の鞄と教室には常に完成した教材があったというのに。それぞれ写して複数作ったものが。
でもこれはまだ勉強の時間に使うのは躊躇われた。
見てくださると言っていただけたのだ、せっかくならば添削していただいてより良い状態になったものを使いたい。
源清先生がいらっしゃるのかどうかについて校長に聞こうか躊躇った。やはりこういうことを訊くのははしたないのではないか、と思ってしまったせいで。
よって金香は頭を振り絞った。そして言い訳を見つけた。それを使って何気ない振りで、教員室で捕まえた校長に質問してみたのだ。
「子供たちが、先週の文の授業がとても愉しかったと言っていたのですけど、源清先生はまたいらっしゃることはあるのでしょうか」
我ながら陳腐だと思ったのだが、校長はなにも不審に感じなかったらしい。
「そうですね、あの勉強はとても良かったと思います。しかし先生もお忙しいですから」
金香にとってあまり嬉しい回答ではなかった。
そうだ、先生の本業は小説家。お暇ではないのだ。むしろ源清先生の小説は書店に行けば何冊も並んでいる。
「ただ、子供らの様子も気になるとおっしゃってくださいましてね。それで折を見て立ち寄ってくださるとはおっしゃっていましたよ」
言われたことに金香の心はぱっと晴れた。
訪ねてくださるのだ。つまりすぐではないかもしれないがいつかはお会いできるのだ。
嬉しいと思ってしまった。が、頭に浮かんだことに金香は羞恥を覚えてしまう。
「子供らの様子も気になると」という言葉。
気になるのは『子供たち』で『自分に』ではない。
そんなこと、当たり前ではないか。
源清先生はあくまでも子供たちに文の勉強をしてくださるためにいらっしゃったのだ。金香の書いたものを見てくださったのはついで。それを自分のためであったら良いなどと図々しい。
「そういえば、巴さん」
頭の中でわたわたとしていた金香に校長がふと言った。
「源清先生の勉強の時間、巴さんも文を書いたでしょう」
そのとおりだったので「はい」と金香は頷いた。
「『大切な人』という題でしたね」
校長は続けるがそれはそのとおりで意図はわからなかった。単純に肯定しながらも、どうしてこのようなことを訊くのかと思ったのだったが。
「あのとき巴さんが題にしたのは、『寺子屋の皆』だったではないですか」
「……はい」
校長は勿論金香の家の事情は知っている。
そして『大切な人』に父親、つまり家族のことを選ばなかった理由もわかるだろう。
勿論理由はある。
勉強の場、つまり公共の場。子供たちの手本になるべき文。
なので家族や恋人……金香にとっては縁のない存在だが……そのようなひとたちを選ばなかったことは別に不自然ではないと思う。
が、金香の持つ『事情』が家族を題材としなかったことを校長はきちんと知っているのである。
「……言っていいものかわかりませんが」
校長は少し躊躇ったようだったが言った。言われたことに金香はおおいに驚いた。
「源清先生に、尋ねられたのですよ。『巴さんのご家族は』と」
プライベートなことなので校長が言い淀んだのはわかった。初めて会う人に話題にあげるには少々躊躇われることだ。
「お父上と暮らしてらっしゃる、とお答えしましたが」
「え、か、かまいませんが」
校長の返答としたことは単なる事実であり、金香の複雑な事情は話さなかったのだと伝わってきた。
そのくらいならばかまわない。ちょっとほっとした。
しかし次に言われたことには、ほっとした気持ちは吹っ飛んだ。
「先生はなにやら、気にしてくださっていたようですよ」
胸が熱くなった。
気にしてくださった?
初めて会った小娘に対しては勿体ないが過ぎる。
色恋沙汰などに縁のない金香は妙な勘繰りなどすることなくむしろ恐れ多いと受け取った。
「勿体ないことです」
「お優しい先生ですね」
校長はそれだけ答えて、あとはこのあとの勉強の内容の話になった。
校長との話を終えて、教室へ向かいながら金香の胸は熱いままだった。
先生が気にかけてくださったなど有難すぎることだ。
自分の気持ちにも気付くことはなかった。
ただ先生として彼を敬う気持ちだと思っていたので。
「こんにちは、お久しぶりだね」
その週が終わる最後の一日。つまり金曜日。
ふらっと現れた人に金香は心臓が胸から飛び出すのではないかと思った。
勉強の時間も終えて資料や教科書などもまとめ、教員室に戻ってきたときのことだった。
教員室にはずっと逢いたいと思っていた源清先生がいらしたのだから。
本日も和服……というより和洋折衷だろうか。和服を基調としているのだが、中に着ているのは黒いシャツであった。学生の着る書生スタイルに少し似ている。
しかしとても似合っていた。小説家、という雰囲気にぴったりであったので。
「あっ、えっと、お久しぶりです!」
あたふたと金香はご挨拶をした。
その様子があまりに慌てていたからか、源清先生は、くすっと笑った。くちもとに手をやって。このひとの育ちの良さを表すような仕草だった。
「やっと原稿がひと段落したのでね、お邪魔させてもらったよ」
「そ、そうなんですね! お疲れ様でした!」
「有難う」
端的な会話だというのに嬉しくてならない。
目の前の源清先生は前回お会いしたときのように美しかった。今日も後ろでくくられている濃い茶の髪はつやつや。焦げ茶の瞳もあたたかそう。
春も盛りだからだろうか。彼の持つ美しさが強調されてしまっているのは。
「今日は夕方からしか時間が空かなかったのでね、子供たちの勉強を見てやることはできなかったのだけど」
金香の胸に期待が溢れた。
それはまさか自分の書いたものを見に来てくださったのだろうか?
急速に胸がどきどきとしてくる。そしてそれは幸運なことに期待した通りであった。
「巴さんの作られた教材を見たくて。少し早いかとは思ったのだけど……」
「そ、そんなことはありません! もう出来ております!」
胸が熱くてたまらず言った言葉は上ずってしまった。それを知ってか知らずか源清先生はもう一度ふふっと笑う。
「おや、早いのだね。早さも才能のひとつだよ」
「そんな……勿体ないお言葉です」
「本当のことなのだがね。では、良かったら見せてくれるかな」
「はい! お願いいたします!」
そのようないきさつで、部屋で作った教材を見ていただけることになった。今度は二人だけの教室ではなく教員室にある簡単な談話室であったけれど。
二人きりでないことを少し残念になってしまい金香は自分に戸惑った。
それがどういう意味かなど恋愛に詳しくない金香にはわからない。
ただ憧れの人と共にいられるだけで嬉しいとだけ思ってしまう。
「拝見するよ」
「お願いいたします」
源清先生は金香の持っていた何枚もの半紙を手に取り読んでくださる。
見られている間、金香はただ机の下で手をもじもじとさせていた。自分の文章は懸命に書いたとはいえ本業の小説家の先生にしたら未熟も良いところに決まっていた。嬉しくも恥ずかしかった。
「……これは、子供たちの習熟度に合わせて、いくつか種類があるのだね」
やがて源清先生は顔をあげた。一読しただけで気付いてくださったのは流石である。
「はい。子供たちの年齢にも習熟度にもかなり、違いがありますから」
「巴さんの作る教材はとても丁寧だね。子供たちのことを考えて作っているのが、良く伝わってくるよ」
源清先生の声音があまりに優しかったので金香の胸は歓喜に沸いてしまう。
一度は肯定してくださる源清先生のことだ。はじめは良い言葉をかけてくださると思ってはいたけれど、はっきり言われれば嬉しさで胸が膨らんだ。
「では直したほうが良いところだけど……。ここはセンテンスの区切りを変えるのはどうだろう。そのほうが、のちのちの文章の想像が広がると思うよ」
「は、はい!」
源清先生は持ち歩いているのだろうか、赤鉛筆を取り出して金香の半紙にさらさらと書き込みをしてくださった。
金香はそれを見守る。じっと、ひとつも洩らすまいと。
半紙には直しの赤い色が散った。
頑張って作ったものに容赦なく訂正を入れられれば不満を覚えたかもしれなかった。そんなことを思わなかったのは金香が源清先生に対して信頼を抱いていたからだろう。尊敬している人のことであれば素直に受け入れることができて当然だ。
「そうだね、気になるところはこのくらいだ」
『このくらい』と言いつつも、源清先生の入れた赤いしるしはかなり多かった。金香がこれほどしっかりと見ていただいたことに感嘆を覚えてしまうほどに。
ほう、という表情で、しるしのついた半紙を持ち上げて見る金香に源清先生は誤解をしたのかもしれない。
「私は自分の原稿も何度も読みなおすのだけど、自分でもこれくらい直しを入れるものだよ。ときにはもっと多いかもしれない」
「え……?」
すぐには意味がわからなかった。源清先生はきょとんとした金香にかまわず、続ける。
「完璧な文章など存在しないからね。でも職業として小説を書き、提出し、本にしていただくのには、どこかで折り合いをつけることも必要になってくる」
聞いていくうちに金香は理解した。そしてそれはとんでもない誤解であった。
「そんな! 不満など覚えておりません!」
金香の勢いに驚いたのは源清先生のほうだったようだ。焦げ茶の丸い瞳がきょとりとした。
あ、このお顔は初めて拝見する、と一瞬金香はどきりとした。
それでも続ける。
「精進の余地があるというのはとても素晴らしいことですから! 感嘆しておりました」
「そう? それなら嬉しいな」
源清先生は、ほっとしたようだ。破顔する。
金香もほっとした。
自分が不満を覚えたなどと、誤解を解くことができたことに。不満などないのが本心であったのだから。
少し沈黙が落ちた。
源清先生の視線は金香が持っている半紙に向いていた。
直接自分に視線が向けられなくとも、自分の作に視線を遣ってくださっていることに金香はまたどきまぎとしてしまう。
源清先生は数秒後に口を開いた。それは意外過ぎる言葉だった。
「これは教材ではあるのだろうけど、もう少し手を入れてみる気はないかい」
なにを言われたのかわからなかった。反応を予測していたように源清先生は続ける。
「特にこの一番年長の子供に向けた小話。これは教材としてではなく、もう少し『小説』として組み立てなおせば、なかなか良い作品になるのではないのかな」
小説?
作品?
これを?
こんな稚拙なものを?
驚きのあまり、金香は声をあげていた。
「え、そ、そんなこと! 過ぎる評価です!」
「そんなことはないよ。私はお世辞は言わない」
「そ、…………そうだと、お察しいたしますけど……」
しどろもどろに言った金香に、源清先生は優しい声をもっと優しくして言った。あまつさえ、半紙の向こうの金香の目を見やりながら。
「もしもこれを仕上げるつもりがあるのなら、私にまた見せてほしい。こちらを訪ねるのはなかなか時間もないから、もし巴さんがよろしければ、私の仕事場、まぁ自宅なのだがね。持ってきていただけると嬉しいのだけど」
なんと身に余る光栄か。
金香に『否』を答えるつもりなどなかった。
気が引けるという気持ちはあったのだけど、喜びのほうがずっと大きかったのだから。
「も、……もしよろしいのでしたら、取り組んでみます……」
急速に顔が熱くなる。嬉しい気持ちが胸を満たした。
偉大な先生に『良いものになりそうだ』などと言っていただけた。
おまけに完成したら読んでいただける。批評もくださるだろう。
そんな『書いたものを評価していただける』という事案よりほかに、嬉しかったことがもうひとつある。
自分のことを見て、評価してくださったこと。
作品だけでなく気にかけてくださったこと。
それを……嬉しいと思ってしまったこと。
金香が『個人的に源清先生に好ましい感情を抱いている』ということをほんのりとしてではあるが自覚したのはこのときであった。
その感情は初めてのもので、金香は戸惑った。
そんな金香にかまわず、少なくともかまわずという様子で源清先生は懐に手を入れた。一枚の紙を取り出す。金香に差し出した。
金香は反射的に手を出してそれを受け取る。
見ただけでわかった。名刺だ。
「私の住所が書いてある。こちらへいらっしゃい。この名刺を出せば通してくれるよう、同居の者に伝えておくから」
「は、はい!」
金香の声はひっくり返った。源清先生はちょっと微笑み、そして続けた。
「そうだね……木曜日がいい。木曜日は、弟子の添削に使うことが多い」
お弟子さんの添削?
それはつまりお弟子さん程度の力量があると思っていただけたと思っていいのだろうか。
などと思ってしまい、金香は一気にぶんぶんと頭を振った。心の中だけであるが。
なんと図々しいことを。幸いその気持ちは表に出ていなかったらしい。
「勿論、巴さんも寺子屋のお仕事もあるだろうから、ほかの曜日でも構わないよ。家に居て原稿を書いているときも多いから」
おまけにお気遣いまでされて、金香は即答していた。
「いえ! お時間のご都合の良いときに伺います!」
「有難う」
源清先生は今度ははっきりと微笑んだ。そして席を立つ。
「では、本日はこのへんで失礼するね。付き合ってくれて、有難う」
「そんな! わたくしこそ、先生の貴重なお時間を使っていただき感謝いたします!」
「いや、素敵なものを読ませていただいたよ。ではね」
軽く礼をして、源清先生は先に教員室に出ていってしまった。
慌てて席を立ち「はい、またよろしくお願いいたします」と返事をして同じく一礼して先生をお見送りした金香であったが、しばらくぽうっとしていた。
一体なにがあったのだろう。教材の添削をしていただくだけだと思っていたのにコトは意外な方向へ転がっていってしまったようだ。まさかこんなことになろうとは。
過ぎる評価と提案。
金香はぼんやりと目の前の机の上を見る。机には源清先生の残してくださった赤いしるしがつけられた半紙が何枚も散らばっていた。
「お先に失礼致します」
どこか夢心地のまま金香は荷をまとめて寺子屋を出た。
今日あったことはなんだったのだろう。まるで夢のようだった。
交わした言葉だけではなく幾度かかち合った源清先生の視線を思い出すと妙に胸がざわつく。
やわらかな羽ペンでくすぐられているような、蝋燭に火をつけられたような。気恥ずかしくもどかしく、しかしあたたかい想い。
既に実際にお会いせずとも源清先生のお姿は金香の頭の中にはっきりと思い描けるようになっていた。
さらりとした茶色の髪も。優し気な焦げ茶の瞳も。常に浮かべている微笑も。細身ながら男性らしく長身な体躯も。低いけれどやわらかな色を帯びたお声も。そして近くに寄ればふわっと感じられる香の良い香りも。くらりと酔わされてしまいそうな香り。
これはすでにはっきりと恋であったのだが、残念ながら金香がそれに思い至ることはなかった。
なにしろ初めて抱く感情であったのだ。文を書くことが好きである以上、本はたくさん読んできてこういう感情を『恋』と呼ぶのだという知識はあるが、金香にとって未だ実感としては一度も感じたことのない気持ちであった。よって感情と感情を表す言葉が直結しなかったといえる。
これほど源清先生に憧れてしまったのね。
あまつさえそのように思ってしまう始末で。
そのような感情であったのなら、これほどぼんやりしてしまうはずがなかったのに。
この『憧れ』……と、実のところは誤解している気持ちなのだが……、の感情をどうしたら良いのかわからない。
誤解はしていたが、『惹かれている』という事実は自覚していたのでぼんやりと思い悩む一人の帰り道。顔が赤く染まりそうで仕方がなかった。
でもこの悩みは不快なものではなかった。むしろあたたかくて心地よい。
年頃の女の子であるのだ。このような感情を厭うはずがない。
それはともかく、どのくらいぼんやりしていたかというと、夕食の買い出しを忘れて帰宅してしまうくらい。この日は父親が家に居たのできちんと作らなければならなかったのに。
そのせいで家に着いてから自分の失態にはっと気づいて、バタバタと買い物に出ることになった。八百屋と肉屋を回って、食材をやっと買う。なんとか格好はつくだろう。
袋を抱えて帰路につきながら、もう一度自分がおかしくなっている、と金香は噛みしめてしまった。
自分がこれほどひとつの想いにとらわれて、ぼうっとしてしまうなど、金香には信じられないことであった。
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