独りの家で
「ただいま帰りました」
今日も寺子屋での仕事を終え、金香は自宅へと帰宅した。
ただし返事をしてくれる人はいない。住み慣れた家はしんと静まり返っている。
母親はとっくに亡い。金香が物心つく前には。母の記憶すら曖昧であることは、金香にとっては哀しいことであった。
おまけに共に暮らしている肉親である父親にも事情があるため、金香は半分一人暮らしのようなもの。
ここ数日も父親は家を空けていた。
ある日、寺子屋から帰ったら端書きが置いてあった。
『急な仕事が入った。一週間ほど留守にする』
書いてあったのは、それだけ。
父親は昔から荷運びを生業としていた。馬を使って山を越えて山の向こうの街や、ときにはもっと遠く、ここには無い海の近くまで荷を届けるのである。
大変な仕事であることはわかっている。毎日宿にありつけるとは限らない。野宿もざらであると聞いていたし、子供の頃はとても心配だった。
しかし今はそんな気持ちも薄れてしまった。
父親は金香と共に暮らすことに関してあまり興味が無いようだったので。子供の頃はもう少しかまってくれたものだったけれど。
その理由はなんとなく察していた。
妻と死別して長い父親。多分外に女性がいる。紹介されたことはなかったが雰囲気でそうではないかと思っていた。女性の気配を感じるのだ。
帰ってくる父親は大抵それをまとって金香はそのことをよく思っていなかった。
そんなこと、はっきり言ってしまえば汚らわしい、と思ってしまうのだ。
金香の母と、妻と死別しているのだから、ほかに女性とねんごろになるのはかまわない。しかし結縁もせずに関係だけを持つのは良いことだとは思わなかった。
そういうことなら金香にも紹介するなりして、場合によっては同じ家に同居して、きちんと新しい妻として扱ってほしい。誠意として相手の女性にもそうあるべきではないだろうか。
金香の考えとしては、そのようなものであった。そしてそのような事情が金香にとっての男性観を少々歪めていたといえる。
男の人の愛情をあまり良いものだと思えない。身内がこのようであれば仕方がないのかもしれないが。
勿論理解はしていた。自分の父親がそうであるというだけで、すべての男性がそうであると思ってはいけないと。
ちなみに母を亡くした金香を育ててくれたのは祖母であった。
しかしその祖母も、もう前に亡くなった。そのときばかりは金香は大泣きし長いこと塞ぎ込んだ。
金香が寺子屋を卒業する少し前のことだった。十二頃のことだったので親戚に引き取られるという話も出なかったわけではない。
しかし一応、寺子屋を出たら成人としてみなされるのが常。親戚とも縁は深くなかった。
十二の女の子。微妙な年ごろだ。もう少しすれば嫁のやり手なども考えなければいけないだろう。育てるだけでなく面倒をかけることが多い年頃だったのだ。
親戚のほうでもあれこれと話し合いはされたようだったが祖母をなくしたショックから少し立ち直っていた金香は言った。
「このおうちにいます」「お父様もいるから、平気です」と。
嘘だった。というか強がりだった。
「お父様もいるから」なんて月の半分以上居ないというのに。ほぼ一人暮らしになるというのに。
そして親戚も体裁上は「心配だ」という言葉は口にしたものの金香のその言葉を承諾した。つまり金香本人がそう望んだこととはいえ結果的には放置された。
そういう点でも家族とも、そして男性とも縁が遠いのである。
そんな金香がなんとか暮らしているのは寺子屋の教師のおかげであった。
金香は寺子屋での成績が大変優秀だった。男の子であれば高等学校などへの進学も勧められたかもしれない。
しかし高等学校というのは成績が良ければ誰でも入れるものではない。お金も相当かかる。
更に女の子で上の学校へ行く者はほとんどいない。良い家のお嬢様、その中でも新しい教育に関心のある家でないと。
なので金香ははじめから期待はしていなかった。
寺子屋を出たら伝手(つて)を辿ってどこかのお店(たな)で働かせて貰おうかと思っていた。小料理屋でも小売店でも働き口は色々あるだろう。女性は必ずしもどこかで働かなければならないというわけではないが、寺子屋を出た女子の行く道は大体決まっていた。
『嫁に行く』
『花嫁修業をする』
『家業を手伝ったり、お店で働く』
これらのどれかである。
ただし花嫁修業など優雅なことができるのは良い家の娘だけであったので庶民の家の女子は大抵、嫁に出されるか働くかであった。
そして結縁を決めるのは九割がた、親である。そして金香の父親はそのようなことに特に関心が無いようだった。
つまり金香には当時から、『嫁に行く』という選択肢はなかったのである。
そんな金香が幸いだったのは、成績の良さから教師に声をかけられたこと。
「寺子屋で教師の手伝いをしないか」と。
勿論女性を軽視される風潮である以上、提示された時点で賃金も待遇もそれほど良いとは言えないものだった。しかし一からどこか勤め口を探すよりはずっと楽だった。
それにほとんど家を空けているとはいえ、父親はお金の面ではそれほどだらしなくはなかった。家賃もきちんと払う人であったしお金も置いていってくれる。
ぜいたくな暮らしなどはとんでもないが、自分でたくさん稼がずとも僅かなお給料でも衣食に困るほどではない。
ゆえに寺子屋の仕事を受け……今に至る。十三頃から教師の真似事をしているのだ。
そのような事情はさておき、金香はまず自室へ向かって荷を置いた。
まずは夕餉を作らなければいけない。
買ってきていた野菜と、昨日近所から分けてもらった卵があった。
料理はいつも簡単に済ませていた。父親がいればそれなりのものを作るのだが、自分だけと思ってしまうとそう豪勢なものは作らない。
よって金香は随分痩せていた。質素ではあるがきちんと食事を食べ、寺子屋では子供と駆け回ることもあるので不健康というわけではないのだが、湯あみの際などにもう少し豊満になったほうが良いのかしら、と思うことはあるのであった。
ただ、その行き先……最終的には男性と契ることに関してはあまり考えたくない。
なにしろ男性に良い感情が無い。触れられたいと思えるはずがないではないか。
野菜を取り出し水道で軽く洗う。葉を振るって水気を落としたあとは、まな板の上へ。包丁でとんとんと切り分けていった。
食事の支度をしながら金香はぼんやり考えていた。
恋には憧れている。素敵な男の人に大切にされればどんなにか幸せだろう。
私のお母様はどうだったのかな。お父様が好きで嫁いできたのかな。きっと好きだったのだろうけど。
もう今となっては、尋ねるすべもない。ただ早くに逝ってしまったとしても、それまでの時間が幸せなものであったら良かったのだけど。
母の顔すらあいまいであるというのに金香はそのように願っていた。自分のことはかえりみることなく。
つまり『自分のこと』。
現在、愛してくれる人のいない、自分の寂しさのことはほぼ自覚していなかったといえる。
食事と湯あみを終える頃には、あたりはとっぷりと暮れていた。
明日も寺子屋での仕事が入っている。早く寝なければいけないのだが、今夜はやりたいことがあった。
それは例の教材を作る作業である。源清先生の出張教師の日から、三日ほどが経っていた。
つまり「書いたら見せてほしい」と言われてからそれだけが経っているのだ。
源清先生は特に「いついつに来よう」とはおっしゃらなかった。なので締め切りがあるというわけではなかったのだが、訪ねてくださったときに「まだ出来ていません」などとはいえない。
そもそもこちらにきてくださるのかという時点でよくわからなかった。出張教師ということになったのは校長か寺子屋の偉い人となにか繋がりがあるのだろうけど。
金香のような教師見習い、教師とは一線引かれている女性である存在としては、あずかり知らぬ領域である。
いついらっしゃるのか、もしくはいらしてくれる機会があるのか。
校長に聞けば教えてくれるのかもしれないがなんとなく躊躇われた。
源清先生から校長に『金香の文を見てくださる』という約束……約束、といっていいだろうか、と金香は少々不安になったが、とりあえずそのことは伝わっているかわからないのだ。
だから図々しいと咎められるかもしれないし、それよりもなんだか気まずい。
その正体はわかっていなかったけれど。
なんとなく、源清先生と個人的に会話をしたことを進んで話したいとは思えなかった。
そのようなことを他人に言うのははしたないのではないだろうか。源清先生から言ってくださるのならともかく女性の身から言うというのは。
そのくらいに思っていた。
そのように感じる気持ちは『男性への引け目』だと思っていた。
今の金香はそれが『気になる男性との会話を他人に話す気まずさ』だとは微塵も思っていなかったのである。
とにかく今は目の前の教材を仕上げることだ。源清先生に初めてお会いしたその日の晩から作りはじめていたがまだ完成していない。
今回の教材は文の組み立てについてのもの。いくつかセンテンスを作り、どう繋げるのが良いか、組み合わせを変えることによって伝えたいことや意味が変わってくることを考えさせるもの。
単なる例文ではあるので、そう難しいことはない、と作る前は思っていた。
しかし手を付けてみれば意外と手のかかるものであった。子供たちの年齢や習熟度に合うようなものを、何種類も作らなければいけない。
そしてそれぞれ長さが必要になってくる。勿論、最終的な文章としての統合性も。
今回は物語調にしようと思っていた。
幼い子供向けには親しみやすいよう、童話風に。
逆に大きくなってきた子たち向けには少し論調のあるものを。
書き分けにも頭を使うのであった。
教材としては自分で言ったように一般に流通している小説を使うこともある。今回それをしなかったのは単純に金香の趣味だ。
自分で作ろうと決めてそれを上の教師に伝えたことをちょっと後悔している。そのことで源清先生のお耳に入ってしまったのだから。
後悔というのは自分の稚拙な文を『見ていただける』という事態に軽率に持っていってしまったことである。こうなると知れていたら、もっと違う方法を取ったのかもしれないと思うのだが、どちらにせよもう遅いのであるし。
それに嬉しかった。
文を書くのが好きなのだ。小説家の先生に見て貰えるなど身に余る光栄。
もう何回噛みしめたかもわからぬことをもう一度胸の中で反芻し、金香は半紙に鉛筆を走らせた。
頭の中にあることを鉛筆で文字としておろしていく。それは緊張しつつも心地良く愉しい作業であった。
気が付いたときには夜はすっかりふけていた。日付も変わっているかもしれない。
いけない、早く寝ないと、と金香は慌てて鉛筆を片付けた。
これほど夜更かしをすることはあまりない。寺子屋へ行く前に家のことをするために、早くに起きねばならないのだから。
明日は少々寝不足になるかもしれない、などと思いながらも金香は満足していた。
この進み具合ならば明後日には完成しているだろう。
つまり源清先生が明日ひょっこりと現れない限りは「まだ出来ていません」などと情けないことを言う事態にはならなさそうだった。
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