玲編 生きること自体が
改めて、地球人の中には、
『可愛いから食べられない!』
と、動物由来の食品を食べることを禁忌と主張する者もいたが、まあ俺も特に可愛い動物を見てしまうと躊躇ってしまうこともないわけじゃなかったが、自然においてはそんな理屈、まったく通じないんだよな。リスのような
『自分が生きるには他の命を糧にするしかない』
のは、どこまでいっても事実なんだ。
『動物は可哀想だが植物は可哀想じゃない』
なんてのもただの詭弁でしかない。植物にも、動物とは全く仕組みが異なるが、
<苦痛という感覚>
はあるそうだ。その仕組みが違い過ぎていて人間には実感できないだけで。
そして、最初から完全に科学的に合成された食品を作るにも、結局、原材料を調達する際には何らかの命を奪っているし、何より、食品を製造する工場では衛生環境を徹底するためにいわゆる<衛生害虫>を筆頭とした虫や小動物について常に殺戮してるんだよな。
つまり『生きる』ということは、『他の命を奪う』という形でしか成立しえないってわけだ。
俺はここにきて、何度も何度も何度も何度も何度もその事実を思い知らされてきた。なるべく無益な殺生は避けたいとも思いつつ、決してゼロにはできない。他の命を一切奪わないようにするためには、自分が生きてちゃいけないんだよ。
『食べる』だけじゃなく、ただ毎日生活しているだけでも、自分が普段使っているものだけでも、無数の命の犠牲の上に成り立ってるんだ。この事実は変えようもない。
人間以外の一切の命が存在しない人工環境で暮らすにしたって、
『その人工環境を作り出すまでの間に無数の命が奪われる』
しな。所詮はどこまでいっても、
『どこで線引きをするか?』
という話でしかない。『生きる』ということと向き合えば向き合うほど、それを突き付けられるんだ。
まあ、どこで線引きをするかは個人の勝手だろう。好きにすればいい。だがそれを他者にまで強要するのはお門違いだ。それをわきまえないから諍いが生まれる。
AI・ロボット排斥主義者の話でもそうだったが、<理念>ばかりいくら高く掲げても、『物理的に無理』だったり、『結局は誰かにしわ寄せがいく』だけだったりするんだよ。
それをわきまえないと、生きること自体がただの矛盾になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます