ビアンカ編 分の悪い賭け

きたるが亡くなっても、世界は何一つ変わることなく存在し、久利生くりう未来みらいもビアンカもルコアもあかりも生きていかないといけない。


ビアンカが素戔嗚すさのおのところに向かった後も、あかりとルコアで畑を見ることにして、人手が足りない部分はドーベルマンMPMで補う。


「……」


池に浮かんでぼんやりとしている未来みらいを、ルコアが心配そうに見ていた。それに対してあかりが、


未来みらいはテレジアが見ててくれるから……」


と声を掛ける。


が、ルコアが心配してるのはそこじゃないのは、あかりにも分かってる。分かってるが、他にどう言っていいのか分からなかったんだろう。


「はい……」


それでも、ルコアもあかりの気遣いを察してくれる。これまでの丁寧な対応が、この関係を作り上げてくれた。これがもし、一方的に高圧的に従わせようとしてたなら、こうはならなかっただろうな。


たぶん、これまでにも何度か言ったと思うが、フィクションなんかで厳しく接してくる人物相手に心を開いている描写があったりするのは、そもそも根底の部分である程度の信頼関係が成立してるからのはずだ。信頼関係を築ける要素があればこそ、厳しく接してもその厳しさの中に<意味>を見出すことができる。しかしそれは、受け手側の感性に頼った<分の悪い賭け>でしかないんだ。


『<厳しさの向こうにある信頼に足る部分>を察してくれる感性を持っていることに頼った』


な。


受け手側がそれを察してくれなければ、ただの<理不尽な輩>にしかならないんだよ。


そんな<分の悪い賭け>しかできないのが、<大人>というものなのか? 相手にきちんと丁寧に分かるように伝える努力をしないのが、大人なのか?


俺はそうは思わないし、あかりももう、実年齢でも二十代半ばの、それなりの年齢だ。言動にはいまだ子供っぽさも残しつつ、でも彼女はちゃんとわきまえてくれている。だからこそ、ルコアとの信頼関係も構築しつつある。


優しいが甘くはない。甘くはないが理不尽ではない。そういう大人なんだ。『甘えさせる』ことはしても、それは決して『甘やかす』じゃない。『甘やかす』というのは、所詮、


『お菓子でも玩具おもちゃでも(こちらが簡単に用意できるものなら)あげるから、言いなりになってほしい』


という身勝手さの裏返しでしかない。『甘やかし』は、それをする側こそが『甘えてる』んだ。手を抜きたくてな。楽をしたくてな。


でも、あかりはそうじゃない。ルコアを受け止めるために、しっかりと努力をする。


そういう大人であればこそ、ルコアのような大変な事情を抱えた子が頼ることもできる。


「ありがとう、ルコア」


とても穏やかな目で、あかりはルコアを見る。


「……」


ルコアも、穏やかな表情で頷いてくれる。


こうして二人は、畑作業を続けたのだった。


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