身の危険を感じてるから(敏感にもなる)

野生の生き物は、普段の生活がそもそも死と隣り合わせだからか感覚が鋭く、人間なら見逃してしまうような違和感でも察してしまうことは多いんだろうな。


ただ、人間でもそれを察知してしまう場合はあって、それがメイトギアに対する違和感や不信感に繋がるのかもしれない。


特に精神的に追い詰められていたりすると、人間でも野生のものに近い敏感さを発揮してしまったりするんだろうか。


身の危険を感じてるから。


そう考えると俺がひどくメイトギアを毛嫌いしていた理由も何となく分かる気がする。


それが、ここに来たことで逆に精神的に余裕ができたこともあって平気になったんだから、まったく皮肉な話だ。


人間の社会そのものが人間自身を追い詰めることもあるというのは、本当にどうにかならないものだろうか。


と言っても、すべてにおいて完璧な社会というもの自体が存在しえないという現実がある限り、零れ落ちる者が出るのは避けようのないことなのか。


エレクシアが、ある社会学者の言葉を教えてくれた。


「社会とは、異なる価値観が混在し、それらを同時に内包する機構そのものを指す言葉だと定義する学者もいます。その学者によると、いかなる対立する価値観も存在せず、すべての人間が等しい価値観を持って同じ目的に向かって邁進するものは<社会>とは言えず、むしろ<装置>と称するべきものであるとも主張しているそうです」


その言葉に、


『ああ、なるほどそうかもしれないな』


とも思わされてしまった。


異なる価値観を持つ者が存在せず、誰もが完璧に同じ目的を持って生きている光景なんて、想像すると不気味だな。それこそもう、メイトギアを大量に生産して人間に代わって活動させておけばいいだろうという話のような気がする。


まさに、


『人間なんて要らない』


という話になってしまいそうだ。


だがそれではたぶん意味がない。人間が生きる為に社会を作ったというのに、


『完璧な社会を実現したら人間が不要になった』


じゃ、それこそ本末転倒だ。何をしてるのか分からない。


だからどうしても零れ落ちてしまう者をフォローする仕組みは整備しつつ、対立する価値観は残しつつ、いかに折り合いをつけていくかを目指すのが、人間の社会の在り方なのかもしれない。


そういうことについても、人間社会を離れて第三者的な視点で客観的に見られるようになったから思えるようになったというのも、まったくもって皮肉な話だよ。


だが、今さらであってもそう思えるようになったのは、存外、悪くない。


ここでも、小さいながらも<社会>のようなものは存在するんだから、それをいかに受け止めるかという意味で役にも立つからな。


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