男は人前で涙を(場合によっては大目にみてほしい)

妹のことで精神を病み、人間社会そのもの憎悪してた頃の俺は、たまに優しくしてくれる人が現れたとしてもそれを深読みして邪推して、『何か魂胆があるに違いない』と思い込んで逆に攻撃的に振る舞ったりもしていたのを覚えてる。


そりゃ、そんなことをしてたら相手も気が悪いよな。当時の俺の振る舞いを、俺自身、同情できない。


で、当然のこととしてそれでさらに状況を悪くしてますます優しくしてくれる人間が自分の周りからいなくなってという悪循環に陥ってた。


だから本当は、そういう苦しい時にこそ気持ちに余裕を持つことを心掛けなきゃいけないんだろうが、それができないくらいに追い詰められているという状況でもあるんだ。


酷いジレンマだよ。


そんな訳で、今では苦しい状況にある相手が少々攻撃的だろうと礼儀知らず恩知らずな態度を取ろうと『そういうものだ』と思うようにはしてるんだが、正直、それを活かせる状況はあまりない。


ああでも、きょうみずちばんに対して、<危険な敵>とは認識しつつも、何とか互いに折り合う方法はないかと模索しようとしたという点では役に立ってるのか。


本当に、自分の経験というのは自分にとって役立つものなんだなと実感するよ。


たとえそれがどんなに苦痛に満ちた経験であったとしてもな。


まあ、役立てるか無駄にするかも己次第って面もあるんだろうが。


じんを、ようを、れんを亡くしたことは本当に辛いが、それもまた経験として活かすことができるのも人間という生き物なんだろう。


あかりも、ひかりも、シモーヌもそうだと思う。


また同時に、<泣く>ということについても改めて考えさせられた気もする。








新暦〇〇二三年九月二日。




と言うのも、ようを送った翌日にはもう、あかりはさっぱりした表情をしていたんだ。野生に生きるタカ人間アクシーズとしての特性を引き継いだことでそういう切り替えの早さを元々持っているというのもあるんだろうが、昨日、俺と一緒に気の済むまで泣いたことも良い形で役立ってるのかもしれない。


俺自身、なんだか気持ちが軽くなった気もするしな。


『男は人前で涙を見せるものじゃない』


と昔は言われたそうだが、しかし大切な者を喪った時や大切な者が苦しんでる時にその人を想って流す涙くらいは大目に見てもらえたらなと正直思う。


<泣く>っていうのは、他の動物よりもはるかに複雑で重い精神活動を行う人間にとっては、その安定を図るための重要な<制御弁>の役目をしてる気もするんだ。泣いて発散することで、精神が破綻するのを予防するという感じで。


泣いたからといって状況が良くなる訳じゃないにしても、たぶんそれは、周囲の状況をよくする為のものじゃなく、その状況を自分自身が受け止める為に必要なことなんだろうと思うんだ。


昔の俺も素直に泣けてたらちょっとは違ってたんだろうか。


もっとも、だからって泣いてばかりでもかえって状況を悪くするかもしれないから、その辺りも考えないといけないんだろうけどな。


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