因果応報、自業自得(という言葉は、俺は好きじゃない)

新暦〇〇二二年十一月八日。




今回、らいが迎えた結末について、俺は、<因果応報>とか<自業自得>という言葉は安易に使いたくなかった。


と言うのも、ここで暮らしてて実感したんだ。


『その結末を招くような原因は確かに作ったかもしれないが、実際にそうなるかどうかは、なってみないと分からない』


ってね。


確かにらいの場合はまさに<因果応報><自業自得>と言える最期を迎えたかもしれないが、これまでに得たデータによると、他の群れで似たようなことが起こった場合、らいと同じようなことをした奴が必ず同じ結末を迎えたかと言うと、実はそうとは限らなかったんだ。


危ういながらも群れをまとめ上げて、しかもボスの座についてから少しずつ鷹揚な態度を見せ始めるようになった例もある。『立場が人を作る』とも言うが、それと似たようなことがボノボ人間パパニアンの社会でも起こるようだ。


それで言うと、今回は、まだたった一ヶ月だった。そこを乗り越えてらいがもしボスに相応しい振る舞いを身に付けて行ったなら、違った結果を招いていたかもしれない。


もちろん既に結果が出てしまった以上、この群れでのケースとしてはそれはただの<たられば>に過ぎない。過ぎないが、現に他の群れではそちらの結末に至った事例も確かにあるんだ。<因果応報>や<自業自得>もなくね。


それはつまり、<因果応報>や<自業自得>なんてもの自体が、フィクションの演出や展開のように必ず起こるものじゃないってことだ。


それに、悪い結果、苦しい結果、厳しい結果を招くのが、<因果応報>や<自業自得>の所為なら、俺の妹の光莉ひかりがあんな最期を迎えなきゃいけなかったのは、何かそういう結果を招く<悪いこと>をしたからだって言うのか?


有り得ない。そんな訳がないじゃないか。あの子があれを発症したのは、まだほんの子供の頃だったんだ。それであんな目に遭わなきゃいけないほどの悪行をしたって言うのか? 子供にできる程度の<悪さ>があれを招いたのなら、この世の人間の殆どが同じ結末を迎えなきゃおかしい筈だ。


でも、現実にはそうじゃない。


<因果応報>や<自業自得>って言葉自体が、ただの憂さ晴らしの為の妄想や願望に過ぎないっていうのを、俺は実感してきたよ。


もしくは、苦しい状況に置かれた人間自身が、自分を納得させる為の<方便>として使うっていうのが本来の使い方なんだろうな。


決して、他人に向かって、


『因果応報だ!』


『自業自得だ!』


って罵るような使い方をする為の言葉じゃないって感じるんだ。


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