たーちゃん

「麻梛さーん、ちょっと!」


 またかと思いながら、麻梛は奈美子が待っているトイレへと向かう。


「麻梛さん。便座カバーが少し汚れているわね」


 奈美子は眼鏡に手をやって、麻梛の顔をじっとりと見る。


「たーちゃんの肌が直接触れる物なんだから、清潔にしておいてって、いつも言ってるでしょ」


 麻梛から見れば、まったく汚れているようには見えないのだが、奈美子は気に食わない。「それから」と言いながら、奈美子はリビングへ移動し、テレビの前に立つ。


「テレビの裏にも埃が見えるわ。たーちゃんは、小さい頃気管支が弱くて大変だったのよ」


 これも麻梛にとって、お馴染みの小言だ。


『たーちゃん』


 大好きな人を表す大嫌いな言葉。


 麻梛は、その言葉を耳にする度、頭の中がぐちゃぐちゃになって、吐き気がした。

 奈美子は、小言を一通り終えて満足したのか、リビングのソファーに体を沈めた。


「今日は和菓子を買って来たから、緑茶がいいわね」


 麻梛は尊に言われて、奈美子の為に様々な飲み物を用意している。

 麻梛は、奈美子に緑茶を出した後、「私は洗濯物を取り込んできますので、お義母さんはゆっくりしていて下さい」と言って、ベランダへ出た。

 早く肺の空気を入れ換えたくて、深呼吸を繰り返す。

 布団を干しておいて良かったと心底思った。それだけ、奈美子と顔を合わせる時間が少なくなる。

 麻梛は布団を取り込み、丁寧に洗濯物を畳んでリビングへと戻る。

 それを待っていたかのように奈美子は、テレビのボリュームを少し下げる。

 隣の奥さんが、また夜のうちにゴミを出していたとか、誰々の旦那が浮気しているみたいとか、どこどこの息子が引きこもりらしいとか。どうでもいい話や、根も葉もない噂話に、麻梛は、いかにも真剣に聞いているかのように相槌を打つ。

 とにかく、まずは夕食の買い物に出掛ける時間までの我慢だ、と自分に言い聞かせながら。


 麻梛が買い物から帰り、夕食の準備を始めても、奈美子はまだリビングに居座っていた。再び麻梛にとって、どうでもいい話が始まる。

 今日も尊が帰ってくるまで、そうしているのだろう。


「ただいま」


 午後七時を過ぎた頃、ようやく尊が帰宅した。奈美子は、尊の顔を一目見ると、満足気な表情を浮かべ、帰り支度をする。一応、少し多めに夕食を用意するようにはしていたが、麻梛の料理が気に食わないのか、一緒に食べることは殆ど無かった。


 麻梛が感じている漠然とした不安の種は、奈美子の行動だけではなかった。

 最近、夫婦の会話で『ママ』に関する話が、明らかに増えてきている。

 それと反比例するように、尊が麻梛に触れる回数は減ってきていた。

 今思えば、ここに引っ越して来る前の尊は、頻繁に母親と電話で話していた。

 今は休日になると「ママの顔を見てくるよ」といって出掛ける。

 さらには、麻梛の料理に満足していた尊が、「たまにはママの味が食べたいなあ」と言うようになっていた。


 極め付きは、麻梛が何の気なしに「また転勤ってあるの?」と、尊に聞いた時だった。


「うちの会社は、基本的に転勤は無いんだ。支社毎に独自で社員を雇ってるからね。無理を言って、こっちに転勤させてもらったんだよ」


 尊は穏やかな笑みを浮かべながら、こう続けた。


「いつでも、すぐにママに会えるからね」


 普通の人の母親との関係性が、いまいちピンとこない麻梛でも異常だと理解出来る。

 今更ながらに気付いたのだ。尊が極度のマザコン男だったのだと。

 だからといって、今の生活が全部奪われるなんてことは無いかもしれない。

 しかし、ある日を境に、尊のマザコン度合いが増し続けていると、麻梛は感じていた。


 それは、義父の成貴が転落事故で死んだ直後からだった。



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