麻梛の過去②
だけど、それは長く続かなかった。工場が閉鎖になってしまったからだ。
外国人労働者の一人が失踪したのをきっかけに、杜撰な管理体制や、不法就労などの問題が発覚したからだった。
麻梛は茶色い小瓶をポケットの中で握り締め、仕方なく次を探していると、たまたま通りかかったレストランで、求人募集をしていた。
飛び込みで面接を受けると、すぐ採用が決まった。
レストラン八俣は、看板メニューの八俣のおろしハンバーグが絶品で、料理によってアルコール度数や産地の違うビールを出し、特に夜は一定の賑わいを見せていた。
カウンター席では、「近頃、この辺りで物騒な事件が起きてるらしいな」とか、ビール片手に、店で知り合った客同士、世間話で盛り上がっている。
尊は常連の一人だった。
尊はいつも、窓際のテーブル席に陣取り、おろしハンバーグを食べた後、つまみとビールを頼み、本を読んだり、時にはノートパソコンをいじったりしていた。
麻梛にとっては、ただの常連客の一人だったし、自分から声を掛けるなんて事は無かった。
尊から声を掛けられたのは、麻梛が働き出してから半年が過ぎた頃だった。
尊は麻梛の胸に付いた名札をじっと見ながら、野暮ったい口調で喋り出した。
「
尊は伺うような上目遣いで、麻梛を見る。
「いつもビールのおかわりを頼もうと思ったタイミングで注文を取りに来てくれるから、テレパシーでも使えるのかと思って」
尊が、あまりにも馬鹿馬鹿しい話を、真剣な顔をして言うものだから、麻梛は不覚にも声を出して笑ってしまった。
麻梛は、何故笑われたのか分からないというような顔をした尊を一生忘れないだろう。
それから麻梛と尊は頻繁に会話をするようになった。
いつの間にか、それを楽しみにしている自分に、麻梛は気付いた。そんな気持ちが自分の中にあったなんて、信じられなかった。
初めての恋だった。
二人が店の外で会うようになるまで、それほど時間はかからなかった。麻梛が二十二歳、尊が二十八歳の時だった。
麻梛は尊に、たくさんの事を教えてもらった。
空が広いということ。
星が美しいということ。
潮風が心地いいということ。
体温の温かさ。
唇の柔らかさ。
そして、一人でいる事の寂しさ。
麻梛にとって、尊と一緒にいる時間のすべてが新鮮だった。
付き合い始めて三年が経った頃、麻梛と尊は結婚をした。
特にベットで一緒に寝ている時、背中に触れる尊の手の感触が、麻梛は好きだった。
まるで綿菓子の布団に包まれているように、甘くてふわふわした気分になった。
結婚をしてからも、それは変わらなかったし、永遠に続くものだと信じていた。
それが今、全部奪われようとしている。
他人から見れば、麻梛の思い込みだと言われるかもしれない。
だけど、灰色の生コンクリートが、どんどんと心の中に流れ込んでくるようだった。このままでは、いずれ窒息してしまうと麻梛は思っていた。
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