@Sakaki5491

 蝉の鳴き声が嫌いだ。夏のうだるような暑さに加え、あの耳障りな鳴き声は元々弱い私の神経をすり減らした。今年の夏は特に暑かった。この国では今世紀の最高気温を記録した。そのせいか昼間は蝉すらどこかに隠れて鳴くことはなかった。しかし、その揺り返しは深夜から夜明けに訪れた。蝉たちの求婚は本来、皆が眠りに落ちる時刻に行われた。真夜中になると訪れる蝉たちの大合唱はニュースにもなった。インタビューされた人々の一部には、ただ煩いと感じる者だけでは無く眠れないと語った。私もその一人だった。不眠は日常生活にも影響を与えた。仕事や趣味が手に付かない。これでは困ると色々と対策を講じてはみた。色々といっても耳を塞ぐ程度のことだが。耳栓、イヤホン、ヘッドホン、イヤーマフ。それぞれしっかりと効果はあった。一番良かったのは耳栓だろう。眠るのに邪魔になる事もない。それでも眠れなかった。無音のはずなのに蝉の鳴き声が聞こえる。耳栓の上からヘッドホンやイヤーマフを着けても聞こえ続けた。幻聴だろう。私はノイローゼになった。最終手段だった。私は医者にかかることにした。幼少期のトラウマで医者は嫌いだったが、仕方がなかった。

 病院に行く数日前の夜のことだった。その夜も私は眠ることが出来なかった。一週間と少しの不眠。私は朝までベッドに横になっている辛さをいい加減に理解していた。久しぶりの散歩に出ることにした。イヤホンと大音量の音楽がお供だった。丁度深夜の十二時に差し掛かる頃だった。大音量の音楽を前にしても蝉の鳴き声が漏れ聞こえてくるような気がした。しかし何も対策をしないよりはよっぽどマシだった。家の前の小道を抜けて公園近くの大通りへと出た。コンビニに向かおうと少し歩いた時だった。私の身体が吹き飛ばされた。一瞬何が起きたのか理解できなかった。身体中が痛んだが、特に頭が痛む。自然と口からうめき声が漏れた。暫くしてから道路に倒れていることに気がついた。日が落ちてから時間が経っていたからだろう。路面は冷たかった。前方に明かりが見える。赤い光が点灯し消えた。ブレーキライトだったのだろう。ドアの開く音がして人影がこちらの様子を伺ってから社内に駆け戻ると車を急発進させた。私の意識は途切れた。

 目が覚めると病院のベッドで横になっていた。腕には点滴が繋がれていて、頭がガンガンと痛んだ。枕元にあったナースコールを押すと看護師と一緒に医者がやってきた。医者は丸い老眼鏡をかけた初老の男だった。彼が話しかけてきた。彼の顔を暫くぼーっと眺めていた。そこで漸く異変に気がついた。彼の声が聞こえなかった。音に意識を集中する。彼の声だけではなく世界から音が消えていた。

 結論だけ話せば事故にあった時に酷く頭を打ったことが原因で耳が聞こえなくなったようだ。それから医者とは筆談で会話を進めた。手術などの治療を試みたが効果は無かった。莫大な治療費が掛かった。仕事を失った。親の遺産と貯金が幸いして何とか生活することが出来た。暗闇でしっかりと視認することが出来なかったため、私を轢き逃げした犯人も見つからなかった。一年間、地獄のような日々を過ごし私の脆い神経は更にすり減っていった。一方でこの一年で得たものあった。手話を覚えた。口の形から喋っている内容を理解する方法を完璧ではないが理解した。常に筆談ができるようにノートとペンを携帯するようになった。新しい仕事も探した。次の一年はストレスは多いが前年よりは幸せな日々が待っていた。努力が幸いして新しい仕事を得た。新しい出会いもあった。取引先の女性だった。最初の出会いは彼女が取引でこちらの会社にやって来た時だった。偶然にも会社の入り口で彼女に道を尋ねられた。会議室の場所を尋ねられたが、私は一回で理解することが出来なかった。私は彼女に耳が聞こえないことを伝えた。一瞬彼女は戸惑ったような表情を見せたが、両手を胸元に挙げて手話で会議室の場所を尋ねた。あの時の私の驚き様は未だに彼女に誂われる。後で聞いた話だが、彼女は大学時代にボランティアサークルで手話を覚えたらしい。それから彼女は何度か会社を訪れた。それが彼女との交際のきっかけだった。

 あれから数年後、私達は結婚した。耳の聞こえない状態にも慣れ始め少しずつ元の生活へ近いものとなっていった。彼女との生活は私の精神にも良い影響を与えたのか穏やかな気持でいられる日々も増えた。これが現在の私だ。

 季節が過ぎあの事故から丁度十度目の夏。蒸し暑い日々が始まった。どうやら10年前のあの年と同じくらいの炎夏となった。妻曰く、今年も夜になると蝉の大合唱は始まるようだ。私に比べておおらかな妻は気にせずに眠ることができるようだ。私ももう蝉の声を聞くことはない。そう考えると穏やかな日々がおくれる。

 久しぶりに眠れない夜がやって来た。妻は隣ですでに寝ている。眠れずにベッドに横たわっているのは辛いが、未だに夜の散歩に出る気にはなれなかった。完全に無音の世界。未だに音が恋しくなる事がある。何も聞こえない世界は不安になる。今なら蝉の鳴き声すら懐かしい。目を閉じて奴らの鳴き声を思い出す。ミーンミーンという鳴き声が聞こえた気がする。また幻聴は困る。私は目を開けて聞こえるはずのない耳を澄ました。変わらずに鳴き声が聞こえる。鼓動が早くなる。気の所為ではないかと締めてあった窓を開ける。蝉たちの鳴き声が更に大きく聞こえるようになる。私は革新に近いものを得た。そう、耳が聞こえるようになった。喜びのあまり隣に寝ている妻を揺すり起こす。彼女は眠そうに目を擦りながらこちらの方を見て口を開いた。彼女が何かを問いかけてくる。しかし、私の耳にはその声が聞こえることは無かった。彼女が言葉を発した瞬間、蝉の鳴き声が大きくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

@Sakaki5491

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ