3.大ピンチ逃走劇

3-1

 冷たくてジメジメした地下監獄の中で過ごした時間は永遠のように長かった。日の届かない牢屋は四六時中薄暗く、カビと細菌の温床になっていた。俺は藁の上に横たわり、時折鼻水を啜りながら、闇に包まれた天井を虚ろに見上げた。


 俺はこの閉ざされた空間で、闇と寒さと苦い思緒に纏わりつかれたまま、じっと横たわっている。ここは、本当の意味の底辺なのだろう。誰もが羨ましがるほどの高みに居た俺が、こうして犯罪者に成り下った。かつて人間界での暮らしが、うたた寝に見る夢のような不確かなものに感じた。


「ああ。人生、無常なり」俺は弱々しく呟いた。

 聖者のように悟りを開いてしまったということは、もはや精神に異常をきたしているかもしれない。


 窃盗犯、強姦犯、放火犯、殺人犯……

 俺の周りにいるのは危険なオーラを発する奴ばっかりだ。時折、奴らは俺に話しかけてきた。罪を反省している奴もいれば、そうではない奴もいる。どちにしろ、奴らの言葉は毒性の含んでいる。話を聞いているうちに、俺は犯罪者たちがアドレナリン中毒なのではないかと思うようになった。隣の牢屋に居る凶悪犯の巨漢が俺に言った。罪を犯す瞬間、彼は堪え難い興奮と高揚感に身も心も持っていかれる。その感覚を、もう一度味わいたいと。

 自制のできない哀れな奴、なんて、昔の俺ならバカにしていたのだろう。しかし不思議と、今はそんな気分になれない。善悪の議論は抜きに、奴らの言葉は、俺がずっと意識の深層に封じ込めている獰猛な感性をくすぐってくる。


 親に敷かれたレールを盲目的に生きてきた俺は、気がつけば好きなのかどうかも分からない物事で両手が塞がっていた。思い切って何かをする勇気など、とっくに失われたのだ。そう思うと、俺は奴らがちょっと恨めしい。


 投獄されてから半月あまりが経ったころ、俺の悪意無き罪について判決が下った。ホワイトストーンにおいて最も重い刑、すなわち斬首だ。


 スカートの下を覗いたくらいで命まで奪われるとは、理不尽にも程がある。これはきっと、ナナコ様の秘密を知ってしまったことへの口封じに違いない。ナナコ様の権力を以ってしたら、リーナと俺の間の契りを断つことができるそうだ。ただし、首輪が外れた後に待つのは永遠の死ならば、俺は首輪を嵌めた人生を選びたい。その方が、まだ「0」ではない可能性がある。


 やがて訪れる処刑の日を、俺は恐怖に打ちひしがれながら指を折ってカウントダウンした。瞼を閉じると、血塗られた断頭台がホラー映画のワンシーンのように浮かんでくる。寝ても起きても居られず、体はやつれ、眼窩は黒く陥没し、死に取り付かれた様相に俺はなっていた。


 処刑の前夜、極度の寝不足と疲労に朦朧としながら、俺はいつものように牢屋の天井を見上げていた。すると突然、排気口の奥から物音がした。死神が訪ねてきたかとびっくりして飛び上がり、息を潜めて音源の方角を見つめる。


 ガサゴソとひとしきに音がしたあと、鉄格子の目から緑色の粘液が垂れてきた。粘液は地面に落ちて積み上がり、やがて一つの塊を形作った。

 

 スライムだ。よく俺の練習に付き合ってくれた良い奴だ。

 

 驚きのあまり口を開いた俺に、スライムは触角を体の上中央に当て、「シー」とジェスチャーして見せた。それから体を蠢かし、もう一つの触角を俺に突き出した。先っぽからぬめっと出てきたのは、一本の鍵だ。


「もしかして、俺を助けに……」声を押し殺しながら、俺の視界が忽ち涙に霞む。

 俺に鍵を渡すと、スライムはまた触角を伸ばし、今度は俺の首輪にぶら下った銀色の札を指した。

「え、リーナが?」

 スライムは頷き、触手を蠢かせて地面に何かを書いた。道順のようだ。牢屋から出て地下水路に入り、街の外れに出るという内容だ。スライムの複雑に曲がりくねた筆跡を俺は一回見ただけで完璧に覚えた。受験勉強で鍛え上げられた暗記力は思いもよらぬところで役に立ったようだ。

 俺が自信ありげに頷くと、スライムはさっとひと撫でして書いたものを消した。案外抜け目のない奴だ。


「幸運を祈るよ」と言っているかのように、スライムが俺の肩をポンポンと叩いた。

「ありがとう。一生恩に着るよ」俺は目尻の涙を拭った。

 スライムはまた頷き、それから体を細長く伸ばして通気口の中に戻っていった。それを見送ってから、俺は早速鍵を使って牢屋の扉を開け、忍び足で外に飛び出た。

 

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